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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第132話。


真玉橋(まだんばし)人柱(ひとばしら)



 むかし(むかし)の、沖縄(おきなわ)ではよく()られた、お(はなし)です。那覇(なは)豊見城(とみぐすく)(あいだ)(なが)れる(かわ)()かる、真玉橋(まだんばし)にまつわる、七色(なないろ)むーてぃー(元結)、と()ばれる(はなし)です。
 親子三人(おやこさんにん)()らす家族(かぞく)がいたそうです。母親(ははおや)七色(ななしょく)髪飾(かみかざ)り、七色(なな)むーてぃーを、していました。
 真玉橋(まだんばし)(つく)られた最初(さいしょ)、いくら(はし)()けても、増水(ぞうすい)する(たび)(はし)(なが)れてしまい、何度(なんど)(はし)()(なお)さなければ、なりませんでした。そこで、(はし)(つく)(ひと)(なか)に、民間(みんかん)(うらな)いをした(ひと)がいて、(なな)むーてぃーしているせじ(せじ)(※霊力)(つよ)(おんな)(はし)一緒(いっしょに)()めない(かぎ)り、この(はし)はいつまでも(なが)される、と()われたそうです。
 その結果(けっか)親子三人(おやこさんにん)母親(ははおや)が、生贄(いけにえ)として、(はし)(とも)()められることになってしまいました。その(いえ)には、(おんな)()一人(ひとり)いました。()められに()(さい)(はは)(むすめ)()うことには、
 「あなたは、容姿容貌(ようしようぼう)(うつく)しいのは幸運(こううん)だけれども、(しあわ)せになるために、これから他人(たにん)より(さき)(はなし)をし(はじ)めては、いけませんよ。」と。
 それから(はは)家族(かぞく)(わか)れ、(はし)下敷(したじ)きになったそうです。
 父親(ちちおや)は、もうここにはいられないと(おも)い、(むすめ)()れて山原(やんばる)(ほう)(うつ)ったそうです。
 やがて、(むすめ)(おお)きくなり、十七、八(さい)になりました。(むすめ)(はは)遺言(ゆいごん)(まも)っているのか、あの()以来(いらい)言葉(ことば)(まった)(はな)しませんでした。
 父親(ちちおや)(むすめ)()()って山原(やんばる)(うつ)()んだ(はなし)を、何年(なんねん)()って、偶々(たまたま)(つた)()いた(はし)責任者(せきにんしゃ)である役人(やくにん)は、息子(むすこ)()んで、可哀想(かわいそう)なことをした父親(ちちおや)(むすめ)さんの(ところ)()き、よくお()びをして()なさいと、()ったそうです。
 こうして、(おな)じく役人(やくにん)息子(むすこ)が、国頭(くにがみ)まで()ったところ、ある海辺(うみべ)で、女性(じょせい)(ひと)(しず)かに、(あそ)んでいたそうです。(おとこ)は、綺麗(きれい)(むすめ)さんだなあと(おも)いながら、自分(じぶん)がこれから(たず)ねたい(ひと)(いえ)()いてみました。
 すると(むすめ)は、(くち)(ひら)かず身振(みぶ)りで方角(ほうがく)(おし)えます。役(やくにん)が、(ふたた)び、その(いえ)まで案内(あんない)してくれるように、(たの)んでみました。すると(むすめ)(うなず)き、(だま)ったまま(おとこ)(まえ)(ある)(はじ)めました。
 ()れて()かれた(さき)は、なんとその(むすめ)父親(ちちおや)(いえ)でした。
 役人(やくにん)は、()われてきた(とお)りを父親(ちちおや)(つた)え、礼儀(れいぎ)()くして(あやま)りました。
 それが()わってから、役人(やくにん)父親(ちちおや)に、何故(なぜ)(むすめ)さんは言葉(ことば)(はな)さないのかと、(たず)ねてみました。
 すると父親(ちちおや)(はな)すことには、母親(ははおや)最期(さいご)(わか)れの(とき)に、(むすめ)遺言(ゆいごん)をしたためだと()いました。それは、他人(たにん)より(さき)に、(くち)(ひら)(おんな)になってはいけない。「(むぬ)ゆみ者や馬ぬさちとゆん」(※お喋り者は馬の先を歩いて災いを招く、の意)(まも)りなさいと、()(のこ)したことを(はな)しました。そしてそれ以来(いらい)(はは)(おし)えを(まも)ってか、突然(とつぜん)(おさ)なくして大好(だいす)きな(はは)(うしな)ったためか、(むすめ)は、一言(ひとこと)(はな)さなくなったと()ました。
 すると、その(はなし)()()わった役人(やくにん)(はな)()しました。
 (じつ)(ちち)()()けで、()ず、あなた(がた)親子(おやこ)に、お()びをしてから、言葉(ことば)(はな)さなくなった可哀想(かわいそう)(むすめ)さんを、(わたし)(よめ)()(もら)えないか(たの)みなさいとも()われて、こうして、やって()ました。しかしながら、言葉(ことば)(はな)さない(むすめ)さんが、(わたし)のような(もの)一緒(いっしょ)首里(しゅり)()らすようになって、()たして(しあわ)せになるものでしょうかと、(たず)ねました。
 それから三人(さんにん)は、色々(いろいろ)(はな)()ったそうです。
 やがて、父親(ちちおや)(むすめ)()かって、お(まえ)がもしこの(ひと)(よめ)になりたいなら、そうしなさい。けれども、この(かた)(よめ)になってからは、きちんと(くち)(ひら)いて言葉(ことば)(はな)せるのかと()きました。
 すると(むすめ)は、
 「はい。そう(いた)します。」と。
そう(こた)えて、この(おとこ)(つま)になったそうです。しかも(むすめ)()うことには、数日前(すうじつまえ)に、(はは)(ちょう)になって自分(じぶん)(まえ)(あらわ)れ、そうするようにしなさいと()われていると、いうのです。
 こうして(むすめ)(おとこ)()首里(しゅり)(とつ)ぎ、夫婦(ふうふ)仲睦(なかむつ)まじく、美人(びじん)謙虚(けんきょ)(よめ)(もら)った(おとこ)は、出世(しゅっせ)したそうな。

 
※この話の参考とした話
高木~「源助柱」
沖縄本島・沖縄県那覇市首里石嶺~『那覇の民話資料』第三集真和志地区(2)』
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~『渡慶次の民話』読谷村民話資料7
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~『宇座の民話』読谷村民話資料6
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村伊良皆~『伊良皆の民話』読谷村民話資料1
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~『瀬名波の民話』読谷村民話資料4


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●伝承地
高木~「源助柱」
沖縄本島・沖縄県那覇市首里石嶺~昔ね、真玉橋の話でね、七ムーティー(七色元結)というのがあった話を、お婆さんたちから聞いたよ。それで、親子が三人で暮らしてね、七ムーティーしている女の人が、あっちこっちの村を拝むのをやっていたらね。そしたらね、真玉橋は、いくら架けても流れて、りっぱに架からなかったらしいけどね。それで、その橋を造った人がね、「これは残念なことだ。どうしようかなあ」と言って、こう思っていたときにね、この七ムーティーしている女がね、通りかかったらね、「この橋はどうして架からないのかね、娘さん」と言ったので、 「これはもう、ここに七ムーティーしている人を埋めないことにはね、この橋は架かりませんよ」と言った。それで、橋の近くを何かこう捜したけれど、七ムーティーの人は、いなかったんだね。もしやこの女が、七ムーティーしているかもしれないので、この女の人の髪の毛をみてみたらね、七ムーティーしていたんだね。このことが原因でこの人は、橋に埋められてしまうことになったんだけどね。その家には、親子三人だけど、女の子が一人いたんだね。それで埋められに行くときね、母親が娘に、「おまえはね、もう顔は美しいからいいけれど、人より先にものは言うんじゃないよ」と言って、別れて橋の下敷きになったんだね。それで、父親と娘は、ここにはいられないといって、何かあの山原のあたりに行ったんだね。そして、この娘が大きくなって、十七、八になってもことばを話さない。ことばを話さなくなったからね。それで、首里のこの橋の仕事を受け持っていたかしらの役人にね、父親が、「こういうわけだから、行ってからおわびをしなさい」と言ったんだけどね。役人が国頭まで行ったら海辺で、この女の子が遊んでいたんだって。「ああ綺麗な娘さんだなあ」と思ったがね。その娘は、ことばを話さなかったんだね。それで、「おまえの家は、どこなのか」と言ったらね、「どこのどこだよ」と身ぶりで教えた。「それじゃ連れて行ってくれ」と行くと、それから、連れて行かれたのは、その父親の家で、父親は、「こういうわけで、七ムーティーしていた私たちの家の家族でございます」と言った。「そうか、だけどどうしてこんなにことばを話さないのか」と言うとね、「これは母親が橋のところに埋められるときにね、『顔は人より優れていてもね、人より先にものは言わないよ』と言ったから、それを守っているはずです」と言ったんだって。その役人の父親の言いつけでは、「おわびだからね。こういう女の子がいるから、この娘を嫁さんにしてきなさい」と言われたんだけどね。嫁にするつもりではいたが、これはことばを話さなかったらどうしたものかと、こう三人で考えていたんだね。そしたら、この父親がね、「おまえはね、母親のことを守ってからね、ことばを話さないはずだから、今からはね、おまえはこの人の嫁になって、出世するから、口をひらきなさい」と言った。それで、この娘はしゃべったんだね。この人はね、出世して首里に行ったんだって。(『那覇の民話資料』第三集真和志地区(2)』)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~辰年生まれの人を埋めないと橋は完成しないということになった。いよいよ、金持ちの家の娘と、貧乏人の娘のどちらかということになった。貧乏人の娘は自分が犠牲になれば盲のお父さんの眼を治すことが出来ると言って埋められることを申し出た。すると神様がその娘を助けた。(『渡慶次の民話』読谷村民話資料7)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~母親が真玉橋の人柱になったために、唖になった娘が、偉い人に慕われ、結婚を申し込まれたが、男方の親は、唖の嫁などいらないといって反対した。ある時、蝶が飛んで来て歌を歌った。それを聞いて娘も後に続いた。それから物を言うようになり、嫁として迎えられた。(『宇座の民話』読谷村民話資料6)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村伊良皆~首里の侍が、娘を気に入り、嫁にしようと思った。それで、娘と娘の父親を連れて、首里に向かった。家に帰ってみると、侍の親達は他所から妻にする人を連れて来てあった。一方の娘が侍に言い寄るのを見て、唖だとばかり思っていた娘が物を言った。(『伊良皆の民話』読谷村民話資料1)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~真玉橋の請負の長男が娘に一目惚れし、是非妻にしたいと思って家に連れて行った。男の家では、物も言えない娘ということで反対した。丁度そこへ蝶が飛んで来た。その蝶が母親だとわかっていたのか、娘は「話をさせて下さいお母さん」と言った。以来話をするようになり、その男の妻になった。(『瀬名波の民話』読谷村民話資料4)


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dedeさん、こんにちは。

真玉橋の話、知りませんでしたか?
もう大丈夫です。
ずっと昔から、知ってたことにすれば、いいんですから(笑)。

まったく、
役人がわざわざ過ちを詫びに行かせたり、
娘さん親が、それを許すというところが、とても心がジーンとして良いです。
沖縄ならではの、温かい心が、感じられます。

現代に生きる私たちにとって、学ぶことが多いお話です。

こちらこそ、いつも、ありがとうございます。では。
Posted by 横浜のtoshi at 2011年05月03日 00:46


こんばんは。

真玉橋は週に2,3回は渡ってますがこのような話があるとは思いませんでした。(汗)
でも最後は役人さんが過ちを詫び、娘さん親子もそれを許すというところが良いですね。
現代に生きる私たちにとっても学ぶことが多いお話でした。
ありがとうございます。^^
Posted by dededede at 2011年05月02日 23:15


今晩は(^^)

私、結婚前に1度、沖縄に引き揚げたことがあります。
6年前のことです。(この時に初めて、沖縄の賃金とかボーナスが無い企業があることを知ります。それは置いといて(笑))

ハロワーク通いをしていて、コリンザの中にもハローワークが
あってその中の劇場でたまたま劇団58号線の演劇を見ました。
ユタが出てきていて、取り上げ方がとても考えさせられました。

那覇市の本屋さんで手に入れた琉球の文献の中には、toshiさんがいうように琉球政府がユタを禁止?的なことしか書かれていなかったので劇団58号線の演劇は私にとってはある意味”開眼”でしたね。
江東区で最後の王様が亡くなっていることにも大変、驚かされます。

話は尽きないです(^^)
勉強させて頂きます!

PS
toshiさん、成績が悪くて無口だったのですね・・・。
私は、人は変らざるを得ない事を、
特に沖縄の戦後・・・アメリカが創った歓楽街に働かざるを得なかった女性達の姿からも、痛いほど見て取れます。
沖縄に限らずですが・・・。

”こんな女に誰がした~♪”の歌の歌詞をを聴く度に、何故か胸が締め付けられます・・・。
Posted by スーさん at 2011年05月02日 21:49


こんにちは。

生け贄というと、何か被害者のように、感じてしまう方も多いようですが、
日本だけに限らず、神への生け贄の場合は、
自分から犠牲になる場合が、決して少なくありません。
あるいは、選ばれて、みんなのために、我が身を捧げるというのが多いです。

この話の場合、
正規の神人、つまり巫女である、チィフィジンやノロやツカサではなく、
琉球王府は、ユタを、神人とは認めてこなかったので、
その点に、まず、留意しないと、いけないわけです。

それに、ユタが、他のユタを人柱に選ばせているようにも、感じられます。
琉球政府が、そんな事を、この時代といえども容認しない筈です。

それから、人は、変わるものです。
僕なんか、成績が悪かったせいで、無口な子どもでしたから。
今までどうだったか以上に、これからが、大切ですよ。では。
Posted by 横浜のtoshi at 2011年05月02日 14:07


こんにちは(^^)

ご無沙汰ですみません。
私は4人妹弟の長女です。

中学の頃に両親が離婚して母代わりになって、初めて妹とスーパーに二人っきりで買い物に行きました。
妹に「この洗剤の値段を聞いて来て。」というと恥ずかしいから聞けない・・・と言いました。

私はお肉屋さんに並ぶために時間短縮で妹に頼んだのですが・・・。仕方なく私がレジまで行って聞くことに。
誰も信じてくれないですが、私は人見知りが激しく恥ずかしがり屋です。長女で妹弟を守る思いが強く出るようになってからは
何故か、学校でも職場でも前に出されるポジションに置かれます。

本当は読書が好きなので家に居るのが大好きです。
誰も信じてくれませんが・・・(笑)

それから人柱は、福島県の白河市に半年暮していた時に駅前の城の城壁に人柱をしたと地元の方が説明していたのを覚えています。

人柱は生贄というのをtoshiさんのブログで再認識しました。
そういえば、ある時から心霊写真に”生贄の台”が写りこむことが増えたそうです。
平成12年頃のテレビ番組でやっていのを思い出しました。

実際の写真も出ていました。撮影した性別、年齢もバラバラ。
ルーブル美術館だったり、京都の清水寺だったり、
自宅でお子さんを撮っていたりですが・・・

はっきりと生贄の台が映りこんでいました。
これは大変興味深かったですね。
横道にそれました。

口は災いの元・・・気を付けたたですね。
Posted by スーさんスーさん at 2011年05月02日 13:20


にかちゃん、こんにちは。

真玉橋の話は、僕のブログでは、何度目かで、
資料も多いので、文字の量は多くても、何とか書けました。
次の、一日橋は、もっと文字の量が多くて、そこまでは書けたんですが、
資料が少ないので、久々に苦戦しています。

真玉橋の人柱ですが、その後の芝居のために、
大体、上と似たような話が多くて、
那覇首里の人は、この話を、よく知っている人が多いです。
一方、特に読谷ではこの話が人気で、つまり地域性に合致していたようです。

ただ、元からあった民話が、どういう話だったのかが、今ひとつなんです。

人柱は、確か昔、調査された時に21体の遺体が出てきて、
それを、人柱だとする人、それは元々墓があった上に橋を造ったに過ぎないとする人、
橋が壊れて一緒に埋まった人(これは、ちょっと厳しい考えかた)など、
明治~昭和にかけて、研究者も色々と活発に意見を言っていたわりに、
その後は、あまり、展開せず、そのままになっている気がします。

地元の伝承話ですか?
取材して、そして、色々と知って、
その時の想い出として、よみがえってくるとは、素晴らしい事です。
日常会話と違って、民話や小説は、中味が深く濃いのが多いですから。

いつもコメントありがとうございます。では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年05月02日 07:21


20~25才まで、国場に住んでいました。
真玉橋を通って、豊見城の職場に通っていました。。
この話は、お年寄りから聴いてしっていました。。
とても、興味深く・・足元を知る事の重要性を知りました。。
25~33才まで新潟に住み、地元の伝承話を取材するようになっていました。。
想いで深い、お話です。。
Posted by にかちゃんにかちゃん at 2011年05月02日 00:38


セコムさん、こんにちは。

口は災いの元、の意味だけでとどまらないようで、この話の場合、どうも先があるようなんです。

遺されたのが、女の子の場合と、男の子の場合があります。
しゃべり過ぎや、ひとこと多いのは、男女、関係がないという事のようです。

琉球王府の神職にある者ではないものの、シャーマンとも言えないようです。
人柱になる母は、普通の人ではないようで、
神の言葉、様々な言霊(ことだま)を話せたとも言われ、
自分に備わった力が、娘にもあると見抜いているフシがあります。
それを踏まえた上での、娘への戒めの気がします。

ぺらぺら、ゆんたくして、余計な事を軽々しく言うのは、
軽薄のように言われ、確かに気をつけるべきですが、
意外に軽口ですから、害が低かったりします。

元々、話すことが戒められているわけではなくて、
考えない事への戒め、深く考えずに言葉を軽々しく口にする事への戒めです。

ただ、逆の、重々しい言葉こそが、
他への影響力が強くて、
よく使う人に対して、真逆に使う人がいて危険で厄介です。

話す言葉より、行為を見れば、明らかだったりしますが、
批判精神の能力が正しく備わっていない人は、生きていくのが大変です。

いつもコメントありがとうございます。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年05月01日 17:54


真玉橋の人柱の話は知ってるつもりでしたが…

娘さんが口をきかなくなつたと話の
つづきがあるのは知りませんでした。

親戚の年配者に「ぺらぺらしゃべって余計な事を言わないようにしなさいと」子供の頃よく言われた事をこの話を読んで思いだしました。

親戚の年配者は、この話の事を言っていたんでしょうね。
Posted by セコム at 2011年05月01日 16:40


ちゅらさん、こんにちは。

暦どおりなので、飛び石の休みで連休では無く、仕事が忙しい毎日を送っております。
ちゅらさんは、いかが、お過ごしでしょうか。

テレビの天気予報で、沖縄は梅雨入りと言っていましたが、単にそれだけで、
雷・稲光の事は伝わって来なかったので、知りませんでした。

「物ゆみ者や馬ぬさちとゆん」という言葉は、その意味以上に、
お互いに、相手に向かって使い合ってこそ効果がある言葉だと、私は教えられました。
初めて聞いた時、その点が特に印象に残りました。

コメント、ありがとうございます。
Posted by 横浜のtoshi at 2011年05月01日 16:28


こんにちは GW如何お過ごしですか?
沖縄は入梅 昨日夕方からかなりふりました。雷・稲光凄かった

「物(むぬ)ゆみ者や馬ぬさちとゆん」この言葉今は亡き両親によく聞かされました。神謝
Posted by (有)ちゅらさん(有)ちゅらさん at 2011年05月01日 12:32


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

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