首里城・龍潭池と円鑑池

2014年10月23日

Posted by 横浜のトシ at 12:00│Comments(0)首里城の門
龍潭池(りゅうたんいけ)


首里城(しゅりじょう/スイグシク)の門には関係ないものの、
龍潭池(りゅうたんいけ)にも少し()れておこうと思う。

龍潭池(りゅうたん・いけ)は、(さかな)が多く()むことから、別名(べつめい)魚小堀(イユグムイ)とも。

1427年、琉球()第一尚氏(だいいちしょうし)王統(おうとう)第2代国王、尚巴志(しょうはし)(めい)により、当時の国相(こくしょう)であった懐機(かいき)という人物(じんぶつ)造園(ぞうえん)した人工(じんこう)の池。造園(ぞうえん)契機(けいき)となったのは、1425年に来琉(らいりゅう)した冊封使(さくほうし/さっぽうし)が、王に、首里城の北に作庭(さくてい)(庭園を造ること)するように(すす)めたためとされる。王は、明国(みんこく)懐機(かいき)派遣(はけん)し、中国各地の池を調査。帰国後、造園(ぞうえん)着手(ちゃくしゅ)させる。
安国山樹華木之記碑(あんこくざんじゅかぼくのきひ)(1427年)には、首里城(しゅりじょう/スイグシク)が水面に美しく(うつ)り、池の周囲には各国の美しい花々が咲き乱れ、池には魚が泳ぐ、琉球随一(ずいいち)名勝地(めいしょうち)となったとある。なお、安国山(あんこくざん)通称(つうしょう)はハンタン山。

大池は、龍頭(りゅうとう/たつがしら)形に()られた。()った土は、龍潭池(りゅうたんいけ)西岸(せいがん)()り、木々を植え、安国山(あんこくざん)築造(ちくぞう)(※現在の龍潭池(りゅうたんいけ)は、周囲416m、面積は8,400㎡)

やがて、第二尚氏(だいにしょうし)王統(おうとう)になった、第3代国王尚眞王(しょうしんおう)の1502年頃、円覚寺(えんかくじ)龍潭池(りゅうたんいけ)の間に「円鑑池(えんかんち)」が(あら)たに()られて完成。「弁財天堂(べんざいてんどう)」がある「中之島(なかのしま)」や「龍淵橋(りゅうえんきょう)」が造られて円鑑池(えんかんち)が完成し、まずそこに首里城内の湧水(わきみず)雨水(あまみず)が集まり、水量が調整されて、龍潭池(りゅうたんいけ)に流れ()仕組(しく)みになった(※円鑑池(えんかんち)満水(まんすい)になると龍潭池(りゅうたんいけ)(そそ)ぐ)

円鑑池(えんかんち)」の中之島(なかのしま)には、琉球石灰岩の切石(きりいし)が積まれた「天女橋(てんにょばし)(※重要文化財)」が()けられる。1502年(文亀2)に朝鮮国王から(おく)られた「方冊蔵経(ほうさつぞうきょう)」が(おさ)められていた経堂(きょうどう)があったが、1609年(慶長14)薩摩(さつま)藩の琉球侵入(しんにゅう)の際に蔵経(ぞうきょう)などもふくめて焼失(しょうしつ)。1621年に弁財天堂(べんざいてんどう)が新たに建てられ、円覚寺(えんかくじ)にあった弁財天像(べんざいてんぞう)(うつ)すとともに、その後、橋は「天女橋(てんにょばし)」と呼ばれるようになる。それまでは「観蓮橋(かんれんきょう)」と呼ばれ、今も石勾欄(いしこうらん)観蓮橋(かんれんきょう)時代の(ハス)名残(なご)りが一部見られる。沖縄戦で、弁財天堂(べんざいてんどう)と橋の高欄(こうらん)を失うものの、弁財天堂(べんざいてんどう)は1968年、高欄(こうらん)は翌年に復元。

龍淵橋(りゅうえんきょう)」は、龍潭池(りゅうたん・いけ)円鑑池(えんかんち)()かつ、琉球石灰岩(せっかいがん)切石積(きりいしづ)みの橋。戦争で破壊されるまで石勾欄(いしこうらん)があり、羽目石(はめいし)には、見事な麒麟(きりん)鶴亀(つるかめ)などが彫刻されていたと伝わりますが、今は石勾欄(いしこうらん)を支えていた持ち送り石(もちおくりいし)が見られるだけ。首里城(しゅりじょう/スイグシク)から浦添(うらそえ/うらしぃー)はじめ中北部に向かう時の重要な西街道に()かる橋だった。

琉球時代、冊封使(さくほうし/さっぽうし)歓迎(かんげい)するために、滞在中の重陽(ちょうよう)の日(※旧暦9月9日)に「龍丹宴(りゅうたんえん)」が開かれ、爬龍船(はりゅうせん)競漕(きょうそう)が行われた。爬龍船(はりゅうせん)とは、沖縄のハーリー(爬龍)で用いられる船のことで、沖縄語では「ハーリーブニ」。


※尚眞王の時代、円鑑池が造られたが、既に龍潭池はある。円覚寺と龍潭池の間に円鑑池をまったく新しく造ったのか、龍潭池の一部を削って円鑑池が造られたのか、単に龍潭池を削って龍淵橋をかけたのかは、考えてみてもよい気がする。というのは、「安国山樹華木之記碑」にある「首里城が水面に美しく映り」という部分が、気にかかるためである。現在の龍潭池や円鑑池の周囲には、首里城がよく見える場所が多いものの、「安国山樹華木之記碑」をそのままに受け取るとすると、首里城が湖面の水面に映る場所が、周辺に少ないと感じるからだ(※もちろん周囲の木々が、当時はあまりないと想像しながら)。下の写真でわかる通り、湖面に首里城が美しく映る場所を、この時には見つけられなかった。正確に言い直すと、よほど風がなく湖面が鏡のようでないと、この場所では湖面に首里城は映らない。もし映るとすれば、この場所が最も美しく映るようにも思えた(※首里城だけでなく、池の周囲の様々なものも一緒に映るため)。ただこの場所よりもっと城に近い場所からの光景を詠んだものなら、湖面に映った首里城はより大きいため、多少、風で湖面が鏡のようでなくとも、それなりに美しく映るのではないか、などと考えたりもする。結論は急がず、この場所で、鏡面に映った首里城を撮影する事と、周辺でもう少し色々な角度から、首里城が湖面に映る場所を探して撮ってみようと考えている。
※尚眞王の時代は、他の時代に比較して琉球国が繁栄し華やかであったのは確かな事である。特に島津の琉球侵攻前であったのが大きい。だからといって尚眞王を名君とする考え方には賛成しかねない。多くは執権の立場にあった母の偉業といえるのであり、琉球きっての名君は悪名高き宇喜也嘉とさえ考えられる。そして何より名君だと思えないのが尚眞王には王子が7人いて、五男が後に尚清王になるわけだが、その他の王子すべてが廃嫡されて墓さえ分からぬ酷い扱いを受けた点はじめ、色々あるからである。


※この夏、8月に撮った写真は以下↓

首里城・龍潭池と円鑑池
首里城・龍潭池と円鑑池


首里城・龍潭池と円鑑池
首里城・龍潭池と円鑑池
首里城・龍潭池と円鑑池




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