てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 新・琉球民話・口碑伝説集 › サンジューウーニーの由来~新・琉球民話・口碑伝説集第10話

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第10話


サンジューウーニーの由来



 西暦一六四六年、尚賢王(しょうけんおう)の時代、中国への慶賀使(けいがし)として、王舅(おーしゃん)毛泰久豊見城(とみぐすく)親方(うぇーかた)長史(ちゃくしぃ/ちゃぐし)金正春照屋(てるや)親雲上(ぺーちん/ぺいちん)都通事(とつうじ)王明佐、正議大夫(せいぎたいふ)火長(かちょう)陳初源幸喜親雲上(ぺーちん/ぺいちん)などが進貢使(ちんくんし/しんこうし)として、支那(しな)福州(ふくしゅう)に渡りました。
 当時の支那は、明朝(みんちょう)清朝(しんちょう)がまさに争っていたため、進貢使の使節の一行はたびたび困難にぶつかり、戸惑(とまど)いながらも北京に辿(たど)り着き、明朝(みんちょう)隆武帝(りゅうぶてい)即位(そくい)を祝って役目を果たし、その後、閩安鎮(びんあんちん)の外琅琦地方で、郷里(きょうり)に帰るのを待っていました。
 時に、清朝(しんちょう)貝勒(ぱいろく)博洛大将軍(だいしょうぐん)が、その頃、福建省(ふっけんしょう)地方に攻め()んで来ました。
 驚いた琉球の使者達は、途方(とほう)に暮れながらも協議(きょうぎ)を重ね、その時、幸喜親雲上(ぺーちん/ぺいちん)の考えで、急遽(きゅうきょ)服装を改め、弁髪(べんぱつ)し、清王朝(しんおうちょう)忠誠(ちゅうせい)を誓ったため、何とか(なん)(のが)れて国に帰ることが許されたのでした。
 ところがそれからの帰途(きと)海賊(かいぞく)に襲われてしまい、六十一名の中の二十八名は殺され、捕虜(ほりょ)となったうちの二十三名が()()にし、わずか十名だけが生き残っていたところ、死の一歩手前で、貝勒(ぱいろく)博洛大将軍(だいしょうぐん)に救い出されたのでした。
 助け出された一行は北京に連れていかれ、新しく建った清国(しんこく)皇帝(こうてい)拝謁(はいえつ)を受けたのち、清朝の招撫使(しょうぶし)謝必振(しゃひつしん)の船に乗り、やっとのことで再び琉球に向かって出帆(しゅっぱん)する事ができました。
 ところが今度は、航海中、暴風に()ってしまい、薩摩(さつま)の山川港に船は流れ着いたのでした。それから長崎を経由(けいゆ)し、やっとのことで那覇港に向かうことになりました。
 使節(しせつ)一行(いっこう)は、当初の予定では、出発して翌年には帰る(はず)でしたが、実際には四年という年月が過ぎ去っていたばかりか、消息(しょうそく)がまったく途絶(とだ)えていたために、全員死んだものと思われていました。そこへ突然、一行は那覇港に戻って来たのでした。
 夫が生きていることを神掛(かみか)けて信じていた、幸喜親雲上(ぺーちん/ぺいちん)の妻、思津奴(うみつぬ)(※当間家から嫁入り)は、順治七年(西暦一六四九)九月一日、夫が生きているとの吉報(きっぽう)に、()(あが)って大喜びし、庭掃除(にわそうじ)をしていた(ほうき)を持ったまま()け出し、(むら)がる人々を()き分けながら、「唐船(とうしん)どーいー(※意味は、中国の船だぞー)」と(さけ)びながら、東町の親見世(おみみせ)から、奥武山(おおのやま)の父の墓に参詣(さんけい)して夫の無事を感謝し、それから通堂(とんどう)を指して一目散(いちもくさん)に走ると、夫の、幸喜親雲上(ぺーちん/ぺいちん)(むか)えたのでした。
  四年間も唐船(とうしん)消息不明(しょうそくふめい)だったために、その遺族(いぞく)の中には、法事を(いとな)む者や、再婚した者もいた中で、ひたすら夫の無事を信じて待ち続けた貞女(ていじょ)思津奴(うみつぬ)美談(びだん)は、御主加那志前(うしゅがなしーめー)のお耳にも達しました。
 そしてその後、唐船(とうしん)出帆(しゅっぱん)前、首里王城で送別の(うたげ)(もゆお)される際、使節の者達は衣冠(いかん)を身につけ、思津奴(うみつぬ)の話にちなんで(ほうき)(さか)さにし、また五色の(はた)(かざ)る行事を行うようになりました。そしてその行事が、「サンジューウーニー」という旅立(たびだ)ちを祝う目出度(めでた)儀式(ぎしき)の初まりになったということです。

 
※注や解説

【サンジューウーニー】~航海安全の祈願。旗をふって船を漕ぐ動作をした。旧暦一月二十日の尾類馬(ジュリゥンマ)(※辻遊郭の祈願祭)と共に行われた。
尚賢王(しょうけんおう)】~琉球國第二尚氏王統の第九代国王(一六二五~一六四七年/在位:一六四一~一六四七年)。生まれてから薩摩で成長。十七歳で即位。「遠見番(※先島諸島では「火番盛」)」をつくり、琉球國に烽火(ほうか)の制度を作った。伝承によると、遠見には庶民からなる遠見番が輪番で任務に()き、沖縄本島を行き来する琉球の船の航行を見守ると共に、近海を通過する船、異国船、漂流船の発見や監視等に当たったといわれる。そして、海上に船影(せんえい)を発見すると、昼間は烽火(のろし/ほうか)をあげ、夜間は松明(たいまつ)をかざして、蔵元(くらもと)合図(あいず)を送った。
慶賀使(けいがし)】~他国などに慶事(けいじ)があった際に、慶賀(けいが)のために派遣される使節のこと。江戸時代の、幕府将軍襲職の際に琉球から派遣された使節の慶賀使の場合(※江戸上り)と、琉球國が中国の新たな皇帝の就任を祝って送る慶賀使では、少し意味合いが違うところがある。
長史(ちゃくしぃ/ちゃぐし)】~王府の儀式や儀礼の指揮、王府の財政、外交や貿易、律令などを行う久米村(クニンダ)の高官。
都通事(とつうじ)】~久米村(クニンダ)の官位称号の一つ。副通事の上、中議大夫の下に属する。「通事(つうじ)」は、①外交の通訳官。②唐栄府(久米村)の位階称号及び役職名。
正議大夫(せいぎたいふ)】~久米村人(クニンダチュ)に与えられた官位。中国への進貢の際に、進貢正議大夫(※進貢副使)になる役職。
火長(かちょう)】~貿易船の航海長や船の船長、貿易船の最高責任者。
進貢使(ちんくんし/しんこうし)】~進貢使の正使は耳目官(じもくかん)、副使は正議大夫(せいぎたいふ)という。進貢のために中国へ向かった進貢使は総勢三百人で、二年に1度派遣された時期もある。皇帝に謁見(えっけん)した進貢使は国王からの文書および献上品を納めた。
福州(ふくしゅう)】~原文では「(ビン)」。中国の地方は、昔の地名を用いて漢字一文字で表されることがよくあり、福州は「(ビン)」という呼ばれた。「閩」は、紀元前からの福州を含む一帯の地名で、秦がこの地に中郡を設置した時期から町になり始めた。それは紀元前二二一年頃。福州と呼ばれるようになったのは、この地に福州都督府が設置された唐代の七二五年頃で、以後、福州は、この地方の中心的な都市になり、国の対外貿易拠点として成長。明の時代に、福州は琉球国の指定入港地になったため、対外貿易拠点として発展。明は、外国との交易に朝貢貿易の形態をとり、朝貢国として認められない国の船を中国に入港させなかったため、東アジアの貿易の中継地となっていた琉球國は明にとっても重要な輸出入相手国だった。琉球國は、この交易によって富を蓄え、琉球國全盛時代を築いた。福州市内には、当時、琉球人が活動の拠点とした「琉球館」があり、今も残る。
御主加那志前(うしゅがなしーめー)】~琉球では、国王のことを「御主(うしゅー)」と呼ぶが、敬称を付けて「御主加那志(うしゅがなし)」、「御主加那志前(うしゅがなしーめー)」などとよく使われた。



Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.




同じカテゴリー(新・琉球民話・口碑伝説集)の記事

コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
新・琉球民話・口碑伝説集」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法