~龍潭池 ~
1427年、琉球
「
大池は、
やがて、
「
「
琉球時代、
※尚眞王の時代、円鑑池が造られたが、既に龍潭池はある。円覚寺と龍潭池の間に円鑑池をまったく新しく造ったのか、龍潭池の一部を削って円鑑池が造られたのか、単に龍潭池を削って龍淵橋をかけたのかは、考えてみてもよい気がする。というのは、「安国山樹華木之記碑」にある「首里城が水面に美しく映り」という部分が、気にかかるためである。現在の龍潭池や円鑑池の周囲には、首里城がよく見える場所が多いものの、「安国山樹華木之記碑」をそのままに受け取るとすると、首里城が湖面の水面に映る場所が、周辺に少ないと感じるからだ(※もちろん周囲の木々が、当時はあまりないと想像しながら)。下の写真でわかる通り、湖面に首里城が美しく映る場所を、この時には見つけられなかった。正確に言い直すと、よほど風がなく湖面が鏡のようでないと、この場所では湖面に首里城は映らない。もし映るとすれば、この場所が最も美しく映るようにも思えた(※首里城だけでなく、池の周囲の様々なものも一緒に映るため)。ただこの場所よりもっと城に近い場所からの光景を詠んだものなら、湖面に映った首里城はより大きいため、多少、風で湖面が鏡のようでなくとも、それなりに美しく映るのではないか、などと考えたりもする。結論は急がず、この場所で、鏡面に映った首里城を撮影する事と、周辺でもう少し色々な角度から、首里城が湖面に映る場所を探して撮ってみようと考えている。
※尚眞王の時代は、他の時代に比較して琉球国が繁栄し華やかであったのは確かな事である。特に島津の琉球侵攻前であったのが大きい。だからといって尚眞王を名君とする考え方には賛成しかねない。多くは執権の立場にあった母の偉業といえるのであり、琉球きっての名君は悪名高き宇喜也嘉とさえ考えられる。そして何より名君だと思えないのが尚眞王には王子が7人いて、五男が後に尚清王になるわけだが、その他の王子すべてが廃嫡されて墓さえ分からぬ酷い扱いを受けた点はじめ、色々あるからである。
※この夏、8月に撮った写真は以下↓
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