長浜の始まり ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第29話。
長浜の始まり
むかし昔の、読谷山(※現在の読谷)「長浜」の始まりのお話です。
沖縄の本島には、北山、中山、南山の三つに分かれていた「三山時代」がありました。また今の奄美も沖縄はこの頃、「按司」と呼ばれる諸侯の王が、それぞれの地域を治めていました。
北山の按司の次男に、「金松」という人物がおりました。この金松が、長浜にやって来たことから、この話は始まります。
金松が、何故、長浜に来たのかというと、その時代、北山はまさに激しい戦乱の世であり、戦に巻き込まれて命を落とすよりは、南に下って残る生涯を過ごそうと思ってやって来たのが長浜だったと伝わっています。戦乱を避け、北山で舟を盗み、その「くり舟」で残波岬の近くに、命からがら着いたのでした。
陸に上がると、喉が乾いていたので天に向かって水が欲しいと一心に願しました。すると、その願いは叶えられ、岩の間から泉が湧き出したそうです。これが、思いの泉という意の「うむいのかー」です。金松は、これで命拾いしたと大層喜んだのは言うまでもありません。
水を飲み終えた金松がそれから浜辺を見渡してみたところ、砂浜がどこまでも長く続いています。そこでその地を「長浜」と名付けました。そしてそのうちに近くの村を探しに行って、そこで暮らそうとは思うものの、取り敢えず、かつて「おおむぐい(※大きな溜池の意)」と呼ばれていた「そーちのがま(※洞窟)の鍾乳洞」の中に住みながら、貝を食べたり、また山に行って果物などを取って食べる、そんな生活を送っていました。
ところで、この金松には「うとちる」という妹がおりました。「うとちる」は女性でありながら、なかなかの豪傑であり、よく「さばに(※小舟)」を頭にのせて運ぶほどで、気丈な人物でした。
妹の「うとちる」は、兄が戦を逃れて南に行ったものの、どこか途中で遭難でもしてはいないかと、とても心配していました。そして遂に思い立ってもいられず、心配のあまり、遙々遠く今帰仁から浜づたいに、「さばに」に乗って兄を捜す旅に出たのでした。
与久田兼久辺りまでやって来た時、そこに「くーじ浜」という、砂一杯の場所に着きました。そこは人が誰もいない所ですが、人の足跡らしいものが微に残っています。「うとちる」が思うことには、「この浜は人が住んでいる気配がないのに足跡がある。もしかしたら、兄かもしれない。」と。そう考えると足跡を追って進んで行くことにしました。そして「そーちのがま」を見事に探し当てたのでした。するとそこには数限りなく沢山の足跡があります。
「うとちる」は最初、敵の足跡かもしれないと身構えながら慎重に、周囲に対して注意を払いました。しかしながら、よく眺め直してみたところ、足跡は一人のものであり、その者は洞窟を住み処としているようです。そこで「うとちる」は、洞窟の中に向かって声を張り上げて兄の名を呼んでみたのでした。
一方、金松の方は、敵がやって来たのだと思って、洞窟の奥で、宿借のように息を潜めてじっと隠れながら、敵が通り過ぎるのをやり過ごすつもりでした。
ところが、やがて聞こえてきた声は聞き覚えがある、妹「うとちる」のものに似ています。そこでより耳を欹てました。
「兄上様。私です。妹の『うとちる』でございます。もしやここにいらっしゃるのではありませんか。」と。そう、兄である自分のことを妹が呼んでいるではありませんか。
それはまさしく「うとちる」の声だと確信した金松は、返事をして洞窟から出て来ながら、どうしてこんな所にいるのかと妹に尋ねたのでした。
「うとちる」は、兄の金松が舟で出掛けてからというもの、途中で遭難でもしていないかと心配で心配で、矢も立てもいられずここまで捜しにやって来たのだと答えました。
続いて兄は、妹に色々と尋ねました。戦の方はどうなっているかと聞くと、戦争は今もなお盛んにあちこちで続いていると言います。兄の金松は、戦が収まって迎えに来たのではないと知る一方で、そんな状態では、決して再び戻れないだろうと考えました。
そこで妹に、この土地に止まり、厳しい生活ながら、兄妹で力を合わせて二人だけで暮らさないかと、「うとちる」に提案したのでした。
こうして二人は「そーちのがま」でしばらく暮らし始めることになりましたが、そこは二人で住むには少し狭かったために、やがて他の場所を探すことになりました。
尚、「そーちのがま」は後に「生きたる地」とも呼ばれるようになりますが、まさにそこで二人が生き延びたためにそう言われるようになったからであり、そしてまたこの場所は、人々から拝まれ続ける大切な場所になりました。
さてその後、この兄と妹の二人ですが、宇加地の上の方に丘があり、そこにに登ってみたところ素晴らしいグシクだと思いました(※「ぐすく」には、城と聖地の意あり。また城の中には通常、いくつかの聖地が有る。)。ここが「アンナーのグシク」で、「ああ、何て素晴らしいグシクだ」という意です。その後ここは、「アンナーのグシク」とか、「ナーグシク」と呼ばれるようになりました。
狭い「そーちのがま」から長浜に移った二人から、次々と子孫が繁栄していきました。大殿内、前ぬ殿内、中ぬ殿内、ニガン、タマイ、新城という六家は、この長浜は始まったといわれます。
そしてまたこの長浜には、始祖である兄金松と妹「うとちる」の二人の墓もあります。この二人の墓は、故郷を偲んでいるかのように、今帰仁に向かって立っています。
長浜の村は、その後も栄えて発展し続け、その中から「花織」という土地もまた長浜から始まったそうな。
※この話の参考とした話
①沖縄県中頭郡読谷村字長浜~『長浜の民話』読谷村民話資料3
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●伝承地
沖縄県中頭郡読谷村字長浜~長浜の始まりは、北山の按司で、次男にあたる金松という方が、ここにいらっしゃったことから始まる。その方が何故ここへいらっしゃったかと言うと.北山は戦乱の世で、戦にまき込まれて生命を落とすより、自分は南に下り生涯を過ごそうと思い、南の島といったらここよ。そうして、舟を盗んで、そのくり舟でここまでいらっしゃったらしい。そうして、残波岬にお着きになった。のどがかわき、水をほしがり、「水があれば生命も助かるが」と願いをすると、岩の間から泉が湧き出てきた。これがウムイのカー(思いの泉)と呼ばれている。「ああ助かった」と喜んだ。そうして、長浜の浜辺を見渡し、近くの村へ行ってそこで暮らそうということで、長浜の村に決めた。長浜の字名は、あの方がお付けになった。また、浜も長いし。それから、少しでも近い所に行こうということで、ソーチに行った。昔、ここはオオグムイ(大きな溜池)と言っていたが。ソーチにあるガマに住んで、カイを食べたり、また山に行って果物などを取って食べたりして生活をしていた。それから、その方にはウトチルという妹がいて、女だてらに豪のもので気丈な方だったらしい。サバニも頭にのせて担いだそうだ。その妹が、兄は戦に追われて南の島に流れていったが、途中で遭難はなされなかったか、どこか陸に上ってはいらっしゃらないかと、心配して、はるばる遠い今帰仁から、浜づたいに捜しにいらした。与久田兼久という所にやってくると、そこはクージ浜といって砂がいっぱいあった。そこには人は誰もいないはずなのに、人の足跡らしいものがあった。「これは、人の気配はしないのに、足跡がある。もしや兄上様がこちらにいらっしゃるのでは」と、進んで行った。そして、ソーチというガマに着いた。そこには、多勢の足跡が着いており、敵が来たのかとびっくりして、よくながめてみると、一人の足跡だがそこを住まいにしているので、出たり入ったりした足跡であった。すると、そのウトチルの声を聞いて、また敵がやって来たかと用心して、ヤドカリのように、奥に入ってじっとしていた。「兄上様、私です。妹のウトチルですよ」と中に呼びかけると、「えーウトチルって、どうして」「兄上様は舟で出かけられて、途中で遭難はされていないか、またどこかに着きはしたかと、心配して、あなたを捜しにここまでやって来ました」と言った。「すると戦はどうなっている」とたずねると、「戦は今も盛んに行われています」「んー、それではもはや帰れないし、私達二人はここで暮らそうではないか」と言った。そして、ソーチのガマで暮らしていたが、「ここは、少し狭いから、ここではだめだ」と言った。そのガマは名まえを、生きたる地と言い、そこで生きのびることができたということで、今の人もそう呼んで拝んでいる。それから宇加地の上の方に丘があるが、その丘に行って見た。「ここはすばらしいグシクだ」とさけんだ。アンナーのグシクというのは、「はあ、これはすばらしいものだ」という意味だ。しかし、今はただナーグシクといっている。そうして、さあ、ソーチは狭いので、あの長い浜辺に移ろうということで、長浜にいらっしゃった。大殿内、前ぬ殿内、中ぬ殿内、ニガン、またタマイ、それからまた、新城という、六家から長浜は始まったらしい。そしてここに兄と妹のウトチルの二人の墓もある。今帰仁に向かって立っている。長浜はたいした村だよ。花織も長浜から始まったんだよ。(『長浜の民話』読谷村民話資料3)
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