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~琉球沖縄に伝わる民話~

新訳球陽外卷(きゅうようがいかん)遺老(いろうせつでん)』第13話

鉄縄礁(てつじょうしょう)




 (とお)(むかし)時代(じだい)那覇(なは)屋良佐(やらざ)(ぐすく)(した)に、一つの鉄縄礁(てつじょうしょう)がありました。
 かつては、海賊船(かいぞくせん)来襲(らいしゅう)(おそ)れ、いつも敵襲(てきしゅう)(さい)(てつ)(なわ)をこの岩礁(がんしょう)(つな)ぎ、(まえ)もってもしもの(とき)(そな)えとしました。
 そしてその鉄縄(てっしょう)は、近世(きんせい)になるまで、親見世(おやみせ)(くら)にありました。



 
※注や解説

往昔(おうせき)】~()()った(むかし)大昔(おおむかし)往古(おうこ)昔々(むかしむかし)(はる)(むかし)(いにしえ)
屋良佐(やらざ)(ぐすく)】~「やらざぐすく」。那覇(なは)(こう)()(ぐち)(きず)かれた砲台(ほうだい)尚清王(しょうせいおう)二八(一五五四)(ねん)築建(ちくけん)され、戦前(せんぜん)までは存在(そんざい)していたが、現在(げんざい)はないと(おも)われる。『由来記(ゆらいき)』には、「屋良佐(やらざ)(むい)(おき)」とある。屋良佐(やらざ)(ぐすく)(ただく)しくは屋良佐(やらざ)(むい)(ぐすく)。「屋良佐(やらざ)(ぐすく)」は、那覇(なは)(こう)南岸(なんがん)にあり、北岸(ほくがん)三重城(みーぐすく)(とも)に、(しょう)清王(せいおう)時代(じだい)の一五五一(ねん)に、倭寇(わこう)海賊(かいぞく)撃退(げきたい)のために(つく)られた(しろ)。一九〇六(ねん)(がつ)那覇(なは)()編入(へんにゅう)される小禄(おろく/うるく)(そん)垣ノ花(かきのはな)所属(しょぞく)戦後(せんご)から現在(げんざい)もなお米軍(べいぐん)桟橋(さんばし)として周辺(しゅうへん)占領(せんりょう)されたまま使用(しよう)されているため、所在(しょざい)判明(はんめい)(にく)い。わずか、がじゃんびら公園(こうえん)から見下(みお)ろして(なが)められる程度(ていど)である。そもそも首里(しゅり)王府(おうふ)時代(じだい)三重城(みーぐすく)屋良佐城(やらざぐすく)は、那覇港(なはこう)発展(はってん)(ともな)って、本文(ほんぶん)にもあるように(くに)防御(ぼうぎょ)として整備(せいび)されていった。貿易(ぼうえき)拠点(きょてん)となる(みなと)歴史(れきし)は、琉球(りゅうきゅう)(こく)時代(じだい)(とお)して、牧那渡(まきみなと)/牧湊(まきみなと)(とまり)(※天久の港)最後(さいご)那覇港(なはこう)へと(うつ)った。そして、交易(こうえき)活発(かっぱつ)になるにつれ、倭寇(わこう)海賊(かいぞく)(なや)まされるようになり、対策(たいさく)として那覇港(なはこう)()(ぐち)両岸(りょうがん)に、三重城(みーぐすく)屋良佐城(やらざぐすく)(きず)かれ、ここから(てき)攻撃(こうげき)すると(とも)に、(てき)湾内(わんない)への侵入(しんにゅう)(てつ)(くさり)()って(ふせ)いだ。島津(しまづ)(はん)最初(さいしょ)琉球(りゅうきゅう)()めて()(さい)侵入(しんにゅう)()()めている。島津(しまづ)(はん)はここからの上陸(じょうりく)(あきら)めて(ほか)(まわ)らざるを()なかったが、その退却(たいきゃく)撃退(げきたい)したと(あま)判断(はんだん)したことがその()、やすやすと首里城(しゅりじょう)開城(かいじょう)につながったとも。(みなと)に、海賊船(かいぞくせん)()れないために、小島(こじま)小島(こじま)(あいだ)を、(てつ)出来(でき)(くさり)にせよ(なわ)にせよ、(うみ)(なか)()ったのであり、進入(しんにゅう)できないでいる(ふね)には両岸(りょうがん)から攻撃(こうげき)(くわ)えられた。時代(じだい)から(かんが)えると、(たと)実物(じつぶつ)がどんな(もの)であったにせよ、それは琉球國(りゅうきゅうこく)(ちから)(しめ)象徴(しょうちょう)の一つであったと想像(そうぞう)できる。またそれを()琉球(りゅうきゅう)人々(ひとびと)が、どんなに安心(あんしん)し、また(くに)(ほこ)りに(おも)ったかが、この(はなし)から(つた)わってくる()個人的(こじんてき)にする。那覇港(なはこう)はいうまでもなく、十四~十六世紀(せいき)にかけ、(ひがし)アジア屈指(くっし)貿易港(ぼうえきこう)であった。
鉄縄礁(てつじょうしょう)】~鉄縄(てつじょう)をかける岩礁(がんしょう)。『由来記(ゆらいき)』には「クサリ瀬」とある。
親見世(おやみせ/うぇーみし)】~「おやみせ」。(とく)首里王府(しゅりおうふ)貿易(ぼうえき)をつかさどる役所(やくしょ)(のち)には那覇(なは)行政(ぎょうせい)をつかさどる役所(やくしょ)となった。現在(げんざい)那覇(なは)()東町(ひがしまち)にある地名(ちめい)琉球(りゅうきゅう)王府(おうふ)時代(じだい)貿易(ぼうえき)事務(じむ)(てつづ)きを(おこな)う、「うぇーみし(親見世)」という役所(やくしょ)があったのでその()がついた。それは時代(じだい)(うつ)()わりと(とも)に、役目(やくめ)はじめ様々(さまざま)なものに()わっていった。地名(ちめい)としての名残(なご)りは、(たと)えば、路面(ろめん)電車(でんしゃ)駅名(えきめい)見世の前(みせのまえ)」がかつてあった。現在(いま)医師会館(いしかいかん)()説明(せつめい)のようにその(あた)りが中心地(ちゅうしんち)であった。また、「見世の前大綱(みーしぬめーうーんな)」という、親見世前(おやみせまえ)(とお)りで(おこな)われた大綱引(おおつなひき)きは有名(ゆうめい)だった。そもそも戦前(せんぜん)まで「那覇(なは)綱引(つなひ)き」は、年度(ねんど)によって、(おこな)場所(ばしょ)(ことな)っていた。親見世前(おやみせまえ)通堂(つうどう/とんどう)大通(おおどお)り、(つじ)中道(なかみち)若狭町(わかさまち)馬場(ばば)(おこな)われたという。
※「尚清王(しょうせいおう)」一四九七ー~一五五五(ねん)在位(ざいい)一五二七ー一五五五年、(だい)尚氏(しょうし)王朝(おうちょう)(だい)(だい)国王(こくおう)
【内容】屋良佐城下の鐵繩礁のこと。
【原文】往昔之世那覇屋良佐城下有一鐵繩礁嘗恐賊船來至常繋鐵繩于此礁以爲頂備而其鐵繩至于近世藏在于親見世


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