長浜の始まり ~琉球沖縄の伝説

横浜のトシ

2010年11月10日 20:20


みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第29話。


長浜の始まり



 むかし(むかし)の、読谷山(ゆんたんざ)(※現在の読谷(よみたん))長浜(ながはま)」の(はじ)まりのお話です。
 沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)には、北山(ほくざん)中山(ちゅうざん)南山(なんざん)の三つに分かれていた「三山(さんざん)時代(じだい)」がありました。また今の奄美も沖縄はこの頃、「按司(あじ)」と()ばれる諸侯(しょこう)(おう)が、それぞれの地域(ちいき)(おさ)めていました。
 北山(ほくざん)按司(あじ)次男(じなん)に、「金松(かねまつ)」という人物がおりました。この金松(かねまつ)が、長浜(ながはま)にやって()たことから、この話は始まります。
 金松(かねまつ)が、何故(なぜ)長浜(ながはま)()たのかというと、その時代(じだい)北山(ほくざん)はまさに激しい戦乱(せんらん)(よ/ゆー)であり、(いくさ)()()まれて(いのち)を落とすよりは、(みなみ)(くだ)って(のこ)生涯(しょうがい)()ごそうと思ってやって()たのが長浜(ながはま)だったと伝わっています。戦乱(せんらん)()け、北山(ほくざん)(ふね)(ぬす)み、その「くり(ぶね)」で残波岬(ざんぱみさき)(ちか)くに、命からがら()いたのでした。
 (りく)()がると、(のど)(かわ)いていたので(てん)()かって水が()しいと一心(いっしん)(ねが)しました。すると、その(ねが)いは(かな)えられ、(いわ)(あいだ)から(いずみ)()()したそうです。これが、(おも)いの泉という()の「うむい(思い/ウムイ)かー(川/カー)」です。金松(かねまつ)は、これで命拾(いのちびろ)いしたと大層(よろこ)んだのは言うまでもありません。
 水を()()えた金松(かねまつ)がそれから浜辺(はまべ)見渡(みわた)してみたところ、砂浜(すなはま)がどこまでも長く続いています。そこでその地を「長浜(ながはま)」と名付(なづ)けました。そしてそのうちに近くの村を探しに行って、そこで()らそうとは思うものの、取り()えず、かつて「おおむぐい(オオグムイ)(※大きな溜池(ためいけ)の意)」と呼ばれていた「そーち(ソーチ)がま(ガマ)(※洞窟(どうくつ))鍾乳洞(しょうにゅうどう)」の中に住みながら、(かい)()べたり、また山に行って果物(くだもの)などを取って()べる、そんな生活(せいかつ)を送っていました。
 ところで、この金松(かねまつ)には「うとちる(ウトチル)」という(いもうと)がおりました。「うとちる(ウトチル)」は女性(じょせい)でありながら、なかなかの豪傑(ごうけつ)であり、よく「さばに(サバニ)(※小舟)」を(あたま)にのせて(はこ)ぶほどで、気丈(きじょう)な人物でした。
 (いもうと)の「うとちる(ウトチル)」は、(あに)(いくさ)(のが)れて(みなみ)()ったものの、どこか途中(とちゅう)遭難(そうなん)でもしてはいないかと、とても心配(しんぱい)していました。そして(つい)に思い立ってもいられず、心配(しんぱい)のあまり、遙々(はるばる)(とお)今帰仁(なきじん)から(はま)づたいに、「さばに(サバニ)」に乗って兄を(さが)す旅に出たのでした。
 与久田兼久(よくたかねく)(あた)りまでやって()(とき)、そこに「くーじ(クージ)(はま)」という、(すな)一杯(いっぱい)場所(ばしょ)に着きました。そこは人が(だれ)もいない所ですが、人の足跡(あしあと)らしいものが(かすか)に残っています。「うとちる(ウトチル)」が思うことには、「この(はま)は人が()んでいる気配(けはい)がないのに足跡(あしあと)がある。もしかしたら、兄かもしれない。」と。そう考えると足跡(あしあと)()って(すす)んで()くことにしました。そして「そーち(ソーチ)がま(ガマ)」を見事に探し当てたのでした。するとそこには(かぞ)(かぎ)りなく沢山(たくさん)足跡(あしあと)があります。
 「うとちる(ウトチル)」は最初、(てき)足跡(あしあと)かもしれないと身構(みがま)えながら慎重(しんちょう)に、周囲に対して注意を払いました。しかしながら、よく(なが)(なお)してみたところ、足跡(あしあと)は一人のものであり、その者は洞窟(どうくつ)()()としているようです。そこで「うとちる(ウトチル)」は、洞窟(どうくつ)の中に()かって声を()()げて兄の名を呼んでみたのでした。
 一方、金松(かねまつ)の方は、(てき)がやって来たのだと思って、洞窟(どうくつ)(おく)で、宿借(やどかり/ヤドカリ)のように息を(ひそ)めてじっと隠れながら、(てき)(とお)()ぎるのをやり過ごすつもりでした。
 ところが、やがて聞こえてきた声は聞き覚えがある、(いもうと)うとちる(ウトチル)」のものに似ています。そこでより耳を(そばだ)てました。
 「兄上様(あにうえさま)(わたくし)です。(いもうと)の『うとちる(ウトチル)』でございます。もしやここにいらっしゃるのではありませんか。」と。そう、兄である自分のことを妹が()んでいるではありませんか。
 それはまさしく「うとちる(ウトチル)」の声だと確信した金松(かねまつ)は、返事をして洞窟から出て来ながら、どうしてこんな(ところ)にいるのかと妹に(たず)ねたのでした。
 「うとちる(ウトチル)」は、兄の金松(かねまつ)が舟で出掛(でか)けてからというもの、途中(とちゅう)遭難(そうなん)でもしていないかと心配(しんぱい)で心配で、矢も立てもいられずここまで(さが)しにやって()たのだと答えました。
 続いて兄は、妹に色々と(たず)ねました。(いくさ)(ほう)はどうなっているかと()くと、戦争は今もなお(さか)んにあちこちで(つづ)いていると言います。兄の金松(かねまつ)は、戦が(おさ)まって迎えに来たのではないと知る一方で、そんな状態(じょうたい)では、決して再び(もど)れないだろうと考えました。
 そこで妹に、この土地に(とど)まり、(きび)しい生活ながら、兄妹で力を合わせて二人だけで暮らさないかと、「うとちる(ウトチル)」に提案(ていあん)したのでした。
 こうして二人は「そーち(ソーチ)がま(ガマ)」でしばらく()らし始めることになりましたが、そこは二人で住むには少し(せま)かったために、やがて(ほか)の場所を(さが)すことになりました。
 (なお)、「そーち(ソーチ)がま(ガマ)」は(のち)に「生きたる地」とも()ばれるようになりますが、まさにそこで二人が生き()びたためにそう()われるようになったからであり、そしてまたこの場所は、人々から(おが)まれ続ける大切な場所(ばしょ)になりました。
 さてその後、この兄と妹の二人ですが、宇加地(うかじ)の上の方に丘があり、そこにに登ってみたところ素晴(すば)らしいグシク(ぐすく/グスク)だと思いました(※「ぐすく」には、城と聖地の意あり。また城の中には通常、いくつかの聖地が有る。)。ここが「アンナー(あんなー)グシク(ぐすく)」で、「ああ、何て素晴(すば)らしいグシクだ」という意です。その後ここは、「アンナー(あんなー)グシク(ぐすく)」とか、「ナーグシク(なぐすくー)」と呼ばれるようになりました。
 (せま)い「そーち(ソーチ)がま(ガマ)」から長浜に移った二人から、次々と子孫(しそん)繁栄(はんえい)していきました。大殿内、前ぬ殿内、中ぬ殿内、ニガン、タマイ、新城という六家は、この長浜は始まったといわれます。
 そしてまたこの長浜には、始祖(しそ)である(あに)金松(かねまつ)(いもうと)うとちる(ウトチル)」の二人の墓もあります。この二人の墓は、故郷を(しの)んでいるかのように、今帰仁(なきじん)に向かって立っています。
 長浜の村は、その後も(さか)えて発展し続け、その中から「花織(はなうい/はなおり)」という土地もまた長浜から始まったそうな。


 
※この話の参考とした話
沖縄県中頭郡読谷村字長浜~『長浜の民話』読谷村民話資料3


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.
●伝承地
沖縄県中頭郡読谷村字長浜~長浜の始まりは、北山の按司で、次男にあたる金松という方が、ここにいらっしゃったことから始まる。その方が何故ここへいらっしゃったかと言うと.北山は戦乱の世で、戦にまき込まれて生命を落とすより、自分は南に下り生涯を過ごそうと思い、南の島といったらここよ。そうして、舟を盗んで、そのくり舟でここまでいらっしゃったらしい。そうして、残波岬にお着きになった。のどがかわき、水をほしがり、「水があれば生命も助かるが」と願いをすると、岩の間から泉が湧き出てきた。これがウムイのカー(思いの泉)と呼ばれている。「ああ助かった」と喜んだ。そうして、長浜の浜辺を見渡し、近くの村へ行ってそこで暮らそうということで、長浜の村に決めた。長浜の字名は、あの方がお付けになった。また、浜も長いし。それから、少しでも近い所に行こうということで、ソーチに行った。昔、ここはオオグムイ(大きな溜池)と言っていたが。ソーチにあるガマに住んで、カイを食べたり、また山に行って果物などを取って食べたりして生活をしていた。それから、その方にはウトチルという妹がいて、女だてらに豪のもので気丈な方だったらしい。サバニも頭にのせて担いだそうだ。その妹が、兄は戦に追われて南の島に流れていったが、途中で遭難はなされなかったか、どこか陸に上ってはいらっしゃらないかと、心配して、はるばる遠い今帰仁から、浜づたいに捜しにいらした。与久田兼久という所にやってくると、そこはクージ浜といって砂がいっぱいあった。そこには人は誰もいないはずなのに、人の足跡らしいものがあった。「これは、人の気配はしないのに、足跡がある。もしや兄上様がこちらにいらっしゃるのでは」と、進んで行った。そして、ソーチというガマに着いた。そこには、多勢の足跡が着いており、敵が来たのかとびっくりして、よくながめてみると、一人の足跡だがそこを住まいにしているので、出たり入ったりした足跡であった。すると、そのウトチルの声を聞いて、また敵がやって来たかと用心して、ヤドカリのように、奥に入ってじっとしていた。「兄上様、私です。妹のウトチルですよ」と中に呼びかけると、「えーウトチルって、どうして」「兄上様は舟で出かけられて、途中で遭難はされていないか、またどこかに着きはしたかと、心配して、あなたを捜しにここまでやって来ました」と言った。「すると戦はどうなっている」とたずねると、「戦は今も盛んに行われています」「んー、それではもはや帰れないし、私達二人はここで暮らそうではないか」と言った。そして、ソーチのガマで暮らしていたが、「ここは、少し狭いから、ここではだめだ」と言った。そのガマは名まえを、生きたる地と言い、そこで生きのびることができたということで、今の人もそう呼んで拝んでいる。それから宇加地の上の方に丘があるが、その丘に行って見た。「ここはすばらしいグシクだ」とさけんだ。アンナーのグシクというのは、「はあ、これはすばらしいものだ」という意味だ。しかし、今はただナーグシクといっている。そうして、さあ、ソーチは狭いので、あの長い浜辺に移ろうということで、長浜にいらっしゃった。大殿内、前ぬ殿内、中ぬ殿内、ニガン、またタマイ、それからまた、新城という、六家から長浜は始まったらしい。そしてここに兄と妹のウトチルの二人の墓もある。今帰仁に向かって立っている。長浜はたいした村だよ。花織も長浜から始まったんだよ。(『長浜の民話』読谷村民話資料3)

関連記事