義本王 ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第68話。
義本王
昔々のお話です。
源舜天は、源為朝の息子といわれ、琉球國の五つの王代の最初、舜天王統の初代国王です。
その長男が、舜馬順煕王であり、その息子が義本王です。舜天王統は、この三代目、義本王で終わりを告げます。そもそも舜天王統は、一一八七年に、源為朝の第四子尊敦が、時の権力者、利勇を倒し、浦添按司となって開いた琉球國最初の王統です。
そして、七十三年続いた舜天王統最後の義本王に代わって、次の王代である英祖王統、初代英祖王の時代になります。
さてこれは、そんな義本王時代のお話です。
義本王の時代、浦添が琉球の中心でした。
また英祖王は、まだ役人をしていました。
天災や飢饉や疫病が大流行し、人々の約半分が亡くなってしまいます。義本王はこれを、自分の不徳の致すところと考えたのでした。そして役人達を集めると、自分に代わって政治を執り行うことが出来る人物は誰かいないかと尋ねたところ、英祖のテダコ、その人しかいないと言われたのでした。
早速呼ばれた英祖は、義本王の命で王の衣装を身に着けさせられ、王に代わって政治を執り行ったのでした。
七年間、その様子を見守った義本王は、やがて疫病が治まって平和に戻ると、安心して英祖に王の位を譲って隠退したとも言われていますが、その後の消息は不明で、謎とされています。
一説には、国頭の辺土村の佐久真家に身を寄せてそこの娘と結婚したとも言われ、今も墓があります。またその他にも色々な言い伝えがあるそうな。
※この話の参考とした話
①沖縄本島・沖縄県浦添市西原~「昭和五五年度 沖縄国際大学口承文芸研究会西原調査草稿」
②沖縄本島・沖縄県国頭郡国頭村~『国頭村史』
③沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~『宇座の民話』読谷村民話資料6
④沖縄本島・沖縄県中頭郡北中城村~『北中城村史』『国頭村史』
⑤沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村~『字伊是名今昔誌』
⑥沖縄県沖縄本島~『中山世鑑』巻一
⑦同右~『中山世譜』巻一
⑧同右~『球陽』巻一
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●伝承地
①沖縄本島・沖縄県浦添市西原~源の舜天は、源為朝の息子でしょう。その長男が舜馬順煕王わかるでしょう。舜馬順煕王の息子が義本王。義本王の時代にね。あの当時は、浦添城址が沖縄の政府だから、英祖王は、そこの政府のね、役人をやっておったらしいんだ。その義本王が王をやってるときに、あの天然痘といって悪い病気があるでしょう。あれが流行ってさ、もうほとんどの人が死んでしまってね、もう大変なことになったらしいんだよね。
その義本王は、「私はもう身分が低いから、生まれかたの身分が低くて、王の位に立つ人間でないから」と役人に、「私に代わって政治をやってくれる人はいないか」と聞いたらね、「その仕事であったらもう英祖のテダコ(太陽の子)その人しかいない」と言って。で、「その人を呼べ」と言って、呼んだらしいんですよね。
呼んで、その人に、「あの私の束帯着て、私の代わりにしばらく政治を執ってくれないか」と言う。なんでもその義本王が、その英祖の人にという話をやったらしいんだ。そうしたら、その人引き受けてやったらね、疫病もなくなって、もう病気も全部なくなって平和になったもんだから義本王は、「あなたは、私よりは身分が上だから、あなたが王に代わってやってくれ。私は辞めるから」と言ってね。それから義本は、夜通し逃げて、国頭のあの辺土の方へ行って、向こうの山で暮らしをして、向こうにお墓もあるんですよね。義本王が向こう行って、それから継いだのが英祖王ですよね。(「昭和五五年度 沖縄国際大学口承文芸研究会西原調査草稿」)
②沖縄本島・沖縄県国頭郡国頭村~義本王の時代に、疫病が相次いでいた。すると何処からともなく現れた白髪の老人が、「神の怒りだ。それをなだめるには、王を火炙りにしなけれぽならない」と告げた。やがて王に火が燃え移ろうとしたとき、大雨が降り、難を免れた王は国頭に逃げ、辺戸祝女と夫婦になった。その子が後の尚巴王の祖先であろうといわれている。(『国頭村史』)
③沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~義本王の時代、旱魃が続いたり、雨の日が長期に亘ったりした。その罪で、義本王は火炙りにされることになったが、立ち込める煙の中から逃げ出した。義本王が逃げる途中、水を得て一息つくことが出来た場所がムヌウムイヌカー、魚を捕った網を干していた所がアミフシモーと呼ばれている。(『宇座の民話』読谷村民話資料6)
④沖縄本島・沖縄県中頭郡北中城村~義本王は、王位を譲った後、身の危険を感じ王府を逃れて北の果ての国頭の辺土から伊地に至り、さらに読谷山間切瀬名波に留まり、最後に中城村仲順に留まったという。その墓は、今に国頭村の伊地・佐手・辺戸と中城村の仲順と四箇所にある。(『北中城村史』『国頭村史』)
⑤沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村~義本王は、沖縄本島からお供一人なお馬一匹とともに、屋那覇島の南方、ウジの口から珊瑚礁内に入港、後に伊是名島に渡り、しばらく休養をとり、諸見村間手茶の、トーフロから出港、具志川島に到着した。その港がユンケロ(夜迎口)と称されている。この具志川島で大事な馬が死んだので、それから具志川には、馬が一匹も育たなくなったという。義本王は、ついにこの具志川島でお供とともになくなったとも言い、奄美へ渡ったとも言われる。(『字伊是名今昔誌』)
⑥沖縄県沖縄本島~義本王ハ、舜馬順煕第一ノ王子也。南宋開僖二年丙寅ニ、御誕生。四十四歳ニテ御即位。其明年、天下大ニ飢饉。次ノ年ヨリ打続、疾疫有テ、人民半ハ、失ニケル間、君大ニ歎キ思召シ、群臣ヲ召被、宣ケルハ、上者源也。下者流也。上者表也。下者影也。表端則影正。源潔則流清。是自然之理也。故天下人之一身如。元気固、則百邪能侵能不。元気既衰、則邪気之由而入、ト云ヘリ。
今ノ疫癘ハ、併、朕ガ不徳ニ、依ルベシ。天下、天下之天下。
一人之天下非ート云ナレバ、誰ニカ、家国ヲバ譲可。ト問給ケレバ、群臣咸、恵祖世主ノ嫡子、英祖ヲゾ、挙ニケル。
君大ニ悦、サラバトテ、英祖ヲ召被、試ニ国ノ政ヲ司ラシメ給ケルニ、賢進事ハ、舜八愷挙、后土主使、八元挙、五教於四方上布使如。不肖退事ハ、舜投二四兇於四裔投如。
依テ、景星出、卿雲興、疾疫、止ニケリ。英祖、政摂給事、七年ニシテ、義本王、在位十一年、御年五十四ニシテ、御位ヲノガレテ、英祖ニゾ譲リ給。」(『中山世鑑』巻一)
⑦同右~義本王。人為。天資削弱。仁而断少。就位之後。饑饉頻加。疫癘大作。人民半失。義本大驚。群臣召曰。先君之世。国豊民安。今予徳無。饑疫幷行。是天之棄所也。予下譲位于有徳譲而退要。卿等我為之挙。群臣僉曰。恵祖世主之嫡子。英祖名。生瑞徴有。聖徳大著。国人之敬。義本大喜。英祖召。国事摂。果然。疫止年豊。摂政七年。人心皆之帰。宋、宝祐七年己未。義本。年五十四。在位十一年。英祖論曰。予天棄所為。民半失致。今汝政乗。年豊民泰。乃天之眷所也。宜大統承、民為父母ベシ。英祖固辞。
群臣皆之勧。義本。遂位于英祖譲而隠。其隠処。今考可無。故寿薨伝不。(舜天丁未起。義本己未尽。凡三王。 七十三年)(『中山世譜』巻一)
⑧同右~義本王、神号、伝はらず。即位元年(宋の淳祐九年己酉)十一年、王、饑疫並行するを以て、位を英祖に譲る。王、位に就くの後、饑饉頻りに加はり、疫癘大いに作りて、人民半ば失ふ。王、大いに驚き群臣を召して曰く、先君の世は国豊にして民安し。今、予、徳無く饑疫幷行す。是れ天の棄つる所なり。予、位を有徳に譲りて退かんとす。卿等、我が為に之れを挙げよと。群臣僉曰く、恵祖世主の嫡子、名は英祖、生るるに瑞徴有り、聖徳大いに著はる。国人之れを尊ぶと。王、大いに喜び、英祖を召して国事を摂せしむ。果然疫止み年豊なり。政を摂すること七年、人心皆之れに帰す。宋の宝祐七年己未、王、英祖に論して曰く、予天の棄つる所と為り、民半ば失ふに致る。今、汝政を乗るに、年豊かに民泰し。乃ち天の眷みる所なり。宜しく大統を承け民の父母と為るべしと。英祖固く辞す。群臣皆之れを勧む。王、遂に位を英祖に譲りて隠る。其の隠るる処、今考ふべき無し。(『球陽』巻一)
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