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稲の伝来~新・琉球民話・口碑伝説集第19話

2015年11月29日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(0)新・琉球民話・口碑伝説集

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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第19話


(いね)伝来(でんらい)



 むかし、()(はじ)め、阿摩美久(あまみく)が、儀来河内(ギライカナイ)から(いね)種子(しゅし)()って()て、玉城(たまぐすく)間切(まぎり)百名(ひゃくな)の人に植え方を教え、(みぞ)を掘って小シマ田に苗代(なえしろ)(つく)り、稲を()きました。
 百日(ひゃくにち)()って、(いね)()り、濱川浦原(はまがわうらはら)親田(うぇーだ)、高マシノマシカマノ田に、稲の(たね)を植え始めました。
 阿摩美久(あまみく)から教えられた人の名を米之子(よねのし)といい、その(のち)は、王が行幸(ぎょうこう)する際には、米之子(よねのし)子孫(しそん)が、稲穂(いなほ)(きび)献上(けんじょう)するのが(なら)わしになったということです。

 
※注や解説

儀来河内(ギライカナイ)】~ニライカナイとも。なお言葉の変遷は、儀来河内、ギライカナイ、ニライカナイと考えられる。※13話の「注や解説」参照
玉城(たまぐすく)】~玉城間切。玉城の以前の発音は「たまぐすぃく/たまぐしく」など。
百名(ひゃくな)】~百名村(ひゃくなそん)
※【『沖縄における稲の発祥地、玉城親田』】~『琉球國由来記、田・陸田(見五穀之記)』には、こうある。
 「琉球國では、むかし、アマミキヨ(※琉球の国の生み神話の男神)が、ニライカナイから稲の種子を持って来て、知念大川(チニンウッカー)玉城親田、高マシノマシカマノ田に植えた。これが、水田の始まりである。後の英祖王の時代、稲作の方法が整っていなかったため、王、(みずか)ら、各地をまわって、井田法(※中国の(しゅう)の時代の税法)(なら)って、田んぼの境界(きょうかい)を正し、治水(ちすい)を行った。そのことで、五穀豊穣(ごこくほうじょう)となり、(みな)、幸せに暮らせるようになった。」と。
 また、『琉球國由来記、稻ミシキヨマノ時、玉城行幸之由來』には、こうある。
 「稲穂祭(いなほまつ)りに(そな)えるもの、(すなわ)ち、稲は昔、アマミキヨが、ニライカナイより種子を持ってきて、玉城村百名の人に作り方を教え、(みぞ)苗代(いなしろ)などを作らせて(たね)()かせ、百日(ひゃくにち)後に(なえ)を取って濱川ウラ原親田、高マシノマシカマノ田に植えさせた。これが稲作の始まりである。」と。
 また、『島尻郡誌』には、こうある。
 「昔、一羽の(つる)(※白鷺(しらさぎ)か他の鳥と思われる)が南から飛んできたが、暴風雨に()って進むことも引くこともできなくなり、百名(ひゃくな)海岸のカラオカハという所に落ちて、(あわ)れなことに、死んでしまった。鶴は、沖縄地方にそれまでなかった稲の()をくわえていて、それが水田(すいでん)に落ちて発芽(はつが)した。これを見たアマミキヨは、大変に喜んで、(いね)を、受水走水(うきんじゅはいんじゅ)の田に移植(いしょく)した。霊水(れいすい)によって、稲は育ち、()がなって(じゅく)すと、アマミキヨは、その食べ方を教えて下さった。」と(※なお、この話の場合、この(こめ)から長い毛のようなものが生えていたという話が加わる伝承もある。)
 どの話も、玉城村の受水走水(うきんじゅはいんじゅ)(※別名:濱川ウケミゾハリ水、神名:ホリスマスミカキ君ガ御水御イベ)御穂田(みふーだ)が、沖縄で最初の田であったということと、稲が南から渡って来た点が共通している。民俗学者の柳田国男が唱えた『海上の道』に通じるところがあるとされている。柳田国男は、著書の『海上の道』の中で、「新嘗(にいなめ/しんじょう)」という言葉に()れ、収穫祭(しゅうかくさい)が、「海上の道」に点在(てんざい)する島々で行われていることから、稲の伝来は「海上の道」にそって伝来したのではないかとしている。
 受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は、沖縄本島南部の、玉城村百名にある泉。アマミキヨ渡来伝承地(とらいでんしょうち)聖域(せいいき)にあり、ヤハラヅカサと並ぶ有名な拝所(うがんじゅ)で、稲作発祥(いなさくはっしょう)伝説のある田の水口(みずくち)にあたる。かつて石灰岩(せっかいがん)の割れ目から()き出る清水(しみず)が、ウキンジュ(※ゆるやかに流れる受け水)から苗代(いなしろ)である小シマ田へ、ハインジュ(※走り溝)を通って、浜川浦原の親田(うぇーだ)(そそ)いだと伝わる。かつて四月の「稲のミシキョマ(※初穂の儀礼)」に際し、国王はこの地で御水撫で(うびーなでぃー)を受け、稲穂と(しとぎ)(※水に浸した生米をついて砕き、色々な形に固めた食べ物。神饌(しんせん) に用いる。古代の米食法の一種)献上(けんじょう)された。
 琉球の開闢神のアマミキヨは、アマミキヨ族の呼称であり、九州から奄美(海見)を経て沖縄地方に渡来した種族アマミ(奄美)のキヨ(人)というのが定説(※琉球古代の人名の語尾には、タダミキヨ、ナオヂキヨの様にキヨが付く。また親にナザイキヨ(生む人)、またワカイキヨ(若い人)という古語があるのを見ても、「キヨ」は()ではなく「(ひと)」であり、アマミキヨは、天(あま)御子(みこ)ではなく「海人部(あまべ)(ひと)(『琉球乃研究』加藤三吾)。琉球開闢の神アマミキヨの名は、琉球人の祖先が九州から来て、奄美大島を経て琉球に来た。奄美大島の人々は自らアマミキヨの後裔と称し、アマミキヨは、はじめ海見嶽(あまみだけ)に天降して大島を経営していたが、しばらくの後、南の方に行ったと口碑にある。そこでアマミキヨは奄美や海見と内容上の関係があることが知れる。アマミキヨは種族全体の称であり、一人の名でないなど、伊波も述べている。日本の十~十二世紀前後、つまり弥生時代前後から平安時代の終わり頃迄に、九州方面から、奄美諸島を経て、アマミキヨ族が稲作の技術を伴って南下し、琉球は貝塚時代から農耕社会に変化してグスク時代(古琉球)へと展開したというのが民俗学での定説。もちろん古くは南方移動説や北方移動説があったが現代では、時代によって様々な移動があったことが色々な分野の研究から判明してきている。


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