腓城 ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第174話。
腓城
むかし昔のこと、王が武芸の試合をさせました。それは琉球で一番強い者が誰かを見極めるためで、王は、真剣勝負をさせたそうです。そして最後に、二人が残りました。
一方の者には兄弟が多く、他方の者は一人息子だったそうです。その一人息子の母親が、兄弟が多い相手に会いに来て、言うことには、
「あなたには兄弟が多いが、私共には、息子は一人きりです。真剣勝負である以上、まかり間違えば、どちらかが死ぬ事になります。どうか、あなたが負けて下さい。」と。
そう言って、頼んだのでした。それを聞いて驚いた男は、怒りながら言う事には、
「いくら、お願いされても困る。そもそも我が子可愛さの余り自分を見失って、人に死ねとは、一体貴女は、どんな了見でやってきたのだ。自分が何をしているのか、恥知らずな考えは、お捨てなさい。」と。
すると、母が言う事には、
「滅相もありません。そんな、貴方様に死んで下さいと御願いしに来たわけではありません。そうではなくて、ただ負けた振りをして下されば、良いだけの事なのです。」と。
こうして、言葉巧みに男を説得したのでした。そして、年老いた母親から説得された男は、親の子を思う願いに、ほだされたのでした。
いよいよ、王の御前での真剣勝負に日がやってきました。勝負が始まるや否や、直ぐさま男は、負けた演技をしました。言うまでもなく勝った男は、琉球で一番強い人としての賞賛を得ました。
一方、負けた男に対して、王は怒りました。今まで目をかけ、取り立ててきて、また立派な能力を備えているというのに、傷一つ負うこともなく負けたことに腹を立てたからです。そして負けた男を、今までの指南役から外してしまいました。
話はかわりますが、実は王女がこの男の事を、好きで好きでたまらなかったそうです。男も王女が好きでした。王女は、男に尋ねることには、
「何故あなたは、あんな者になど、負けたのですか。
あなたがあの程度の男に負けるなど、絶対にあり得ないと、みんなが言っております。」と。
そこで男は、これこれこういう訳で、向こうの母親に負けるよう懇願され、しかも一人息子を殺すなど、とても自分には出来ず、他にどうしようもなくこうなったのだと、事の次第を語って聞かせたのでした。そう話した場所は、首里城の堀の、赤木が沢山茂る、いつもの密通場所での事でした。ところが二人が会話しているところを、運悪く、城の夜回りの者に見つかってしまいました。もしもこれが王の耳に入れば、身分違いの許されぬ二人の関係は、お終いです。成り行きで男は、斬りかかってきた夜回りを逆に斬ってしまいました。ほどなく、首里の城内では、警備の夜回が殺されたのですから大騒ぎになりました。
その晩、男が家に帰ると、夜回りが斬られた話は、先に家族に伝わっていました。
男に向かって母と妻は、城内で大変な騒ぎになっているようだが何か知らないかと尋ねました。しかし男は、自分は何も知らないと答えました。それから妻は、夫の羽織袴を畳んでいると、王女が髪に付ける花染めの手拭いが出てきたのでした。それを見た妻は、あなたがあんな大それた事をしでかしたのかと叫びだし、その狼狽と取り乱しようは、大変なものでした。
すると、その妻の様子をいち早く聞きつけたのが、御前試合で勝った男でした。男は直さま、王に告げ口したのでした。
早速、城から調べるために人がやって来て、捜索で、花染めの手拭いが見つかり、そのまま男は捕まりました。
ところで南風原に、首里城の者がよく乗馬の稽古をしたり、馬を調教する馬場、識名馬イーという所がありました。
ある日のことです。男はそこに引き立てられたのでした。
なお、男を槍で突いて死刑にするか否かは、首里城の城壁から識名馬場に向かって、ある決まった時間に、旗で合図をする事になっていました。
旗が倒れれば、処刑。立っていれば、処刑は中止です。
なおその旗持ちの役目は、どうやったか定かではありませんが、王女なのでした。
さて、いよいよ、その時刻が近づきました。処刑場では、男に槍が向けられます。
その一方、城の城壁の上では、王女が旗を立てようとしていました。
ところが、あろうことか王女は旗を持ったまま躓いてしまい、倒れてしまったのです。
言うまでもなく、その瞬間、男は槍で突かれ、息絶えました。城の上からその様子を見下していた王女も、そこからそのまま、身を投げて、死んでしまいました。
王女の亡骸は、人が容易に近づけない、城壁の途中の赤木の枝に引っ掛かってぶら下がり、犬が食べてしまったそうです。そして足の脹ら脛、クンダだけが残りました。
それからというもの、その周辺のことを、腓城と言うようになったのだそうな。
さて琉球で「城」という文字には、二つの場合があります。一つは城の意であり、もう一つは聖域の意です。首里城の腓城は、言うまでもなく後者の意味です。
なお腓城の名のいわれとして、他の話も伝わっています。
第一尚氏最後の王である尚徳王が殺されると、王妃や乳母達は王子を抱いて城から逃げたものの、真玉城に隠れているのを見つけられて殺され、首里城の崖の下、腓城に葬られたのでした。
それから後の事、この聖地で願い事をして叶えられた、真壁間切真栄平村の、金城という男がおりました。金城は、王妃や王子の遺骸を、自分の村の真栄平グスクに祀りました。ところがその際に、腓骨の一本が、元の場所に残ったそうです。後世の人が、その骨を拝んで信仰したので、クンダ城といわれるようになったという言い伝えも、あるそうな。
※この話の参考とした話
①沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町神里~「ふるさとの民話 南風原町」第一集
②沖縄本島・沖縄県うるま市(旧・具志川市)~『具志川市誌』
◆腓城の場所◆~首里城を取り巻く道と、赤マルソウ通りが交差する三叉路の周辺に、むかし慈悲院の井戸(でーふぃんがー)があり、この周辺は首里城の下のため「ぐしくぬしちゃー」とも呼ばれ、その首里城の城壁あたりが腓城(くんだぐしく/くんだぐすく)だといわれる。
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●伝承地
①○沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町神里~王様が、武芸の試合させてね。首里の配下で、一番強い者は誰かという真剣勝負させようとしたら、片方は、兄弟も多かったが、片方は、一人息子だった。その母親が、「あなた方は兄弟も多いが、私達は、これ一人。真剣勝負というからまかり間違えば、死ななければならない。何とかあなたが負けてくれないか」と頼んだ。そしたらね、「だったら、私に死ねというのですか」と言ったらしいね。「そうではないがね、どうにかして負けたふりをしてくれないか」と、そう言われたもんだから、強い親の願いにいやとも言えないで、「それじゃあ、そうしましょう」と言ってね。今度は、王様の前で真剣勝負をしたそうです。始まったばかりのときに、「しまった」と言ってね、負けたふりをしたそうです。そしたら、王様は、相手の男を勝ちと言ってね、それが首里で一番強い人ということになった。そして、もう一人の負けた人には、怒って、「今まで立派ないい手を持っているのに、傷一つもないのにね、負けたということがあるか」って言ってね、この男を指南役から外したらしい。その王様の王女は、この男が好きでたまらない。男も王女が好きだったわけ。これを聞いた王女も、「なぜ、あんたがあんなに負けたか、今まで、あんたが負けることは絶対ないのに」って言うたらね、「いや、こうこうわけでね、向こうのお母さんが、私に、『ぜひ、あんた、負けてくれ』と言うもんだから、向こうは一人息子なので、どうすることもできなくて、私はこういうふうになった」って言ってね。こういうふうに話して、首里城のお堀の赤木のたくさんあるところで、密通したらしいんですよ。それで、そういうふうに話し合いするのを、夜回りに見られてね、「あの夜回りから王様にこれを告げ口されたら、わしらはたいへんだ。打ち首だから」とその夜回りを斬ってしまったらしい。それから、首里の城内では、夜回りが殺されたと、大騒ぎになって、取り調べになってね。その晩、男が家に帰ったら、妻だったか、お母さんだったか、はっきりわからないが、「昨夜、首里でこういうふうな話があって、城内は非常に騒いでおるが、まさかあんたは、そんなことやらなかったでしょうねえ」と言ったって。「いや、私は何も、何もやりませんでした」そして、奥さんかお母さんかわからないが、羽織袴を畳もうとしたらね、この間に指輪が入ってるような気がした。これ出してみたらね、王女の髪にする花染の手拭いだったらしい。それを見て、「あんたはもうたいへんだ。そんな大変なことをあんたがやったかねえ。やがて、向こうから取り調べに来る」と言った。そのことを、私は、一番強いと認められたという相手の男が、またこの男をけなそうとして、告げ口したらしいなあ。「確かにあれがやった」とかなんとか。そして、向こうから調べに来て、花染め手拭いのあるのを見て、「これはもう、この人にまちがいない」と言って。そしてねえ、南風原高校の向こうに首里城の人が馬のけいこする馬場で、識名馬イーという所がありますよね。あそこで、男は処刑されることになった。そして、識名の馬場で死刑にする男を槍で突こうとするときの合図に、首里城の城壁からは、識名馬場に向かってね、時間を決めて旗を立てた。この旗が倒れたら処刑してもいい。まだ立っていたら、処刑してはいけないと。この旗持ちは、この王女だったらしいですよ。あっちで槍を向けてね、やろうかとするときに、王女がまちがってつまついてね、倒れたらしいですよ。それで、旗は倒れた。倒れたから、向こうから刺された。それで、王女は、「あっ、しまった」と言って、すぐ城壁から落ちて王女も死んでしまった。この王女のなきがらは、城壁の途中の赤木の枝にぶらさがっていたのを、犬が喰ってしまったので、足のふくらはぎ(クンダ)だけが残っておったって。で、向こうは腓城(クンダグシク)という。(「ふるさとの民話 南風原町」第一集)
②○沖縄本島・沖縄県うるま市(旧・具志川市)~第一尚氏の尚徳王は、酒女にふけり久高祝女との愛に溺れたために二九歳の年に安里親方に滅ぼされた。そのとき王妃と乳母は、王子を抱いて城を脱出し真玉城に隠れたが見つけられて殺され、首里城の崖の下に葬られた。その後、そこは何事も願いを叶えるということで信仰された。あるとき、真壁間切真栄平村の謝名の家の出の者で、金城という男が奉公先で事務上の手違いを起こし、処罰されることになった。それで、その王妃の骨を葬る崖下に行って、「死罪だけは免れますように。もし願いが叶いましたら自分の出身地で手厚く葬ります」とお祈りした。その後で、軽微な処置で済んだ男は、王妃の遺骸を祈願した通りに自分の村に移して、手厚く葬った。しかし、狼狽のためか、腓骨の一本がそこに残ってしまった。後世の人達は、腓骨を拝むようになり、この場所をクンダ城と称するようになった。(『具志川市誌』)
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