平家丘 ~琉球沖縄の伝説

2011年06月19日

Posted by 横浜のトシ at 20:20│Comments(0)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第161話。


平家(へいけ)(ムイ)



 奄美(あまみ)喜界島(きかいじま)長嶺(ながみね)には、ウィニシマ(上島)サンシマ(下島)があります。周辺(しゅうへん)(とも)水田(すいでん)(ひら)けています。この一帯(いったい)水田(すいでん)は、平家(へいけ)によって強制的(きょうせいてき)(ひら)かれたともいわれております。ここで出来(でき)(いね)(とく)(かお)りが()いことで有名(ゆうめい)で、また美味(びみ)だったので、薩摩硫黄島(さつまいおうじま)御所(ごしょ)献納(けんのう)したといわれています。
 平家(へいけ)(ムイ)元々(もともと)自然(しぜん)高台(たかだい)で、その(すそ)()(くぼ)めて、()(つち)(うえ)(はこ)び、展望台(てんぼうだい)をより(たか)くしたといわれています。その(さい)労働(ろうどう)のために強制徴用(きょうせいちょうよう)された島人達(しまびとたち)は、着物(きもの)(そで)(つち)(はこ)んだという()(つた)えがありますが、実際(じっさい)のところ、(みずか)着物(きもの)(つく)って使(つか)うほど手先(てさき)器用(きよう)だった(しま)人々(ひとびと)が、(たけ)豊富(ほうふ)(しま)で、竹笊(たけざる)手籠(てかご)使(つか)わなかったとは(かんが)(にく)いとされています。(いず)れにせよ長嶺(ながみね)付近(ふきん)一帯(いったい)は、平家(へいけ)(かく)(ざと)であったようです。また平家(へいけ)(ムイ)は、交通上(こうつう)(うえ)一帯(いったい)中心(ちゅうしん)になるよう(つく)られ、七城(ななじょう)小野津(おのづ)伊実久(いさねく)伊砂(いさご)坂嶺(さかみね)大朝戸(おおあさと)といった(むら)から(みち)(つな)がっているそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「平家谷」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町長嶺~『喜界島の民俗』


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●伝承地
柳田~「平家谷」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町長嶺~長嶺にはウィニシマ(上島)とサンシマ(下島)があって、周辺はともに水田が開けている。一帯の水田は平家の強力な指導監督によって開かれたという。ここの稲は特に香りがよく美味だったので硫黄が島の御所(ごしょ)ヘ献納したといわれている。平家丘(ムイ)は自然の高台であるが、その裾を掘りくぼめ、出た土は台上に運んで展望台は高くしたといわれている。その際、労働のために強制徴用された島人たちが、着物の裾で土を運んだと語られているが、それはまことしなやかなうそである。自らの手で着物を作るだけの文化を持った島民が、竹の豊富な島で竹ざるや手籠を持たなかったとは考えられないからである。長嶺付近一帯は平家の隠れ里ではなかったかと思われる。一帯の中心地である平家丘は交通上の要点を占めている。七城、小野津、伊実久、伊砂、坂嶺、大朝戸などは俚道によって平家丘につながっていた。
(『喜界島の民俗』)


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