中里のすらぎ ~琉球沖縄の伝説

2011年05月25日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(2)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第146話。


中里(なかざと)の、すらぎ



 奄美(あまみ)喜界島(きかいじま)喜界町(きかいちょう)の、中里(なかざと)海辺(うみべ)に、「すらぎ」と()ばれている場所(ばしょ)があります。此処(ここ)には、とても綺麗(きれい)清水(しみず)()()(いずみ)があります。
 (むかし)からここで、(うみ)から()がった人々(ひとびと)(しお)(あら)(なが)したり、(あつ)()には(つめ)たい(みず)(のど)(うるお)したりしてきました。(むら)人々(ひとびと)にとっては、貴重(きちょう)()(みず)であるため、水道(すいどう)()かれるまでは、()えずを(みず)()みに(ひと)()(はなし)をする、(にぎ)やかな(ところ)でもありました。
 この場所(ばしょ)(つた)わる、お(はなし)があります。
 むかし(むかし)奄美大島(あまみおおしま)名瀬(なぜ)浦上(うらがみ)で、(わか)男女(だんじょ)が、小舟(こぶね)()って(あそ)んでいたそうです。
 ところがどうしたことか、突然(とつぜん)(しお)(なが)れが()わり、(ふね)(きし)から遠離(とおざか)(はじ)め、あれよあれよという()に、どんどん(おき)()(なが)され、どうすることも出来(でき)なかったそうです。
 小舟(こぶね)海原(うなばら)を、()きつ(しず)みつしながら、()()のように(なみ)()られ(つづ)け、()っていた二人(ふたり)は、運命(うんめい)(てん)(ゆだ)ねる(ほか)ありませんでした。やがて、気候(きこう)(おだ)やかだったこともあり、何時(いつ)しか二人(ふたり)は、うとうと居眠(いねむ)りを(はじ)めました。そして、どれだけ時間(じかん)()ったのでしょうか。
 (ふね)(なみ)()られていないことに気付(きづ)いた二人(ふたり)は、()()がって見渡(みわた)したところ、奄美大島(あまみおおしま)(やま)ほど(たか)(ところ)がない、(はる)(とお)くまで(ひら)けた(しま)海岸(かいがん)に、漂着(ひょうちゃく)していたのでした。
 命拾(いのちびろ)いをして(よろこ)()った二人(ふたり)は、まず自分達(じぶんたち)がいる(しま)がどこなのかを(たし)かめようと、周囲(しゅうい)をあちこち(ある)いてみたものの、皆目(かいもく)見当(けんとう)がつきません。この(なが)()いた場所(ばしょ)が、(いま)でいう中里(なかざと)海辺(うみべ)の「すらぎ」だったのです。
 なお女性(じょせい)はこの(とき)身重(みおも)で、出産(しゅっさん)(ちか)(からだ)だったそうです。その(うえ)(ふね)()られ(つづ)けたせいでしょうか、上陸(じょうりく)して()もなく産気(さんけ)づき、(たま)のような()()んだそうです。
 (ちち)(はは)は、「すらぎ」の泉水(せんすい)で、()まれた赤児(あかご)()(きよ)め、()どもの前途(ぜんと)祝福(しゅくふく)されるようにと、お(ねが)いしたそうです。
 それから数日(すうじ)()った()()のことです。()ども()ぶった(はは)が、「すらぎ」で洗濯(せんたく)をしていたところ、突然(とつぜん)「すらぎ」の(いわ)(くず)()ち、可哀想(かわいそう)なことに、母子(ぼし)はその下敷(したじ)きになって、()()()りました。それはあっという()出来事(できごと)でした。
 それ以来(いらい)、「すらぎ」の(ほとり)では、()()な、赤子(あかご)()(ごえ)と、それにまじって(はは)()をあやす「よし、よし」という(こえ)が、()こえ(はじ)めたということです。(おそ)らく(はは)()も、(あま)りに(きゅう)出来事(できごと)だったために、自分達(じぶんたち)()んだことに気付(きづ)いていないのでしょう。
 その(こえ)(むかし)からずっと現在(げんざい)まで(つづ)き、夜釣(よづ)りの漁夫(ぎょふ)はじめ、この(こえ)(みみ)にする(ひと)は、(あと)()たないそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「夜泣石」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町中里~『喜界島古今物語』


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●伝承地
柳田~「夜泣石」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町中里~喜界町中里の海岸に「すらぎ」と呼ばれている所がある。此処に、奇麗な清水が湧きでる泉があって、夏時、海水浴を楽しんだ若者達が、冷い淡水で塩気を洗ったり、漁夫が飲料水を汲みに来たりでにぎやかになる場所である。古老は語る。昔、大島は、浦上の付近であった出来事だとか。若い芸人らしい男女が小舟に乗って遊んでいたが、どうした事か、舟は岸を離れて「アレヨ、アレヨ」という間に、潮の流れに、ずるずる押し流されてどうすることも出来なかった。浮きつ、沈みつ、波にゆられて、運命にゆだねる外に道がなかった二人は、小舟の中に身も魂も託して、いつしか「ウト、ウト」としていたが、幾刻(何時間)経ったのであろう?舟が、波にゆられているようでないのに気づき、起き出てみたら、山は見えないけれど、遥かに遠くへひらけた島の、海浜に寄せられているのではないか。命拾いに喜びあった二人は、やがて、上陸して、その島がどこであるかを確かめようとしたが、皆目わからなかった。何と此処が、中里のすらぎであろうとはーー。女は、蜜月の身持ちであった。舟にゆられた勢もあってか、上陸して間もなく産気づき、間もなく玉のような子供が初声あげて生まれ出た。二人は、すらぎの泉水で、赤児の身を清め、前途の祝福を祈ったが、或る日、子供をおんぶしてオムツなど洗濯していると、すらぎの岩が崩れ落ちて、可哀想に、母子はその下敷きになって此の世を果てたという。それ以来、すらぎのほとりでは、夜な夜な赤子の泣き声にまじって、母のあやす「よし、よし」という声が絶えなかったと伝えられている。昭和の今でも(一九六四)時々、夜釣りの漁夫が、この声を耳にした、と噂とりどり。(『喜界島古今物語』)


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笑い猫さん、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

きっと、実際にあったままの、お話なんですかねぇ?

首里の赤木の話? 僕、知りません。今度、教えてね~。

お婆ちゃんの思い出と一緒に、
地域の伝説や民話が、思い浮かんでくる、
これぞ沖縄や、地域の民話ならで、デージ素適なことですね。

沖縄のみなさんには、きっとそんな、忘れかけている素適な思い出が、あるんでしょうねぇ。

僕は横浜の港、山下公園で、
よくお婆ちゃんを思い出します。

むかし、外国に売られていった子どもの話「赤い靴」や、
関東大震災、横浜大空襲の時の話を、思い出します。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年05月26日 18:12


あまりにも突然で、ちょっと悲しいお話ですね・・・。
 
 誰かを恨めしいとか、その場所に近づくな という話ではなく、
子供の泣き声とそれをあやす母の声。。

 母子の気持ちを考えると心が痛みます。

 子供の声の民話?といえば、首里の赤木の話がありますね?
 
 昔、祖母ちゃんが
 「この赤木を伐ろうとすると、赤ん坊の泣き声がするんだよ」と
散歩道によく言っておりました。
 
 それ以来、大人になってもこの赤木を下だけは
小走りになってしまう小心者デス。。。
Posted by 笑い猫笑い猫 at 2011年05月26日 00:29


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