みんなで楽しもう!
~琉球沖縄に伝わる民話~

新訳球陽外卷(きゅうようがいかん)遺老(いろうせつでん)』第20話

唐守嶽(とうまもいだけ)




 久米村(くめそん)(きた)に、(ひと)つの神岩(かみいわ)がありました。
 (かみ)(しめ)霊妙(れいみょう)感応(かんのう)があって、お(いの)りして(おう)じてくれないことはありませんでした。
 人々(ひとびと)はみな(いし)(はこ)んで()()げ、四方(しほう)()(かこ)石垣(いしがき)(つく)って、神嶽(かみだけ/かみたけ/しんごく)としました。
 これよって琉球(りゅうきゅう)(ひと)は、中国(ちゅうごく)()(とき)(かなら)ずこの御嶽(おたけ)にお(まい)りして(たび)幸運(こううん)をお(いの)りしました。
 こんなわけでこの御嶽(おたけ)名付(なづ)けて唐守嶽(とうまもいだけ)()います。
 (いま)は、那覇(なは)久米村(くめそん)(そと)にそれはあるものの、それでもお(まつ)(ごと)などは久米(くめ)(そん)(かか)わっています。
 しかしながら、まだどの時代(じだい)御嶽(おたけ)()ったのかを()(ひと)はいません。



 
※注や解説

唐栄(とうえい)】~久米(くめ・くにんだ・くにんら)(そん)別名(べつめい)久米(くめ・くにんだ・くにんら)(ひと)久米村人(くにんだんちゅ)という。
至霊至感(しれいしかん)】~ここでは、霊感(れいかん)。つまり神仏(しんぶつ)(しめ)霊妙(れいみょう)感応(かんのう)神仏(しんぶつ)不思議(ふしぎ)感応(かんのう)霊応(れいおう)。なお、神様(かみさま)のご利益(りえき)()ぐに(あらわ)れる()霊験(れいげん)あらたか」とほぼ(おな)じだが、「()ぐに」の()がない。
【禱】=祈
築堆(ちくたい)】~堆築(たいちく)版築(はんちく)層築(そうちく)のことか。盛土(もりつち)構築(こうちく)技術(ぎじゅつ)土壁(つちかべ)土壇(どたん)などの築造(ちくぞう)方法(ほうほう)で、(いた)(わく)(つく)り、(つち)をその(なか)()って、一層(いっそう)ずつ(きね)()(かた)めるもの。(ただ)琉球(りゅうきゅう)沖縄(おきなわ)場合(ばあい)(つち)使(つか)わずに(いし)でしっかりと()()げる(こと)()すと(おも)われる。構築(こうちく)意味(ていど)にとるのがいいと(かんが)える。
四囲(しい)(かき)(つく)り】~(いし)()んで四方(しほう)()(かこ)んで(かき)となすこと。なおこれとは(べつ)に、(まる)周囲(しゅうい)(いし)()んで(めぐ)らす場合(ばあい)は、(ぞく)に「ちんまーさー」という【神嶽(かみだけ/かみたけ/しんごく)】~御嶽(うたき)琉球(りゅうきゅう)信仰(しんこう)における聖域(せいいき)琉球國(りゅうきゅうこく・るーちゅーくく)第二(だいに)尚氏(しょうし)王統(おうとう)制定(せいてい)した、琉球(りゅうきゅう)信仰(しんこう)における聖域(せいいき)総称(そうしょう)制定(せいてい)以前(いぜん)は、色々(いろいろ)()()(かく)地方(ちほう)にあった。「御嶽」という表記(ひょうき)()みは、「おたけ」以外(いがい)に、(おも)沖縄本島(おきなわほんとう)とその周辺(しゅうへん)島々(しまじま)では「うたき」、宮古(みやこ)地方(ちほう)では「すく」、八重山(やえやま)地方(ちほう)では「おん」(など)近年(きんねん)は「御嶽(うたき)」という発音(はつおん)への傾倒(けいとう)がみられる。「御嶽」という表記(ひょうき)以外(いがい)、かつては「腰当森(くさてむい)」、「(おが・うが)(やま)(など)といった様々(さまざま)言葉(ことば)があった。御嶽(うたき)は、琉球(りゅうきゅう)(かみ)存在(そんざい)する、あるいは来訪(らいほう)する場所(ばしょ)という意味(いみ)と、祖先神(そせんしん)(まつ)場所(ばしょ)という意味(いみ)の、(ふた)つの意味(いみ)がある。御嶽(うたき)地域(ちいき)祭祀(さいし)中心(ちゅうしん)施設(しせつ)として大変(たいへん)重要(じゅうよう)で、(いま)もなお、地域(ちいき)守護(しゅご)する聖域(せいいき)として信仰(しんこう)(あつ)め、大切(たいせつ)にされている場所(ばしょ)(おお)い。なお、琉球(りゅうきゅう)信仰(しんこう)においては(おも)(かみ)(つか)えるのは女性(じょせい)のため、琉球國(りゅうきゅうこく)時代(じだい)御嶽(うたき)内部(ないぶ)男子禁制(だんしきんせい)だった。現在(げんざい)でもその(おお)くが、一定区域(いっていくいき)までしか男性(だんせい)(はい)ってはいけない場合(ばあい)(すく)なくない。
【中国】~(いま)中国(ちゅうごく)琉球國(りゅうきゅうこく)時代(じだい)は、(みん)(しん)(くに)()場合(ばあい)(おお)い。
唐守嶽(とうまもいだけ・とうまもりだけ)】~当間御嶽。「トウマ(むい)」は、『琉球国(りゅうきゅうこく)由来記(ゆらいき)』には、辻町(つじまち)後道(くしみち)波上(なみのうえ)参道(さんどう)出口(でぐち)にあたる新村渠(みんだかり)。かつては真和志(まわし・まーじ)間切(まぎり)花城村(はなぐすくそん)(ぞく)し、ぼうぼうとした海浜(かいひん)で、樹木(じゅもく)もなかったとある(※むかし(つじ)(とお)りには、三大路十五小路があり、(つじ)の三つの大路(おおじ)である「後道(くしみち)」「中道(なかみち)」「端道(はたみち)」を基本(きほん)にして、「すーじ」と()ばれる小路(こみち)があった)清国(しんこく)順治(じゅんち)年間(ねんかん)(一六一六年(ごろ))に、花城(はなぐすく)親雲上(ぺーくみー)秀成(しゅうせい)地頭職(じとうしょく)任命(にんめい)され、樹木(じゅもく)()えて防風林(ぼうふうりん)としたのが、(のち)に「当間森御嶽」と()われるようになったとある(※「親雲上(ぺ-ちん)」の(なか)でも地頭職(じとうしょく)にあるものは、(おな)()()いても「親雲上(ぺーくみー)」という)。その()「当間森」は、(とく)中国(ちゅうごく)()く「進貢使(しんこうし)(たち)にとって、海上(かいじょう)安全(あんぜん)無事(ぶじ)帰還(きかん)(いの)場所(ばしょ)となる。そしてまた、航海(こうかい)安全(あんぜん)人々(ひとびと)祈願(きがん)する「唐守(とうまもい)」として尊崇(そんすう)される聖地(せいち)となる。「唐守森(とぅーまむい)」と「内兼久山(うちがにくやま)」は、唐栄(とうえい)、つまり久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)久米村(くめそん)拝所(うがんじゅ)で、(むかし)から(ひがし)大阿母(おおあも)国吉(くによし)()から()内兼久山(うちがにくやま)を、西(にし)大阿母(おおあも)志良堂(しらどう)()から()唐守森(とぅーまむい)(つかさど)るように、それぞれ任命(にんめい)された。唐守森(とぅーまむい)は、別名(べつめい)を「志良堂(しらどう)御岩(おいわ)」といい、戦前(せんぜん)は、(つじ)後道(くしみち)ウグワンノヒラ、辻町(つじまち)丁目(ちょうめ)料亭(りょうてい)(まつ)(した)東側(ひがしがわ)にあり、毎年(まいとし)旧正月(きゅうしょうがつ)二十日(はつか)尾類馬(じゅりうま)行列(すねー)参拝(さんぱい)(おこな)われて、辻町(つじまち)遊郭(ゆうかく)拝所(うがんじゅ)(ひと)つとされていた。
那覇(なは)()()る】~所在置(しょざいち)が、唐栄(とうえい)、つまり久米村(くめそん)管轄外(かんかつがい)那覇(なは)()にあるという()那覇(なは/なーふぁ)(ふる)くは那覇(なは/なーふぁ)(ひがし/ふぃがし・)(そん)西村(にしそん)()わせた地域(ちいき)那覇(は/なーふぁ)()んでいた。
(しか)れども】~そうだけれども。しかしながら。
【原文】唐榮之北有一神岩至靈至感禱莫不應人皆運石築堆四圍爲垣以爲神嶽由是本國之人赴中華時必到此嶽而祈福焉故名之曰唐守嶽今在于那覇地而事係乎唐榮也然未知何世而建焉


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.




同じカテゴリー(新訳・琉球民話『球陽外巻/遺老説伝』)の記事

コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
新訳・琉球民話『球陽外巻/遺老説伝』」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法