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~琉球沖縄に伝わる民話~

新訳球陽外卷(きゅうようがいかん)遺老(いろうせつでん)』第5話

城殿(ぐしくどぅん)




 (とお)(むかし)時代(じだい)首里城(しゅりじょう)(にわ)(みなみ)に、城殿(ぐしくどぅん)南殿(ふぇーぬうどぅん)番所(ばんじゅ)位置(いち)創建(そうけん)しました。
 近世(きんせい)(いた)ると、その城殿(ぐしくどぅん)(はい)して、(あらた)めて御番所(うばんじゅ)(かま)えました。
 しかしながら(なが)年月(ねんげつ)()(ひさ)しいため、どの(おう)時代(じだい)城殿(ぐしくどぅん)()てられ、また廃止(はいし)されたのかよくわかりません。



 
※注や解説

往昔(おうせき)】~()()った(むかし)大昔(おおむかし)往古(おうこ)昔々(むかしむかし)(はる)(むかし)(いにしえ)
禁城(きんじょう)】~天子(てんし)居城(きょじょう)宮城(きゅうじょう)(したが)って首里城(しゅりじょう/すいぐすく/すいぐしく)をいう。
城殿(ぐしくどぅん)】~城殿(ぐしく・とうん)。じょうでん。
南殿(ふぇーぬうどぅん)】~南殿(なでん/なんでん/みなみどの)南向(みなみむ)きの殿舎(でんしゃ)(ぞく)南殿(ふぇーぬうどぅん)(べつ)南風御殿(はえのうどぅん)などとも。創建(そうけん)は1621~27年とも、第二尚氏王朝・第8代国王・尚豊王(しょうほうおう)の時代とも。節句(せっく)といった倭風(わふう)儀式(ぎしき)(おこな)い、また薩摩在番奉行(さつまざいばんぶぎょう)接待(せったい)をする場所(ばしょ)琉球國(りゅうきゅうこく)最大(さいだい)木造建造物(もくぞうけんちくぶつ)である正殿(せいでん)国殿(こくでん)百浦添御殿(ももうらそえうどぅん))から()(ひだり)殿舎(でんしゃ)首里城(しゅりじょう)正殿(せいでん)()かって、右側(みぎがわ)建物(たてもの)。この建物(たてもの)は、「南殿(なんでん)」と「番所(ばんじゅ)」が廊下(ろうか)(つな)がっているが、(ひだり)二階建(にかいだ)ての部分(ぶぶん)が「南殿(なんでん)」、(みぎ)一階(いっかい)部分(ぶぶん)平屋(ひらや)部分(ぶぶん)が「番所(ばんじゅ)」。南殿(なんでん)番所(ばんじゅ)(とも)に、外装(がいそう)塗装(とそう)された(こと)があるという記録(きろく)()く、「白木(しらき)仕上(しあ)げ」、つまり白木(しらき)そのままの仕上(しあ)げであったのが特徴(とくちょう)。つまり正殿(せいでん)北殿(ほくでん)朱塗(しゅぬ)り、南殿(なんでん)番所(ばんじゅ)は「白木(しらき)仕上(しあ)げ」で朱塗(しゅぬ)りではなかった。
御番所(うばんじゅ)】~(ぞく)御番所(うばんじゅ)などといわれた。(う/ご/お)番所(ばんじゅ/ばんどころ/ばんしょ)首里城内(しゅりじょうない)警備(けいび)のため、番頭(ばんがしら)はじめ、勢頭(しーどぅ)筑登之(ちくどぅん)がつとめる場所(ばしょ)だったとも。
【原文】往昔之世禁城庭南創建城殿(在南殿番所地)至于近世廢其城殿改構御番所然歴年已久不知何代而興且廢焉


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