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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第13話


(わん)()大親(うふや)のむすめ世仁(せに)



 尚清王(しょうせいおう)時代、真和志(まわし)王農(わんぬ)大親(うふや)という人がおりました。大親(うふや)は、支那(しな)(※中国)の生まれの人で、行方(ゆくえ)知れずになった父を探すために琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)に渡って来て、目出度(めでた)親子(おやこ)対面(たいめん)()たしたのでした。その後、琉球に住み、湧田根神殿内(にーがんどぅんち)から(つま)(めと)りました。
 それから、月日(つきひ)は流れました。
 ある時の、尚清王(しょうせいおう)御巡行(ごじゅんこう)(さい)のことです。偶々(たまたま)大親(うふや)の家にお立ち()りになりました。
 大親(うふや)一人娘(ひとりむすめ)世仁(せに)は、それはそれは美しく、また大層(たいそう)(かしこ)い上に気立(きだて)てのよい、とても(やさ)しい女性でした。
 世仁(せに)は、突然(とつぜん)の王の訪問(ほうもん)に、困り()てました。というのも、お(ちゃ)を出そうにも、新しい茶腕(ちゃわん)などある(はず)もありません。
 そこで世仁(せに)思案(しあん)した(あく)()茶腕(ちゃわん)(はし)を少しばかり()って、お(ちゃ)()し出しながら、言うことには、
 「どうぞ、その()けたところから、お()し上がり下さい。そこは今までに(だれ)も口をつけておりませんので。」と。
 (まず)しい生活のため、出来(でき)ることなど、所詮(しょせん)(たか)が知れた中で、出来る(かぎ)りの気遣(きづか)いで、心が()もった御持(おも)()しをしたつもりなのでした。
 それを(さっ)した(おう)は、世仁(せに)心配(こころくば)りに感激(かんげき)し、非常(ひじょう)にお(よろこ)びになってお帰りになりました。
 その後、(ふたた)世仁(せに)(たづ)ねた(おう)が、すっかり日が()れてから、お帰りになる時のことです。
 世仁(せに)は、(もん)(そと)まで王を見送(みお)るやいなや、()ぐさま、とって(かえ)すと、自分の家に火をつけたのでした。たちまち家は、天を()がさんばかりに()()がりました。
 あまりに突然(とつぜん)出来事(できごと)に、王は(おどろ)(あわ)てて引き返して来ると、世仁(せに)(たず)ねることには、
 「そなたは、どうして、自分の家を焼くのか。」と。
 それに(こた)えて世仁(せに)が言うことには、
 「(おう)が、これからお帰りになる(みち)は、(さか)でもあり、(また)、とても(くら)くて(あぶ)のうございます。お道筋(みちすじ)を、少しでも(あか)るくしたいとの思いで火を()けた次第(しだい)です。
 (なに)とぞ、どうか(おど)ろかせてしまったことを、お(ゆる)し下さい。」と。
 この言葉(ことば)を聞いた王は、すっかり心を()たれ、また感心(かんしん)し、王城(おうじょう)(ない)夫人(ふじん)としてお召抱(めしかか)えになりました。
 そして、大按司志良礼(おおあじしらね)真世仁金(ませがに)という(ごう)(おく)りました。
 世仁(せに)は、それから(しあわ)せに()らしたということです。
 なお、王農(わんぬ)大親(うふや)は、那覇(なは)湧田(わくた)の先に拝領地(はいりょうち)(いただ)いて、その子孫は繁栄(はんえい)したそうです。


※注や解説

尚清王(しょうせいおう)】一四九七~一五五五年(在位:一五二七~一五五五年)第二尚氏王統の第四代国王。第三代国王の尚真王(しょうしんおう)の第五王子。
真和志(まわし)】~真和志(まわし)間切(まぎり)。真和志の以前の発音は「まーじ」など。真和志間切の古波蔵(こはぐら/くふぁんぐゎ)(・そん)か。
【王農大親】~読みは「わんぬうふや/おうのううふや/おーぬうふや/おうぬうふや/おうのううふうや」など。又、「大親」は「うふぬし」とも。生没年未詳。汪氏。尚清王の第八夫人の父。領地に神の出現があり、それが王の目に留まるなど徳の高い人物とされている。三重城(みーぐすく)屋良座森城(やらざむいぐすく)築城(ちくじょう)貢献(こうけん)して、王府から取り立てられたともいわれている。城岳(じょうがく/ぐしくだけ)(※今の那覇市楚辺(そべ)の小高い「城岳(じょうがく)公園」一帯は、古くは「城嶽(グシクダケ)」と呼ばれていた)から奥武山(おおのやま)までを領地(りょうち)にしていたともいわれる。樋川も含まれていて、王にちなみ汪樋川(オーヒージャー)と呼ばれ、葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた琉球の風景画八枚のうちの一枚に描かれている(※実際に琉球を訪れて描いたのではなく、1756年に来琉した冊封使周煌『琉球国志略』に収録された絵図「中山八景」を元に描いた想像図とされる)。その屋敷跡(やしきあと)王の殿(おうのとぅん)、生活の用水として使用した井戸は王井(オウガー)と呼ばれる。いずれにしても、王農大親という人物は、色々な文献に登場するものの、よくわかっていない部分も多い。
世仁(せに)】~生没年未詳。尚清王の第八夫人。童名、真世仁金。号・礼室。
大按司志良礼(おおあじしらね)】~国王のきさきの称号(しょうごう)。琉球の国王には、正室の妃、夫人、妻と称する三段階の配偶者がいた(※琉球國の王妃は、(きさき)(※正妻)。通称、御妃(ウフィ)、または領地名を冠して佐敷御殿(サシチウドゥン)と呼ばれ、王族出身の娘がなるのが普通で、按司の位階を与えられて按司加那司(あじかし/あじがなし)尊称(そんしょう)されていた。夫人に対しては、按司(あじ)按司志良礼(あじしらね)位階(いかい)名が与えられ、妾の下位の妻には阿護志良礼(あごむしられ)という位階(いかい)名があった)
※【三重城(みーぐすく)屋良座森城(やらざむいぐすく)】~ロワジールホテル那覇の裏手に、三重城(みーぐすく)の史跡があるが、意識しないと見落しがち。かつては三重城(みーぐすく)と呼ばれる長堤(ちょうてい)(※那覇港から細長く海に突き出した(つつみ)だった。三重城(みーぐすく)は、十六世紀、倭寇(わこう)(※日本やアジアを拠点に出没した海賊)に対する防御(ぼうぎょ)のために作られた防壁(ぼうへき)の役目をし、楚辺(そべ)村の豪族(ごうぞく)であった王農大親によって(きづ)かれたともいわれる。なお、この周辺の(ほとん)どは埋立地(うめたてち)。一五二八年、王農大親によって築城(ちくじょう)された三重城(みーぐすく)屋良座森城(やらざむいぐすく)は、目前に広がる広大な海を前に(しろ)としての様々な面で価値が非常に高く、特に那覇港防衛(ぼうえい)の面では(かなめ)だった。非常時(ひじょうじ)には二つの城の間に鉄鎖(てっさ)(※(てつ)(くさり)(むす)んで港に船が入るのを阻止(そし)し、更に二つの城からの攻撃により、那覇港への侵入は不可能だった。事実、島津軍(しまづぐん)琉球(りゅうきゅう)に押し寄せた時も、那覇港に当初は船で上陸する予定が、ここで見事に阻まれ退却せざるを得なかった(※直ぐに他の港から上陸してあっという間に首里城を陥落(かんらく)させたが)三重城(みーぐすく)屋良座森城(やらざむいぐすく)の前を、外来船はじめ、泊港から行き来する船や各地からやって来る様々(さまざま)な船が行き()い、那覇港は大変(にぎ)わった。なお三重城(みーぐすく)は、「王ヌ大比屋(おひや)城」とも呼ばれ、「王」は王農大親のことである。その一人娘は、この話にある尚清王の夫人となった人物であり、いずれにしても首里王府と関わりの深い豪族であったことに間違いはない。



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