生き返った魚 ~琉球沖縄の伝説
みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第110話。
生き返った魚
私の三代前の、お婆さんは、聞くところ何でも神人で、いらっしゃったそうです。代々伝えられてきました、その人の物語を、今日は少しばかり、お話ししてみましょう。
ある時、大和の薩摩の国から、王の使いの船が、与那原の浜に着きました。
三月三日は浜下りの日で、祭殿である御殿や殿内の女性達も三月遊びということで、女の節句、浜遊びを楽しんでおりました。
その中に、西村御殿とかいう所の、たいそう美しい神人がいたそうです。詳しい経緯は分かりませんが、遊んでいた神人の娘達の中から、この西村御殿の娘を、薩摩の人は船に乗せて、大和に連れて行ってしまったそうです。
娘は、まだ十七、八歳の若さのため、余りに習慣も生活も違う薩摩の暮らしに慣れる事なく、故郷に帰してくれるようにと、幾度となく御願いしたものの、許されることはなく、いつまでも、泣き暮らしていたそうです。
そうこうしているうちに、娘は薩摩に人の子を身籠もりました。薩摩の人は、これで故郷の事は忘れてくれるだろうと安心しました。
ところが実際は全く逆で、娘はこう言いました。
「ここで私が子を産んだとしても、私は、これから先、ずっとここで生きていこうとは思いません。
人はやがて、みんな死にます。
私は、生まれた故郷で死ぬと、決めているのです。ですからどうぞ、帰して下さい。」と。
顔を見合わせる毎に、娘は色々な手でお願いするため、主人はある時、何気に言いました。
「では、この甕に漬けてある魚を、海にでも水の中にでも入れて、もしも生き返ったなら、貴女を故郷に帰して上げましょう。それまでは、故郷には帰れないと思いなさい。」と言ったそうです。
すると娘は、その魚を大きな盥に入れると、懸命に願いをかけたそうです。するとその魚は驚いた事に、生き返ったのです。
流石に主人は、言いました。
「貴女は、ただの人ではありません。琉球の神に仕えるべき人のようです。故郷に帰してあげましょう。」と、そう言って、帰されたそうです。そうして、娘が帰り着いた浜は、与那原の浜だったそうです。
しかしながら浜には着いたものの、自分は薩摩の人の子を身籠もっていたため、親元には、帰る事が出来ませんでした。
というのも、丁度その時代、御殿や殿内の神聖であるべき娘が、親の許しなく、勝手に男と付き合うなど、考えられませんでした。まして、子どもを妊娠したなど、大変な不義理だと考えられていた時代でした。
そこで娘は、与那原の浜に近い、三津武獄の山の林の中で子どもを産むと、自分で命を絶ってしまったそうです。
尚その子どもは、ある玉城間切の人が、育て上げ、子どもは成長したそうです。
すると、やがてその神人の話は薩摩や首里王府にまで聞こえ、罪もないこの娘の墓が、三津武獄に造られたそうです。
玉城間切で育ったその子どもは、やがて玉城間切の主となり、子どもは三男まで、いたそうです。そして長男は玉城間切に住み、次男の子孫は糸満、三男の子孫は読谷で、暮らすようになったと伝わっています。
その三男から、安田の家が始まったと言われていますが、安田の姓は、昔の沖縄にはありません。この読谷に来た三男は、渡慶次ぺークーミーという名だったと言われています。そういう事で、清明祭の時など、私達は、三津武獄の墓を今でも拝んで、また鹿児島に向かっても、拝んでいるというわけです。
※この話の参考とした話
①沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村字伊良皆~『伊良皆の民話』読谷村民話資料1
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●伝承地
①沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村字伊良皆~私の三代前のお婆さんは神人でいらっしゃったそうだ。その人から聞いた話を聞かすのだがね。大和の薩摩の国から王様の使いか王様が与那原の浜に漕ぎ船でね、ここに来られた人がいたようだ。そして、三月三日には、御殿や殿内の女達が三月遊びと言って、浜遊びをするでしょう。そこの場所にこの人もいらしたようだね。そうしたら、ここで三月遊びをしている時に、この中に西村御殿とかいう所の娘で、たいそう美しい人がいらっしゃったそうだ。それで遊んでいる娘達の中からこの西村御殿の娘一人を、薩摩の人がその船に乗せてしまってね。大和に連れて行かれたわけだ。そうやって、連れて行かれたので、この娘は、たいそう苦労したようだ。十七・八才の若い娘だから、たいそう苦労して、もう、「沖縄に帰してくれ。帰してくれ」と、ひどく泣いてお願いしたがそれでも帰さなかった。
そうこうしているうちに娘は、妊娠してしまった。それで、「もう、ここで私が子を産んだとしても、私はここで生きようとは思わない。死ぬのだから、どうか帰して下さい」といろんな手でお願いした。そしたら、 「では、この甕に漬けてある魚を、海にでも水の中にでも入れて、これが生き返るものなら、貴方は帰してあげる。そうでなければ、帰れないと思いなさい」と言われたそうだ。それで、その魚を大きなたらいに水を入れて魚をその中に入れると、もう一生懸命願ったそうだ。そうしていると魚は、生き返ったわけだ。そしたら、「貴方はただの人間ではない。神からの使いの女だから、帰してやるから帰りなさい」と帰されたそうだ。
そうして、帰り着いた浜は、与那原の浜だそうだ。しかし、この人は与那原の浜に着きはしたが、自分は妊娠したのでね。昔御殿・殿内の娘はね、こんな事やったら大変不義理な者と言ったもんだ。だから、自分の親の元にも帰る事ができなかった。その与那原の浜に近い三津武獄の山の林の中で子供を産んで自分は死んだそうだ。その子供を玉城間切の人がさがして、貰って育てあげて、この子供は成長したわけだ。自分は死んでね。
そうしたら、この事が公儀に聞こえたので、公儀でもってこの女の墓を造って、今でも三津武獄に墓は造られているそうだ。それで、この墓は公儀が拝んでいるわけだ。そして、玉城間切の人にその人は育てあげられて、玉城間切がその人の村になるわけだ。この人の子供は、三男までいたそうだ。それで、この人の長男は玉城間切に住んで、次男の子孫は糸満で生活して、三男の子孫はこの読谷に来たわけだ。その三男から安田の家は始まったそうだ。安田という姓は、あまり沖縄にはないでしょう。この人から生まれた子は、渡慶次ぺークミーと名が付けられているらしい。そういう事で、清明祭の時など私達は、三津武獄の墓をいつも今でも拝んで、鹿児島に向かって拝んでいるんだよ。だから、私達の祖先は鹿児島からきているというわけだ。(『伊良皆の民話』読谷村民話資料1)
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