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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第160話。


ウンカミ(やま)



 大宜味(おおぎみそん)(そん)大保(たいほ)の手前(てまえ)御崎(みさき)は、北山(ほくざん)中山(ちゅうざん)(たたか)った(とき)北山(ほくざん)敗残兵(はいざんぺい)中山(ちゅうざん)追討兵(ついとうへい)対岸(たいがん)布陣(ふじん)して、(ぞく)にメーデー(※悪戦苦闘(あくせんくとう)し、そこで()(あら)った目洗(めあら)いより(てん)じてメーデーと()ばれたそうである)といわれるここで(たが)いに(たたか)った場所(ばしょ)だそうです。
 メーデーから大保(たいほ)にかけての一帯(いったい)地名(ちめい)はテッポーヤーと()ばれますが、その()にかつて火薬倉庫(かよくそうこ)があってその()()いたと古老(ころう)(つた)えます。
 大保(たいほ)長虹堤(ちょうこうてい)(わた)ってメーデーを()ぎると、(きよ)らかな(なが)れがあり、滝川(たきがー)()らかなばれます。その(うえ)には、サンタキやウンカミ(やま)があります。前者(ぜんしゃ)には北山(ほくざん)(くず)れの落武者(おちむしゃ)(かく)れた(ところ)と伝(つた)わる井戸(いど)(あと)があります。(※>(ただ)しくは北山(ほくざん)(くず)れでなく、今帰仁(なきじん)城主(じょうしゅ)怕尼芝(はにじ)田港(たみなと)根謝銘屋(にざんやー)()合戦(かっせん)(おも)われる)後者(こうしゃ)のウンカミとは(あたま)意味(いみ)で、沢山(たくさん)白骨(はっこつ)一塊(ひとかたまり)になって(まつ)られています。メーデーで、対岸(たいがん)イクサンザキの中山軍(ちゅうざんぐん)(たたか)(やぶ)れて(きず)ついた(もの)はここで(きず)(あら)いつつ後退(こうたい)し、サンタキに()げてきて(かく)れ、何日(なんにち)かここで(なん)()けて(かく)れていたところ、(のち)発見(はっけん)されて、ここにいた落武者(おちむしゃ)戦死(せんし)したともいわれています。しかしながら、その(くわ)しい場所(ばしょ)不明(ふめい)で、それでも遺骸(いがい)はウンカミ(やま)(まつ)られたと()われているそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「千騎谷」
沖縄本島・沖縄県国頭郡大宜味村字大保~『大宜味のむかし話』


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●伝承地
柳田~「千騎谷」
沖縄本島・沖縄県国頭郡大宜味村字大保~大保手前の崎で、北山崩れの時、北山の敗兵と中山の追討兵とが対岸、俗にメーデー(悪戦苦闘しそこで目を洗った目洗いより転じてメーデーという)と互いに陣取って戦った所である。メーデーより大保に至る一帯の地名をテッポーヤーと称しているが、元その地に火薬倉庫があってその名が出来たと古老は話している。大保の長虹堤を渡り、メーデーをすぎれば、水清き流あり、滝川と称す。その上には「サンタキ」「ウンカミ山」がある。前者は北山崩れの落武者の隠れた所といい井戸の形跡もある。(頭注 北山崩れでなくて今帰仁城主怕尼芝と田港根謝銘屋の祖との合戦ではなかったか)後者ウンカミとは御頭の義である。沢山の白骨が一塊になってまつられている。メーデーで対岸イクサンザキの中山軍と戦い敗れて傷つけるものはこれを洗いつつ後退し、サンタキの所に至って隠れ、難を避けて幾日か隠れていたが、後発見されてこれらの落武者は、戦死し(その所は不明だが)その遺骸はウンカミ山にまつられたと考えられる。(『大宜味のむかし話』)


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