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ウフランシューのムヤ ~琉球沖縄の伝説

2011年06月28日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(2)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第167話。


ウフランシューのムヤ



 むかし(むかし)のお(はなし)です。
 奄美(あまみ)喜界島(きかいじま)早町(そうまち)の、大浦家(おおうらけ)祖先(そせん)に、ウフラ・ウフランという(ひと)がいました。
 ウフランシューは、大層(たいそう)犬好(いぬず)きで、いつも()(いぬ)(ともな)って(そと)出掛(でか)けていたそうです。
 ()()のこと、愛犬(あいけん)一緒(いっしょ)に、白水(しらみず)との(さかい)で、(おか)(ふもと)(ちか)くの自分(じぶん)(はたけ)(うし)(たがや)(はじ)めました。しばらく仕事(しごと)(つづ)けていると、いつもなら仕事(しごと)()わるまで大人(おとな)しく()っている愛犬(あいけん)が、突然(とつぜん)()(くる)わんばかりに()(はじ)めました。そして、(はたけ)北側(きたがわ)(そび)える丘陵(へいりょう)斜面(しゃめん)にあった、ムヤ(※風葬時代(ふうそうじだい)古墳(こふん))()(のぼ)っては、()ぐさま()()りて()(うし)()えかかり、(いま)にも(うし)足元(あしもと)()みつく(いきお)いです。愛犬(あいけん)何度(なんど)もそれを()(かえ)すので、不思議(ふしぎ)(おも)いで()ていたウフランは、やがて(いぬ)()って、ムヤに()きました。
 すると、(だれ)もいない(はず)のムヤの内部(ないぶ)で、沢山(たくさん)人々(ひとびと)(さか)んに(はたら)いているではありませんか。
 棺桶(かんおけ)御霊屋(おたまや)(つく)っている大工(だいく)もいれば、(しろ)着物(きもの)()人々(ひとびと)や、御馳走(ごちそう)(こしら)えている女性達(じょせいたち)もいます。また、入口(いりぐち)(ちか)くの帳場(ちょうば)のような(ところ)では、(なに)やら色々(いろいろ)記帳(きちょう)している(ひと)もいます。
 古墳(こふん)(なか)()たウフランは、この()光景(こうけい)とは(ちが)様子(ようす)(おどろ)くと(とも)に、(おそろ)しくなって、背筋(せすじ)冷水(れいすい)()びた心境(しんきょう)でした。
 しかしながら最後(さいご)には、興味(きょうみ)恐怖(きょうふ)()()って、()(けっ)したウフランは(おも)()って、ムヤの内部(ないぶ)(はい)って()きました。
 そして、帳場(ちょうば)(あるじ)質問(しつもん)することには、
 「ぶしつけで失礼(しつれい)ですが、みなさんはここで、(なに)をしていらっしゃるのでしょうか。」と。
 帳場(ちょうば)(あるじ)()うことには、
 「一七(ひとなぬ)()(うち)に、(ちか)くにある早町(そうまち)という(ところ)にいる、ウフラ・ウフランという(もの)が、ここに()ることになっている。それで、(いま)、そのお(むか)えの準備(じゅんび)()最中(さいちゅう)なのだ。」と。
 それを()いたウフランが、(こし)()けんばかり(おどろ)いたのは、()うまでもありません。
 しかしウフランは、(だま)ってこの()から()()したところで、(なん)解決(かいけつ)にもならないと(かんが)えました。また、こんな(とき)気持(きも)ちが(くじ)けてしまうようではいけないとも(おも)いました。つい滅入(めいり)りそうになる(ここ)(むち)()って、勇気(ゆうき)(ふる)って()うことには、
 「ウフラ・ウフランは、(なに)(かく)そう、この(わたくし)です。
 (わたくし)此処(ここ)()ないで()むような、(なに)かいい方法(ほうほう)は、ないものでしょうか。是非(ぜひ)とも御教(おおし)(くだ)さいますよう、お()(いた)します。」と。
 そういって哀願(こんがん)しました。
 すると(あるじ)()うことには、
 「勿論(もちろん)方法(ほうほう)は、ないでもないが、しかし……。」と。
 その()会話(かいわ)(にご)して、なかなか(おし)えてはくれません。ウフランは、必死(ひっし)懇願(こんがん)(つづ)けました。そして(ようや)くのこと、(あるじ)心境(しんきょう)(なん)とか(うご)かすことが出来(でき)ました。
 (あるじ)()うことには、
 「あなたをお(むか)えする、三日前(みっかまえ)(まで)に、(うし)(つぶ)して、それを(さけ)(さかな)にして、ウフユーワェー(大祝)(もよお)しなさい。
 それから、喜界島(きかいじま)()どもが()まれた(とき)に、(はは)(へそ)()()いている(あいだ)(いえ)(だれ)かがウブガミの()わりにさす、あのイヤギ(斎矢木)を、貴方(あなた)(おな)(とし)()まれた(おとこ)(おび)にでも()しなさい。
 それから、貴方(あなた)は、ヒョンガナシ(竈の神)(かたわ)らで、ファマッター(鍋の蓋)(かぶ)ったまま、じっと(うご)かず(うずくま)っていなさい。」と。
 そう(おそ)わったウフランシューは、(いそ)いで(いえ)(もど)り、早急(そうきゅう)準備(じゅんび)(ととの)(はじ)めたそうです。大事(だいじ)納税(のうぜい)のための(うし)(ころ)させ、ウフユーワェー(大祝)(もよお)しを(ひら)きました。
 親族縁者(しんるいえんじゃ)はじめ、早町(そうまち)(じゅう)人々(ひとびと)招待(しょうたい)しての、盛大(せいだい)酒宴(しゅえん)となりました。(えん)(たけなわ)(とき)(かれ)はこっそり()(はず)し、同年(どうねん)()まれの友人(ゆうじん)別室(べっしつ)(さそ)()し、二人(ふたり)()()しました。そして死霊(しりょう)から(おそ)わった(とお)り、()(つぶ)れた(とも)イヤギー(斎矢木)(えだ)()すと、自分(じぶん)ヒョンガナシ(竈の神)(わき)で、ファマッター(鍋の蓋)(かぶ)って(うずくま)りました。そしてこれからどんな(こと)()こるのか、様子(ようす)(うかが)いながら、ひたすらじっとしていました。
 しばらく()った(とき)友人(ゆうじん)は、あの()から()(ひと)()()てられ、恐怖(きょうふ)()(さけ)びながら部屋(へや)から()()ったのでした。ウフランは(ひそ)かに(むね)()()ろすと、宴会場(えんかいじょう)(もど)りました。
 ウフランの身代(みがわ)りになった(おとこ)(こと)には、(だれ)気付(きづ)いていません。一晩中(ひとばんじゅう)人々(ひとびと)(うた)い、また(おど)りに(きょう)じていました。
 この(こと)があってから、ウフランの(はなし)次第(しだい)()られるところとなり、同年(どうねん)()まれの(ひと)ウフユーワェー(大祝)は、どんな(こと)があっても同席(どうせき)してはならないという習慣(しゅうかん)()まれました。そして先祖(せんぞ)から子孫(しそん)へ、(おや)から()への(いまし)めとして、(なが)(あいだ)(つた)えられてきました。
 (なお)愛犬(あいけん)(たす)けられたウフランの(いえ)では、代々(だいだい)(いぬ)(おん)感謝(かんしゃ)し、(いぬ)()べる(こと)()(きら)って、それは現代(げんだい)(おや)んでいるそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「諏訪の水穴」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町早町~『喜界島古今物語』


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●伝承地
柳田~「諏訪の水穴」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町早町~早町は、大浦家の祖先にウフラ・ウフランという人がいた。ウフランシューは、犬好きで、いつも、飼犬を伴って外に出ることにしていたという。或る日、例の、愛犬を伴って、白水との境、丘の麓近くにある畠へ、牛耕に出掛けて行き、しばらくワクをつづけていると、かねては、おとなしく仕事の済むまで待っている愛犬が、気も狂わしげに、牛の足許に噛みつくのではと思われる程吠えしきり、あるいは北側に聳(そび)ゆる丘陵の斜面にあるムヤ(風葬時代の古墳)へ馳けて行き、時をうつさず、また馳け下りて来て、牛の足もとに吠えつくではないか。かくすること、数回に及んだので、ウフランも、不思議な事だと、思ったのであろう、犬が馳け登ったあとを追うように、ムヤを訪れてみた。ムヤの内部では、さかんに立働いていて、棺桶や御霊屋(おたまや)を工作している大工もいれば、白い着物を縫うたり、御馳走を拵(こしら)えている女達もいる。入口近くの帳場では、何やら記帳しているではないか。ウフランは、驚き、且つ恐れて、背筋に、冷水を浴びせかけられた思いでしたが、思切って内部に入り、帳場の主だった人に、「ここで何をしていらっしゃいますか。」と問うと、「一七(ひとなな)日(か)中(うち)に、早町のウフラ・ウフランが来ることになっているので、只今、お迎えの準備の最中だ。」と聞かされて、彼は、仰天せんばかりに驚いた。けれども、ウフランは、ここで挫(くじ)けていては大変である。ややともすると、滅入り勝になる自分に鞭打って、勇気を鼓して、「ウフラ・ウフランは、私ですが、此処に来ないように、何とかいい方法はないものでしょうか。御教え下さい」と哀願した。すると、「別に方法がないでもない、でも……。」と、後を濁して、快く教えようとはしなかった。彼は、必死になって懇請をつづけ、漸(ようや)く其の心境を動すことが出来たものであろう。「では、あなたをお迎えする三日前までに、牛を屠(ほふ)って、それを肴(さかな)にウフユーワェー(大祝)を催し、同じ年に生れた男にイヤギーを指して、貴方は、ヒョンガナシ(かまどの神)の傍にファマッター(鍋の蓋)をかぶって、うずくまっていなさい。」と教えてくれた。ウフランシューは、急いで家に帰り、早急に準備を整え、大事な使役牛を殺させてウフユーワェーを催し、親族縁者はもとより、早町中の男女を案内して盛大な酒宴とはなった。と、宴酣(えんたけなわ)なる頃、彼は、座をはずして、死霊の教えどおりに、同年生れの友人に、イヤギーをさして、自分はヒョンガナシ(かまどの神)の脇にファマッターをかぶってうずくまり、どうなることかと、じっと様子を伺っていた。しばらくすると、友人は、あの世の人に引立てられて、泣き叫ぶ声も高らかに出て行くのであった。ウフランは、やっと、胸をなで下ろして、宴会場に戻ることができたが、身代り立たされた男は、知らぬが仏、夜の耽(ふ)けるのも知らずに、歌い、踊り興じていたという。この事があってから、同年生れの人のウフユーワェーには、どんなことがあっても、同席に臨まぬ習慣が出来た、と古人はいましめている。犬に助けられたウフランの家では、代々、犬の恩に感謝して、犬を食うことを忌み嫌って現代におよんでいると。(『喜界島古今物語』)


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Girls168さん、はいさい、今日拝なびら。
お店のますますのご発展、お祈り致します。

故人と同じ干支の人が、火葬場には行かれない、
そして、
お墓を開ける時に、いてはいけないというのは、
沖縄独特の慣習のような気がします。

理由は、誘われて一緒にニライカナイに連れて行かれないようにするためとか。

ただ正直なところ、沖縄や奄美のどこまでの地域かというと、自信がありません。

しかしながら、他の日本の地域では、
(成人に達しない、特に幼い)子どもが亡くなると、
両親が火葬場に行かれないというのは、今でもごく一般的な因習です。
また、妊婦や幼い子どもが行かれない地域もあって、
それは確か、ある仏教(忘れました)がもつ言い伝えのためです。

お葬式や、焼き場、お墓まいりの際に、
行きと、帰りの道を変える風習の方ですが、
これは日本中の風習で、特に地方では今も残り、特別な事ではありません。

むしろ、それすら先祖から子孫に伝わっていなくて知らない大人が、
都会を中心に増えていそうですが。

コメント、ありがとうございます。では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年07月16日 17:43


こんにちは!

ご無沙汰していますm(__)m
元気にしていましたでしょうか?

このお話..なんか言葉が出ないですねっ。

でも、犬や猫を食べていたのは本当のようで(><;)

同じ干支の人が火葬場に行くのがダメというのは内地でもあります?
お父さんがおじいと同じ干支で火葬場に行けなくて
最後を見とれないの淋しそうでしたが、一緒に火葬場に行くと
連れてかれるだか..
また行きと帰りのバスの道が違うのも着いて来ないようにだそうで
こいうのも内地にもあります?

横浜のtoshiさんのお話は勉強になります!
Posted by Girls168Girls168 at 2011年07月16日 16:22


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