てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 新・琉球民話・口碑伝説集 › 墓の由来のお話~新・琉球民話・口碑伝説集第29話

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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第29話


(はか)由来(ゆらい)のお(はなし)



 琉球沖縄の墓の中には、「按司墓(あじばか)」と「当世墓(とーしーばか)」とがあります。
 大昔(おおむかし)の伝説によると、人が死ぬとその子孫(しそん)親類縁者(しんるいえんじゃ)(つど)って、その肉を食べ、自然洞窟(しぜんどうくつ)の中の(あな)に骨を入れて、墓にしていたとされます。こうした墓が、通称(つうしょう)按司墓(あじばか)と言われるもので、今でも琉球沖縄の田舎や農村や離島などに、その名残(なご)りを(とど)めた按司墓(あじばか)がよく見受けられます。その墓の中で、古いものとして有名なのが、英祖王(えいそおう)の墓「浦添(うらそえ)ようどれ」があり、やはりこの墓も自然洞窟(しぜんどうくつ)を使っています。
 その後に出来たのが、掘抜き墓(ふぃんちゃーばか/ほりぬきばか)という墓で、岩壁(がんぺき)の固いニービ石(※細粒砂岩(さいりゅうさがん)()()いて墓にしたものです。その代表的とされるのは、現在の粟国島(あぐにじま)に残り、中には非常に大きいものもあります。
 その()()きから発展したとされるのが、「破風墓(はーふーばか)」です。
 (さら)にまたその後になって、久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)渡来(とらい)(とも)に、南支那(みなみしな)の墓の様式(ようしき)である「亀甲墓(かーみーくーばか)」が造られるようになりました。亀甲墓(かーみーくーばか)は、女性の局部を形取(かたちど)った墓で、人が二寸と四寸の穴から出てきてこの世に誕生し、二尺と四尺の穴に入るという(たと)えから、墓の入り口が二尺・四尺と定められたといいます。
 なお久高島では近世まで、死棺(しかん)浜辺(はまべ)のアダン樹の下に置く、風葬(ふうそう)とも水葬(すいそう)ともいえる、古代からの独特の風習がそのままに、伝わってきたそうです。

 
※注や解説

粟国島(あぐにじま)】~粟国島の古い墓の(ほとん)どは、凝灰岩(ぎょうかいがん)の、掘り()み墓で、山の斜面を削った「ふぃんちゃー(フィンチャー)(ばか)」。「ふいんちゃー」の意は、「ふい(掘り)」+「んちゃ()」=「掘り土」。
破風墓(はーふーばか/はふうばか)】~。琉球沖縄で最初の破風墓(はーふーばか/はふうばか)は、玉陵(たまうどぅん)と言われている。破風墓(はーふーばか/はふうばか)は、通常、三角形の屋根を持つ琉球沖縄特有の墓の形式の一種で、家屋(かおく)(よう)屋根(やね)があるもののうち、屋根が「破風形(はふうけい)」になっている墓をいう。なお家屋(かおく)状の墓でも破風形(はふうけい)でないものは「屋形墓(やーぐぁばか/やかたばか)」という。破風墓(はーふーばか/はふうばか)屋形墓(やーぐぁばか/やかたばか)は、よく混同(こんどう)されがちである。屋形墓(やーぐぁばか/やかたばか)は、あくまで戦後の新しい形の墓。ところで、琉球沖縄の方々にとっては、生まれ育つ中で墓は馴染(なじ)み深く、今更(いまさら)、説明はいらないと思われるが、琉球沖縄での埋葬法(まいそうほう)は「風葬(ふうそう)」が主流(しゅりゅう)だった。海に面した所で風葬(ふうそう)する一般的風葬(ふうそう)以外に、琉球沖縄では、墓を使った風葬(ふうそう)が長い歴史の中では一般化した点が特徴的(とくちょうてき)といえる。それは遺体を墓の石室(せきしつ)内に数年間安置(あんち)することで風化(ふうか)を待つ。やがて親族の夢の中に()くなった人が現れ、そろそろ洗骨(せんこつ)してくれと言う。すると親族は墓に出掛けて行き、(おも)に男性が(まき)などを燃やして石室の中を(いぶ)し、ハブや虫などを追い出す。それから(おも)に女性が骨を(あら)って、琉球沖縄独特の骨壷(こつつぼ)に骨を(おさ)め、再び石室(せきしつ)内へ骨壷(こつつぼ)(おさ)め直した。大切なのは、洗骨(せんこつ)する意味で、それは骨を洗うことによって、死者の(まぶい)浄化(じょうか)されると、琉球沖縄では長く考えられてきたため<である(※洗骨については、『イナグヤナナバチ』(堀場清子/ドメス出版)に(くわ)しい)
【亀甲墓】~読みは、「かーみーくーばか/かめこうばか/きっこうばか/かみぬくー(亀の甲)ばか/かめぬくーばか」など色々。一族墓。(かめ)甲羅(こうら)状のような屋根が(おお)う部分は、人が生まれる出生以前の母の胎内(たいない)を意味し、入り口が局部を表している。中国の易経(えききょう)の世界観からくるもの。人の一生が、誕生以前の漆黒(しっこく)(やみ)の時代から、「青春(せいしゅん)(※青年期)」、「朱夏(しゅか)(※壮年期前期。この朱夏をどう生きるかでその後の人生が決まる、大切な時期)」、「白秋(はくしゅう)(※壮年期後期)」を()て、やがて老い衰え、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなって「黒冬(こくとう)(※玄冬(げんとう)とも。そもそも「玄」は黒を意味し、黒冬も玄冬も同じこと。老年期)」、つまり再び死の闇に戻るという考え。それで人の一生の円環(えんかん)が閉じるとする。その全体を四つの時節(じせつ)(とら)え、同時に方位(ほうい)の東西南北がそれぞれに()り当てられる。そして、方位(ほうい)それぞれを「四聖獣(しせいじゅう)」が守護(しゅご)する(※「四聖獣(しせいじゅう)」とは、「青龍(せいりゅう)」・「朱雀(すざく)」・「白虎(びゃっこ)」・「玄武(げんぶ))」)。その北の黒冬・玄冬を守っているのが、伝説上の亀と蛇が合体したような「玄武(げんぶ)」である。母の体中の闇の世界を、墓室の屋根を甲羅(こうら)(おお)った亀甲墓の中の世界で喩えていると考えられている。つまり亀ではなく玄武(げんぶ)甲羅(こうら)という方が、より正確である。なお亀甲墓は、夜になると入り口の戸が開くと、琉球沖縄では古い昔からの言い伝えがある。ちなみに琉球時代、つまり近世まで、自分たち一族の墓を守ってきたのはあくまで限られた王族や士族のみ(※身分制度により明確に一般人と分けられていた)。ところが明治以降、百姓(ひゃくせい)(※一般の人)も苗字をもつようになったため、一族の墓を守る考え百五十年の間で急速に広まり、今日に到っている。なお細かい墓の解説については省略した。
※【浦添ようどれ】~「浦添ようどれ」は、かなり復元され、整備されてきた。また近くにある「浦添グスク・ようどれ館」に行くと(※有料)、「浦添ようどれ」の内部が復元されていて、内部に入った気分になれる。


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