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~琉球沖縄に伝わる民話~

新訳球陽外卷(きゅうようがいかん)遺老(いろうせつでん)』第3話

時双紙(ときそうし)




 未開(みかい)(ひら)けていない(おお)むかし時代(じだいよ)、まだ文字(もじ)人々(ひとびと)が持()たなかった(とき)(てん)(かみ)占書(うらふみ)(『時双紙(ときそうし)』)(たずさ)えて(てん)から人々(ひとびと)()らすこの地上(ちじょう)()()って、占書(うらふみ)内容(ないよう)人々(ひとびと)(おし)えたそうです。
 占書(うらふみ)(なか)文字(もじ)(かず)は、百字(ひゃくじ)(あま)り。
 その(のち)、ある(ひと)(こよみ)(うえ)物事(ものごと)をするのに()くないとされている()だというのに、自分(じぶん)(いえ)改修(かいしゅう)しました。
 (てん)(かみ)はそれをご(らん)になって、(かみ)()わりに占書(うらふみ)人々(ひとびと)(うらな)って指導(しどう)する(もの)()()けて()うことには、
 「今日(きょう)大凶(だいきょう)()であるのに、(いえ)改修(かいしゅう)をさせてしまうとは、一体(いったい)どうしたことだ。」と。
 (うらな)()(こた)えて()うことには、
 「その(もの)(わたくし)(ところ)()相談(そうだん)せず、また勝手(かって)にしたことを(わたくし)(なに)ができたでしょうか。」と。
 すると(かみ)激怒(げきど)して()うことには、
 「あの(もの)(ひと)となりは、まったくもって愚者(ぐしゃ)なのであって何一(なにひと)()らない。
 お()はどうして自分(じぶん)から出掛(でか)けて()って(おし)(さと)さないのか。」と。
 とうとう()(うらな)()から占書(うらふみ)(うば)うなり、それを()()(やぶ)()てて、(てん)(のぼ)ってしまわれました。
 それからというもの(いま)まで現存(げんぞん)して(のこ)っている占書(うらふみ)文字(もじ)は、十干(じゅっかん)十二支(じゅうにし)だけである。



 
※注や解説

天人(あめひと・てんにん)】~天上界(てんじょうかい)(ひと)(みやこ)の人。
占文/卜書(うらふみひ)】~(うらな)いなど(さだ)めた事柄(ことがら)(しる)した文書(ぶんしょ)
時双紙(ときそうし)】~琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)では(むかし)から、国家体制(こっかたいせい)維持(いじ)において重要(じゅうよう)な、聞得大君(ちふぃじん/ちふぃうふじん/きこえおおき(ぎ)み)祝女(のろ)八重山(やえやま)祝女(のろ)職名(しょうくめい)は「(つかさ)」)である「神人(かみんちゅ)」が祭祀(さいし)(つかさ)どってきたが、神人(かみんちゅ)(たん)なる巫女(みこ)ではなく、所領(しょりょう)をもち、俸禄(ほうろく)支給(しきゅう)される、いわば大名(だいみょう)なのであって、琉球(りゅうきゅう)国家(こっか)(ささ)える重要(じゅうよう)役割(やくわり)(にな)っていた。そのほか民間(みんかん)には、(うらな)()霊媒師(れいばいし)ユタが存在(そんざい)した。「ユタこーやーや、ちゅおーらせー(ユタを買う人は、人々を争わせる人である)」、「(おとこ)のジュリ()い、(おんな)のユタ()いは(いえ)(ほろ)ぼす」などといった数多(かずおお)くの(いまし)めの言葉(ことば)が、(とく)上流階級(じょうりゅうかいきゅう)中心(ちゅうしん)(つた)わってきたように、ある時期(じき)ユタが非常(ひじょう)()え、(とく)(がく)のない下層(かそう)階級(かいきゅう)(もの)(だま)される(もの)(あと)()たなかった。つまり(さず)かった霊感(せじ)悪用(あくよう)して収入手段(しゅうにゅうしゅだん)(おとし)める(うらな)いに()けた(もの)や、財産争(ざいさんあらそ)いのためなどに偽者(にせもの)のユタを利用(りよう)する(もの)(あと)()たなかったのであり、ユタによる琉球(りゅうきゅう)裏社会(うらしゃかい)次第(しだ)(ひろ)がって、何度(なんど)となく国家(こっか)として見過(みす)ごせないまでになったことがたびたびで、琉球王府(りゅうきゅうおうふ)はそのたびにユタを弾圧(だんあつ)した。琉球國(りゅうきゅうこく)歴史(れきし)(うえ)(くに)人々(ひとびと)のために無償(むしょう)(うらな)ったユタも(すく)なからず存在(そんざい)した反面(はんめん)(おお)くが(かみ)(かた)人々(ひとびと)(だま)して報酬(ほうしゅう)()た。そのため、(たと)えば、西暦(せいれき)一七二八(ねん)第二(だいに)尚氏(しょうし)、第(だい)十三(じゅうさん)(だい)国王(こくおう)尚敬王(しょうけいおう)時代(じだい)(とき)三司官(さんしかん)であった具志頭親方蔡温(ぐしちゃん・うぇーかた・さいおん)は、ユタ禁止令(きんしれい)()して、(くに)をあげて大々的(だいだいてき)()()まり、社会(しゃかい)根幹(こんかん)(ゆる)がすユタを撲滅(ぼくめつ)しようとした。その一環(いっかん)としてユタが経典(きょうてん)として悪用(あくよう)していた『時双紙(ときそうし)』を没収(ぼっしゅう)し、(すべ)()()てた。琉球国(りゅうきゅうこく)国書(こくしょ)であるこの民話(みんわ)も、そんな(くに)意図(いと)(つよ)反映(はんえい)されている(はなし)といえる。伊波普猷(いはふゆう)(ちょ)古琉球(こりゅきゅう)』に、明治(めいじ)(すえ)中頭郡(なかがみグン)中城村(なかぐすくソン)熱田(あつた/あった)小橋川(こばしかわ)という旧家(きゅうか)秘蔵(ひぞう)されているのが発見(はっけん)された(こと)があるという記載(きさい)があり、十干(じゅっかん)十二支(じゅうにし)であろうと()べている。
悪日(あくにち・あくび)】~(こよみ)(うえ)で、物事(ものごと)をするのによくないとされている()凶日(きょうじつ)。そのほか、(うん)(わる)()
占者(せんしゃ・せんじゃ)】~(うらな)いをする(ひと)。この(はなし)場合(ばあい)(かみ)代理人(だいりにん)
愚者(ぐしゃ)】~(おろ)(もの)(まった)知恵(ちえ)()(もの)簡単(かんたん)(だま)される(もの)反対語(はんたいご)は、賢者(けんじゃ)(かしこ)(もの)
十干十二支(じゅっかん・じゅうにし)】~十干十二支(じゅっかん・じゅうにし)は、現在(げんざい)(こよみ)である太陽暦(たいようれき)陽暦(ようれき)以前(いぜん)の、旧暦(きゅうれき)である太陰暦(たいいんれき)陰暦(いんれき)基本(きほん)となるもの。十干(じゅっかん)十二支(じゅうにし)を六十(とお)りに()()わせ、六十一回目(かいめ)からは(こよみ)最初(さいしょ)(もど)る。そのために現在(げんざい)でも六十一(さい)還暦(かんれき)、つまり(こよみ)最初(さいしょ)(かえ)(とし)としてお(いわ)いする。
三司官(さんしかん)】~琉球国(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)首里王府(しゅりおうふ)における、実質的(じっしつてき)行政(ぎょうせい)最高(さいこう)責任者(せきにんしゃ)三司官(さんしかん)(うえ)には摂政(せっしょう)存在(そんざい)するものの、通常(つうじょう)形式的(けいしきてき)(しょく)()ぎなかった。
具志頭親方蔡温(ぐしちゃん・うぇーかた・さいおん)】~「琉球(りゅうきゅう)()偉人(いじん)」の一人(ひとり)琉球(りゅうきゅう)歴史(れき)(なか)(もっと)(すぐ)れた大政治家(だいせいじか)といわれる。「蔡温(さいおん)」というのは唐名(からな/とうめい/とうみょう)、つまり中国風(ちゅうごくふう)姓名(せいめい)実際(じっさい)中国(ちゅうごく)留学(りゅうがく)帰国後(きこくご)は、尚敬王(ショウケイおう)重用(ちょうよう/じゅうよう)されて、(とく)農林業(のうりんぎょう)治水(ちすい)などの殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)や、行政(ぎょうせい)制度(せいど)整備(せいび)はじめ、国政(こくせい)全般(ぜんぱん)(うで)()った。そのために琉球国(りゅうきゅうこく)は、(だい)二期(にき)黄金時代(おうごんじだい)(むか)えることになる。また国家(こっか)新体制(しんたいせい)(ととの)って、国家(こっか)反映(はんえい)した。
伊波普猷(いは・ふゆう)】~「沖縄学(おきなわがく)(ちち)」として()られる人物(じんぶつ)民俗学者(みんぞくがくしゃ)啓蒙家(けいもうか)友人(ゆうじん)東恩納寛惇(ヒガシオンナ・カンジュン)の、(かれ)をいった(つぎ)言葉(ことば)がとても有名(ゆうめい)である。
 「(かれ)ほど沖縄(おきなわ)()った(ひと)はいない。(かれ)ほど沖縄(おきなわ)(あい)した(ひと)はいない。(かれ)ほど沖縄(おきなわ)(うれ)えた(ひと)はいない。(かれ)()ったが(ため)(あい)し、(あい)したために(うれ)えた。(かれ)学者(がくしゃ)であり、愛郷者(あいきょうしゃ)であり、予言者(よげんしゃ)でもあった」。
古琉球(こりゅうきゅう)】~歴史区分(れきしくぶん)で、農耕社会(のうこうしゃかい)成立(せいりつ)した12世紀頃(せいきごろ)から、琉球国(りゅうきゅうこく)成立(せいりつ)までを()すが、島津氏(しまづし)進入(しんにゅう)1609(ねん)までとする場合(ばあい)もある。
中城(なかぐすく)】~以前(いぜん)発音(はつおん)としては「なかぐすぃく/なかぐしく」などがある。中城(なかぐすく)間切(まぎり)。なお間切(まぎり)とは、古琉球(こりゅうきゅう)()から、1908(ねん)明治(めいじ)41(ねん)の「沖縄県(おきなわけん)島嶼(とうしょ)町村制(ちょうそんせい)」が施行(しこう)されるまで(つづ)いた、独自(どくじ)行政(ぎょうせい)区画(くかく)単位(たんい)間切(まぎり)(かん)自由(じゆう)()()制限(せいげん)されていた。
熱田(あつた)】~以前(いぜん)発音(はつおん)としては「あった」などがある。

【原文】大荒之際未有文字時天人帶占書(時双紙)降下此世敎之於民其文字數有一百餘字後人遇惡日修造居室天人見之召占者曰今日太凶令某人修室蓋屋何故答曰彼人不來問亦如之何天人怒曰彼人愚而不知汝何不往告耶遂奪其書裂破而上天今所存者不過十幹十二支而已

出来(でき)(わる)かった、(わか)かりし(ころ)蔡温(さいおん)
()(つた)えによると、蔡温(さいおん)(わか)(ころ)(まった)勉強(べんきょう)出来(でき)ない()ちこぼれだったという。
 蔡温(さいおん)(いえ)は、エリートの家系(かけい)(ちち)蔡鐸(さいたく)は、歴史書(れきししょ)中山世譜(ちゅうざんせいふ)』を編集(へんしゅう)した、()()られた人物(じんぶつ)
 ところが、その()である蔡温(さいおん)は、物覚(ものおぼ)えが(わる)く、十六(さい)になっても、満足(まんぞく)()()きすら出来(でき)なかった。その(ころ)(なつ)のこと、身分(みぶん)(ひく)家柄(いえがら)(とも)口論(こうろん)になり、こう()われて(ののし)られ、みんなに(わら)いものされたという。
 「蔡温(さいおん)は、家柄(いえがら)がよくても、(まった)勉強(べんきょう)出来(でき)ない。お(まえ)は、衣装(いしょう)だけが立派(りっぱ)(さむれー)でも、中味(なかみ)百姓(ひゃくしょう)とちっとも()わらない」と。
 その()()()した蔡温(さいおん)は、一晩中(ひとばんじゅう)()()かした。そしてその(あと)は、(ひと)()わったように猛勉強(もうべんきょう)した。その勉強(べんきょう)ぶりは(すさ)まじく、二十歳(はたち)になるまでには(ほとん)どの書物(しょもつ)読破(どくは)。二十一(さい)で、読書(どくしょ)師匠(ししょう)。二十七(さい)で、福州(ふくしゅう)琉球館(りゅうきゅうかん)役職(やくしょく)()て、異例(いれい)大出世(だいしゅっせ)をする。
 しかしながら、この(ころ)から蔡温(さいおん)は、自分(じぶん)(ちから)過信(かしん)()して、自分(じぶん)(だれ)よりも努力家(どりょくか)秀才(しゅうさい)だと勘違(かんちが)いし(はじ)める。
 そんな(とき)中国(ちゅうごく)である老人(ろうじん)出会(であ)い、こう()われる。
 「あなたは、その(とし)になるというのに、(なん)にも学問(がくもん)出来(でき)ておりません。(まった)()しい(こと)です」と。
 (ほとん)どの書物(しょもつ)暗記(あんき)し、詩文(しぶん)まで(つく)れた蔡温(さいおん)は、反論(はんろん)して論戦(ろんせん)(こころ)みた。ところが(まった)()()たず、(ことごと)()けてしまった。
 その出来事(できごと)によって、(はじ)めて蔡温(さいおん)は、それまでの(かたち)だけの学問(がくもん)無意味(むいみ)である(こと)(さと)った。
 帰国(きこく)してから(のち)蔡温(さいおん)は、自分(じぶん)才能(さいのう)(けっ)して(ほこ)(こと)がなかったという。そして()貢献(こうけん)すべく、(さら)にそれからの生涯(しょうがい)、より一層(いっそう)学問(がくもん)(はげ)んだ。国王(こくおう)教師(きょうし)抜擢(ばってき)されてからは、数々(かずかず)(くに)難題(なんだい)()()かい、人々(ひとびと)から大政治家(だいせいじか)()われるまでになった。
 それはまた蔡温(さいおん)が、偉大(いだい)政治家(せいじか)である一方(いっぽう)で、大変(たいへん)人間味(にんげんみ)(あふ)れる人物(じんぶつ)でもあったためとも(つた)わっている。


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