てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 新・琉球民話・口碑伝説集 › 堂之大比屋物語~新・琉球民話・口碑伝説集第22話

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第22話


堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)物語(ものがたり)



 洪武年間(こうぶねんかん)久米島(くめじま)に、唐船(とぅしん)漂着(ひょうちゃく)しました。
 堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)同情(どうじょう)して、漂流者(ひょうりゅうしゃ)達をもてなして御馳走(ごちそう)し、また破損(はそん)した船を修理(しゅうり)して、帰らせてあげようとしました。
 唐人(とうじん/からひと/からびと)(※支那(しな)人/中国人)達が故郷(こきょう)に帰る日のことです。
 堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)が、親友である本部健堅(もとぶけんけん)健堅之大比屋(けんけんのおひや)に会うために出掛(でか)けていると知ると、唐人達はわざわざ礼を言うために、二人がいる少し遠い場所まで船を(まわ)したのでした。そして堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)(あつ)(れい)()べました。親友である健堅之大比屋(けんけんのおひや)も、わざわざ遙々(はるばる)(たず)ねてきた唐人達の礼儀(れいぎ)を喜んで御馳走(ごちそう)()()ってもてなしました。
 この一連(いちれん)出来事(できごと)は、(おん)を受けた唐人達によって、支那(しな)皇帝(こうてい)から琉球(りゅうきゅう)察度王(さっとおう)にまで伝えられて、堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)沢山(たくさん)御褒実(ごほうび)(おく)られたのでした。
 ところで堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)は、一頭の立派(りっぱ)な馬を持っていました。そこで褒実(ほうび)のお礼に、その馬と宝物(ほうもつ)を持って支那(しな)に渡り、皇帝(こうてい)献上(けんじょう)しました。
 そしてその時に、(かいこ)()(かた)(なら)って帰国したのでした。養蚕織物(ようさんおりもの)は、堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)が初めて琉球に伝えたといわれています。
 なお今の堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)厨子甕(ずしがめ)とされるものには、「弘治(こうじ)十八年乙丑十月十四日死す」とあることから見て、唐人漂着(ひょうちゃく)の時の堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)とは別人(べつじん)の物かもしれないとも言われています。

 
※注や解説

堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)】~堂之比屋、とも。生没年未詳。察度王(さっとおう)代の久米島(くめじま)の人物。本部間切(もとぶまぎり)健堅之大比屋(けんけんのおひや)と親交があり、一緒(いっしょ)に中国へ馬を献上(けんじょう)したり、中国より養蚕(ようさん)技術(ぎじゅつ)導入(どうにゅう)したとされている。また、堂之大比屋(どうのおひや/どうのおひやー)宇江城(うえぐすく)城主の世子(せいし)(※貴人の跡継ぎ)を殺して(みずか)城主(じょうしゅ)になったものの、落馬(らくば)して死亡したともいわれている。久米島(くめじま)養蚕(ようさん)のはじめは諸説がある。この話は、伝説として、十五世紀の半ば頃、堂之比屋、あるいは、堂之比屋と健堅之大比屋の二人で、中国から養蚕(ようさん)技術(ぎじゅつ)を学んで技術を持ち帰り、やがて粗布を織って琉球沖縄に伝えたとする言い伝えによる説。文献(ぶんけん)の上では、一六一九年に、坂本宗味が首里王府から派遣(はけん)されて久米島に日本の養蚕を伝え、製糸技術を教えたという説もある。また、一六三二年、友寄景友が染織(せんしょく)技法(ぎほう)を伝えたと説や、一六三二年、薩摩の酒匂四郎左衛門が久米島に渡り八丈紬の技法を教えたとする説もある。なお慶長年間に入って以来、貢納布(こうのうふ)制度が久米島にも導入されて、御絵図帳(みえずちょう)図柄(ずがら)をもとにして、厳重な監督のもとで久米島紬(つむぎ)が織られるようになる。(かすり)模様は身分によって区別され、王侯貴族は御殿柄(うどぅんがら)、士族は城柄(ぐすくがら)、庶民は小柄とされていた。貢納布制度下、久米島紬を織る仕事は決して楽なものではなかった。なお、「堂」というのは、むかし仲里村にあったムラ(※集落。部落。)の名。そのムラの草分けの家を、琉球沖縄では「根所(にーじゅ)」などという場合があり、その根所の男主人を「比屋」と呼ぶ。また、時代によって「ヘークー」、「ヒヤー(※比屋)」、「ウフグロー(※大五郎)」などとも呼ばれ、「大や」「大ころ」「大比屋」「大親」等と共に色々な文献に記されている。なお、「堂の比屋」と呼ばれた人物は、歴史上一人なのではなく、代々(だいだい)(あと)()世代(せだい)(ごと)にもいた。琉球沖縄の、歴史的に登場する民話の人物の場合同様に、色々な話が混ざっている可能性がある。
洪武年間(こうぶねんかん)】西暦一三六八~一三九八年。
唐船(とぅしん/とぅーしん/からふね/とうせん)】~中国の船。具体的には、唐船とは明国の船。
本部健堅(もとぶけんけん)】~本部間切。本部の以前の発音は「むとぅぶ」など。健堅村。健堅の以前の発音は「きんきん」など。堂之大比屋と健堅之大比屋は、那覇で久々に出会い、そのまま健堅之大比屋は久米島を訪れていた。
察度王(さっとおう)(一三二一~一三九五年)琉球の国王の一人。中山(ちゅうざん)の王。察度王統(さっとおうとう)の始祖。現在の宜野湾市の出身。神名は、大真物(うふまもの)。伝承では、浦添間切謝名の奥間大親と、伝説上の天女である飛衣(羽衣)の子とも。生まれた家は極めて貧しく、当時、強勢(きょうせい)(ほこ)っていた勝連按司(あじ)の娘を(めと)ったことにより家運(かうん)を起こしたとされる。三十歳の時、浦添の英祖王統(えいそおうとう)を滅ぼして、察度王統を建てる。その時、英祖王統の金蔵(かねぐら)()けて、全てを、武器や農具に必要な鉄を購入するために使ったとも伝わる。
弘治(こうじ)十八年】~西暦一五〇五年。


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.




同じカテゴリー(新・琉球民話・口碑伝説集)の記事

コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
新・琉球民話・口碑伝説集」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法