腓城 ~琉球沖縄の伝説

横浜のトシ

2011年08月05日 20:20


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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第174話。


(くんだ/くんら・)(ぐしく/ぐすく)



 むかし(むかし)のこと、(おう)武芸(ぶげい)試合(しあい)をさせました。それは琉球(りゅうきゅう)一番(いちばん)(つよ)(もの)(だれ)かを見極(みきわ)めるためで、(おう)は、真剣勝負(しんんけんしょうぶ)をさせたそうです。そして最後(さいご)に、二人(ふたり)(のこ)りました。
 一方(いっぽう)(もの)には兄弟(きょうだい)(おお)く、他方(たほう)(もの)一人息子(ひとりむすこ)だったそうです。その一人息子(ひとりむすこ)母親(ははおや)が、兄弟(きょうだい)(おお)相手(あいて)()いに()て、()うことには、
 「あなたには兄弟(きょうだい)(おお)いが、私共(わたくしども)には、息子(むすこ)一人(ひとり)きりです。真剣勝負(しんけんしょうぶ)である以上(いじょう)、まかり間違(まちが)えば、どちらかが()(こと)になります。どうか、あなたが()けて(くだ)さい。」と。
 そう()って、(たの)んだのでした。それを()いて(おどろ)いた(おとこ)は、(おこ)りながら()(こと)には、
 「いくら、お(ねが)いされても(こま)る。そもそも()()可愛(かわい)さの(あま)自分(じぶん)見失(みうしな)って、(ひと)()ねとは、一体(いったい)貴女(あなた)は、どんな了見(りょうけん)でやってきたのだ。自分(じぶん)(なに)をしているのか、恥知(はじし)らずな(かんが)えは、お()てなさい。」と。
 すると、(はは)()(こと)には、
 「滅相(めっそう)もありません。そんな、貴方様(あなたさま)()んで(くだ)さいと御願(おねが)いしに()たわけではありません。そうではなくて、ただ()けた()りをして(くだ)されば、()いだけの(こと)なのです。」と。
 こうして、言葉(ことば)(たく)みに(おとこ)説得(せっとく)したのでした。そして、年老(としお)いた母親(ははおや)から説得(せっとく)された(おとこ)は、(おや)()(おも)(ねが)いに、ほだされたのでした。
 いよいよ、(おう)御前(ごぜん)での真剣勝負(しんけんしょうぶ)()がやってきました。勝負(しょうぶ)(はじ)まるや(いな)や、()ぐさま(おとこ)は、()けた演技(えんぎ)をしました。()うまでもなく()った(おとこ)は、琉球(りゅうきゅう)一番(いちばん)(つよ)(ひと)としての賞賛(しょうさん)()ました。
 一方(いっぽう)()けた(おとこ)(たい)して、(おう)(おこ)りました。(いま)まで()をかけ、()()ててきて、また立派(りっぱ)能力(のうりょく)(そな)えているというのに、(きず)(ひと)()うこともなく()けたことに(はら)()てたからです。そして()けた(おとこ)を、(いま)までの指南役(しなんやく)から(はず)してしまいました。
 (はなし)はかわりますが、(じつ)王女(おうじょ)がこの(おとこ)(こと)を、()きで()きでたまらなかったそうです。(おとこ)王女(おうじょ)()きでした。王女(おうじょ)は、(おとこ)(たず)ねることには、
 「何故(なぜ)あなたは、あんな(もの)になど、()けたのですか。
 あなたがあの程度(ていど)(おとこ)()けるなど、絶対(ぜったい)にあり()ないと、みんなが()っております。」と。
 そこで(おとこ)は、これこれこういう(わけ)で、()こうの母親(ははおや)()けるよう懇願(こんがん)され、しかも一人息子(ひとりむすこ)(ころ)すなど、とても自分(じぶん)には出来(でき)ず、(ほか)にどうしようもなくこうなったのだと、(こと)次第(しだい)(かた)って()かせたのでした。そう(はな)した場所(ばしょ)は、首里城(しゅりじょう/すいぐすく/すいぐしく)(ほり)の、赤木(あかぎ)沢山(たくさん)(しげ)る、いつもの密通(みっつう)場所(ばしょ)での(こと)でした。ところが二人(ふたり)()って(はな)しているところを、運悪(うんわる)く、(しろ)夜回(よまわ)りの(もの)()つかってしまいました。もしもこれが(おう)(みみ)(はい)れば、身分(みぶん)(ちが)いの(ゆる)されぬ二人(ふたり)関係(かんけい)は、お(しま)いです。()()きで(おとこ)は、()りかかってきた夜回(よまわ)りを(ぎゃく)()ってしまいました。ほどなく、首里(しゅり)城内(じょうない)では、警備(けいび)夜回(よまわ)(ころ)されたのですから大騒(おおさわ)ぎになりました。
 その(ばん)(おとこ)(いえ)(かえ)ると、夜回(よまわ)りが()られた(はなし)は、(さき)家族(かぞく)(つた)わっていました。
 (おとこ)()かって(はは)(つま)は、城内(じょうない)大変(たいへん)(さわ)ぎになっているようだが(なに)()らないかと(たず)ねました。しかし(おとこ)は、自分(じぶん)(なに)()らないと(こた)えました。それから(つま)は、(おっと)羽織袴(はおりばかま)(たた)んでいると、王女(おうじょ)(かみ)()ける花染(はなぞ)めの手拭(てぬぐ)いが()てきたのでした。それを()(つま)は、あなたがあんな(だい)それた(こと)をしでかしたのかと(さけ)びだし、その狼狽(ろうばい)()(みだ)しようは、大変(たいへん)なものでした。
 すると、その(つま)様子(ようす)をいち(はや)()きつけたのが、御前試合(ごぜんじあい)()った(おとこ)でした。(おとこ)(すく)さま、(おう)()(ぐち)したのでした。
 早速(さっそく)(しろ)から調(しら)べるために(ひと)がやって()て、捜索(そうさく)で、花染(はなぞ)めの手拭(てぬぐ)いが()つかり、そのまま(おとこ)(つか)まりました。
 ところで南風原(はえばる)に、首里城(しゅりじょう)(もの)がよく乗馬(じょうば)稽古(けいこ)をしたり、(うま)調教(ちょうきょう)する馬場(ばば)識名馬(しきなば)イーという(ところ)がありました。
 ある()のことです。(おとこ)はそこに()()てられたのでした。
 なお、(おとこ)(やり)()いて死刑(しけ)にするか(いな)かは、首里城(しゅりじょう)城壁(じょうへき)から識名馬場(しきなばば)()かって、ある()まった時間(じかん)に、(はた)合図(あいず)をする(こと)になっていました。
 (はた)(たお)れれば、処刑(しょけい)()っていれば、処刑(しょけい)中止(ちゅうし)です。
 なおその(はた)()ちの役目(やくめ)は、どうやったか(さだ)かではありませんが、王女(おうじょ)なのでした。
 さて、いよいよ、その時刻(じこく)(ちか)づきました。処刑場(しょけいじょう)では、(おとこ)(やり)()けられます。
 その一方(いっぽう)(しろ)城壁(じょうへき)(うえ)では、王女(おうじょ)(はた)()てようとしていました。
 ところが、あろうことか王女(おうじょ)(はた)()ったまま(つまず)いてしまい、(たお)れてしまったのです。
 ()うまでもなく、その瞬間(しゅんかん)(おとこ)(やり)()かれ、息絶(いきた)えました。(しろ)(うえ)からその様子(ようす)見下(みおろ)していた王女(おうじょ)も、そこからそのまま、()()げて、()んでしまいました。
 王女(おうじょ)亡骸(なきがら)は、(ひと)容易(ようい)(ちか)づけない、城壁(じょうへき)途中(とちゅう)赤木(あかぎ)(えだ)()()かってぶら()がり、(いぬ)()べてしまったそうです。そして(あし)(ふく)(はぎ)、クンダだけが(のこ)りました。
 それからというもの、その周辺(しゅうへん)のことを、腓城(くんだぐしく)()うようになったのだそうな。
 さて琉球(りゅうきゅう)で「(ぐすく/ぐしく)」という文字(もじ)には、(ふた)つの場合(ばあい)があります。(ひと)つは(しろ)()であり、もう(ひと)つは聖域(せいいき)()です。首里城(しゅりじょう)腓城(くんだぐしく)は、()うまでもなく後者(こうしゃ)意味(いみ)です。
 なお腓城(くんだぐしく)()のいわれとして、(ほか)(はなし)(つた)わっています。
 第一尚氏(だいいちしょうし)最後(さいご)の王である尚徳王(しょうとくおう)(ころ)されると、王妃(おうひ)乳母達(うばたち)王子(おうじ)()いて(しろ)から()げたものの、真玉城(まだんぐすく)(かく)れているのを()つけられて(ころ)され、首里城(しゅりじょう)(がけ)(した)腓城(くんだぐしく)(ほうむ)られたのでした。
 それから(のち)(こと)、この聖地(せいち)(ねが)(ごと)をして(かな)えられた、真壁(まかべ/まかび)間切(まぎり)真栄平(まえひら/めーでーら)(そん)の、金城(きんじょう)という(おとこ)がおりました。金城(きんじょう)は、王妃(おうひ)王子(おうじ)遺骸(いがい)を、自分(じぶん)(むら)真栄平(まえひら)グスクに(まつ)りました。ところがその(さい)に、腓骨(ひこつ)一本(いっぽん)が、(もと)場所(ばしょ)(のこ)ったそうです。後世(こうせい)(ひと)が、その(ほね)(おが)んで信仰(しんこう)したので、クンダ(ぐすく/ぐしく)といわれるようになったという()(つた)えも、あるそうな。


 
※この話の参考とした話
沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町神里~「ふるさとの民話 南風原町」第一集
沖縄本島・沖縄県うるま市(旧・具志川市)~『具志川市誌』
◆腓城の場所◆~首里城を取り巻く道と、赤マルソウ通りが交差する三叉路の周辺に、むかし慈悲院の井戸(でーふぃんがー)があり、この周辺は首里城の下のため「ぐしくぬしちゃー」とも呼ばれ、その首里城の城壁あたりが腓城(くんだぐしく/くんだぐすく)だといわれる。


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●伝承地
○沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町神里~王様が、武芸の試合させてね。首里の配下で、一番強い者は誰かという真剣勝負させようとしたら、片方は、兄弟も多かったが、片方は、一人息子だった。その母親が、「あなた方は兄弟も多いが、私達は、これ一人。真剣勝負というからまかり間違えば、死ななければならない。何とかあなたが負けてくれないか」と頼んだ。そしたらね、「だったら、私に死ねというのですか」と言ったらしいね。「そうではないがね、どうにかして負けたふりをしてくれないか」と、そう言われたもんだから、強い親の願いにいやとも言えないで、「それじゃあ、そうしましょう」と言ってね。今度は、王様の前で真剣勝負をしたそうです。始まったばかりのときに、「しまった」と言ってね、負けたふりをしたそうです。そしたら、王様は、相手の男を勝ちと言ってね、それが首里で一番強い人ということになった。そして、もう一人の負けた人には、怒って、「今まで立派ないい手を持っているのに、傷一つもないのにね、負けたということがあるか」って言ってね、この男を指南役から外したらしい。その王様の王女は、この男が好きでたまらない。男も王女が好きだったわけ。これを聞いた王女も、「なぜ、あんたがあんなに負けたか、今まで、あんたが負けることは絶対ないのに」って言うたらね、「いや、こうこうわけでね、向こうのお母さんが、私に、『ぜひ、あんた、負けてくれ』と言うもんだから、向こうは一人息子なので、どうすることもできなくて、私はこういうふうになった」って言ってね。こういうふうに話して、首里城のお堀の赤木のたくさんあるところで、密通したらしいんですよ。それで、そういうふうに話し合いするのを、夜回りに見られてね、「あの夜回りから王様にこれを告げ口されたら、わしらはたいへんだ。打ち首だから」とその夜回りを斬ってしまったらしい。それから、首里の城内では、夜回りが殺されたと、大騒ぎになって、取り調べになってね。その晩、男が家に帰ったら、妻だったか、お母さんだったか、はっきりわからないが、「昨夜、首里でこういうふうな話があって、城内は非常に騒いでおるが、まさかあんたは、そんなことやらなかったでしょうねえ」と言ったって。「いや、私は何も、何もやりませんでした」そして、奥さんかお母さんかわからないが、羽織袴を畳もうとしたらね、この間に指輪が入ってるような気がした。これ出してみたらね、王女の髪にする花染の手拭いだったらしい。それを見て、「あんたはもうたいへんだ。そんな大変なことをあんたがやったかねえ。やがて、向こうから取り調べに来る」と言った。そのことを、私は、一番強いと認められたという相手の男が、またこの男をけなそうとして、告げ口したらしいなあ。「確かにあれがやった」とかなんとか。そして、向こうから調べに来て、花染め手拭いのあるのを見て、「これはもう、この人にまちがいない」と言って。そしてねえ、南風原高校の向こうに首里城の人が馬のけいこする馬場で、識名馬イーという所がありますよね。あそこで、男は処刑されることになった。そして、識名の馬場で死刑にする男を槍で突こうとするときの合図に、首里城の城壁からは、識名馬場に向かってね、時間を決めて旗を立てた。この旗が倒れたら処刑してもいい。まだ立っていたら、処刑してはいけないと。この旗持ちは、この王女だったらしいですよ。あっちで槍を向けてね、やろうかとするときに、王女がまちがってつまついてね、倒れたらしいですよ。それで、旗は倒れた。倒れたから、向こうから刺された。それで、王女は、「あっ、しまった」と言って、すぐ城壁から落ちて王女も死んでしまった。この王女のなきがらは、城壁の途中の赤木の枝にぶらさがっていたのを、犬が喰ってしまったので、足のふくらはぎ(クンダ)だけが残っておったって。で、向こうは腓城(クンダグシク)という。(「ふるさとの民話 南風原町」第一集)
○沖縄本島・沖縄県うるま市(旧・具志川市)~第一尚氏の尚徳王は、酒女にふけり久高祝女との愛に溺れたために二九歳の年に安里親方に滅ぼされた。そのとき王妃と乳母は、王子を抱いて城を脱出し真玉城に隠れたが見つけられて殺され、首里城の崖の下に葬られた。その後、そこは何事も願いを叶えるということで信仰された。あるとき、真壁間切真栄平村の謝名の家の出の者で、金城という男が奉公先で事務上の手違いを起こし、処罰されることになった。それで、その王妃の骨を葬る崖下に行って、「死罪だけは免れますように。もし願いが叶いましたら自分の出身地で手厚く葬ります」とお祈りした。その後で、軽微な処置で済んだ男は、王妃の遺骸を祈願した通りに自分の村に移して、手厚く葬った。しかし、狼狽のためか、腓骨の一本がそこに残ってしまった。後世の人達は、腓骨を拝むようになり、この場所をクンダ城と称するようになった。(『具志川市誌』)

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