生き返った魚 ~琉球沖縄の伝説

横浜のトシ

2011年02月11日 20:20


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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第110話。


()(かえ)った(さかな)



 (わたくしの)三代前(さんだいまえ)の、お(ばあ)さんは、()くところ(なん)でも神人(かみんちゅ)で、いらっしゃったそうです。代々(だいだい)(つた)えられてきました、その(ひと)物語(ものがたり)を、今日(きょう)(すこ)しばかり、お(はな)ししてみましょう。
 ある(とき)大和(やまと)薩摩(さつま)(くに)から、(おう)使(つか)いの(ふね)が、与那原(よなばる/旧:ゆなばる)(はま)()きました。
 三月三日は浜下り(はまうり/はまうい)()で、祭殿(さいでん)である御殿(うどぅん/うどん/おどん)殿内(どぅんち/とんち)女性達(じょせいたち)三月遊び(さんぐぁちゃー)ということで、(おんな)節句(せっく)浜遊び(はまあしび)(たの)しんでおりました。
 その(なか)に、西村御殿(うどぅん/おどん)とかいう(ところ)の、たいそう(うつく)しい神人(かみんちゅ)がいたそうです。(くくわ)しい経緯(いきさつ)()かりませんが、(あそ)んでいた神人(かみんちゅ)娘達(むすめたち)(なか)から、この西村御殿の(むすめ)を、薩摩の人は(ふね)()せて、大和(やまと)()れて()ってしまったそうです。
 (むすめ)は、まだ十七、八(さい)(わか)さのため、(あま)りに習慣(しゅうかん)生活(せいかつ)(ちが)薩摩(さつま)()らしに()れる(こと)なく、故郷(こきょう)(かえ)してくれるようにと、幾度(いくど)となく御願(おねが)いしたものの、(ゆる)されることはなく、いつまでも、()()らしていたそうです。
 そうこうしているうちに、(むすめ)薩摩(さつま)(ひと)()身籠(みご)もりました。薩摩(さつま)(ひと)は、これで故郷(こきょう)(こと)(わす)れてくれるだろうと安心(あんしん)しました。
 ところが実際(じっさい)(まったく)(ぎゃく)で、(むすめ)はこう()いました。
 「ここで(わたくし)()()んだとしても、(わたくしは)は、これから(さき)、ずっとここで()きていこうとは(おも)いません。
 (ひと)はやがて、みんな()にます。
 (わたくし)は、()まれた故郷(こきょう)()ぬと、()めているのです。ですからどうぞ、(かえ)して(くだ)さい。」と。
 (かお)見合(みあ)わせる(ごと)に、(むすめ)色々(いろいろ)()でお(ねが)いするため、主人(しゅじん)はある(とき)何気(なにげ)()いました。
 「では、この(かめ)()けてある(さかな)を、(うみ)にでも(みず)(なか)にでも()れて、もしも()(かえ)ったなら、貴女(あなた)故郷(こきょう)(かえ)して()げましょう。それまでは、故郷(こきょう)には(かえ)れないと(おも)いなさい。」と()ったそうです。
 すると(むすめ)は、その(さかな)(おお)きな(たらい)()れると、懸命(けんめい)(ねが)いをかけたそうです。するとその(さかな)(おど)いた(こと)に、()(かえ)ったのです。
 流石(さすがに)主人(しゅじん)は、()いました。
 「貴女(あなた)は、ただの(ひと)ではありません。琉球(りゅうきゅう)(かみ)(つか)えるべき(ひと)のようです。故郷(こきょう)(かえ)してあげましょう。」と、そう()って、(かえ)されたそうです。そうして、(むすめ)(かえ)()いた(はま)は、与那原(よなばる)(はま)だったそうです。
 しかしながら(はま)には()いたものの、自分(じぶん)薩摩(さつま)(ひと)()身籠(みご)もっていたため、親元(おやもと)には、(かえ)(こと)出来(でき)ませんでした。
 というのも、丁度(ちょうど)その時代(じだい)御殿(うどぅん/おどん)殿内(どぅんち/とんち)神聖(しんせい)であるべき(むすめ)が、(おや)(ゆる)しなく、勝手(かって)(おとこ)()()うなど、(かんが)えられませんでした。まして、()どもを妊娠(にんしん)したなど、大変(たいへん)不義理(ふぎり)だと(かんが)えられていた時代(じだい)でした。
 そこで(むすめ)は、与那原の浜に(ちか)い、三津武獄(みちんだき)(やま)(はやし)(なか)で子どもを()むと、自分で(いのち)()ってしまったそうです。
 (なお)その子どもは、ある玉城間切(たまぐすくまぎり)(ひと)が、(そだ)()げ、子どもは成長(せいちょう)したそうです。
 すると、やがてその神人(かみんちゅ)(はなし)薩摩(さつま)首里王府(しゅりおうふ)にまで()こえ、(つみ)もないこの(むすめ)(はか)が、三津武獄(みちんだき)(つく)られたそうです。
 玉城間切(たまぐすくまぎり)(そだ)ったその()どもは、やがて玉城間切の主となり、子どもは三男(さんなん)まで、いたそうです。そして長男(ちょうなん)は玉城間切に()み、次男(じなん)子孫(しそん)糸満(いとまん)三男(さんなん)の子孫は読谷(よみたん)で、()らすようになったと(つた)わっています。
 その三男(さんなん)から、安田(やすだ)(いえ)(はじ)まったと()われていますが、安田(やすだ)(せい)は、(むかし)沖縄(おきなわ)にはありません。この読谷(よみたん)()三男(さんなん)は、渡慶次(とけし)ぺークーミー(親雲上)という()だったと()われています。そういう(こと)で、清明祭(しーみーさい)(とき)など、私達(わたくしたち)は、三津武獄(みちんだき)(はか)(いま)でも(おが)んで、また鹿児島(かごしま)()かっても、(おが)んでいるというわけです。

 
※この話の参考とした話
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村字伊良皆~『伊良皆の民話』読谷村民話資料1


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●伝承地
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村字伊良皆~私の三代前のお婆さんは神人でいらっしゃったそうだ。その人から聞いた話を聞かすのだがね。大和の薩摩の国から王様の使いか王様が与那原の浜に漕ぎ船でね、ここに来られた人がいたようだ。そして、三月三日には、御殿や殿内の女達が三月遊びと言って、浜遊びをするでしょう。そこの場所にこの人もいらしたようだね。そうしたら、ここで三月遊びをしている時に、この中に西村御殿とかいう所の娘で、たいそう美しい人がいらっしゃったそうだ。それで遊んでいる娘達の中からこの西村御殿の娘一人を、薩摩の人がその船に乗せてしまってね。大和に連れて行かれたわけだ。そうやって、連れて行かれたので、この娘は、たいそう苦労したようだ。十七・八才の若い娘だから、たいそう苦労して、もう、「沖縄に帰してくれ。帰してくれ」と、ひどく泣いてお願いしたがそれでも帰さなかった。
 そうこうしているうちに娘は、妊娠してしまった。それで、「もう、ここで私が子を産んだとしても、私はここで生きようとは思わない。死ぬのだから、どうか帰して下さい」といろんな手でお願いした。そしたら、 「では、この甕に漬けてある魚を、海にでも水の中にでも入れて、これが生き返るものなら、貴方は帰してあげる。そうでなければ、帰れないと思いなさい」と言われたそうだ。それで、その魚を大きなたらいに水を入れて魚をその中に入れると、もう一生懸命願ったそうだ。そうしていると魚は、生き返ったわけだ。そしたら、「貴方はただの人間ではない。神からの使いの女だから、帰してやるから帰りなさい」と帰されたそうだ。
そうして、帰り着いた浜は、与那原の浜だそうだ。しかし、この人は与那原の浜に着きはしたが、自分は妊娠したのでね。昔御殿・殿内の娘はね、こんな事やったら大変不義理な者と言ったもんだ。だから、自分の親の元にも帰る事ができなかった。その与那原の浜に近い三津武獄の山の林の中で子供を産んで自分は死んだそうだ。その子供を玉城間切の人がさがして、貰って育てあげて、この子供は成長したわけだ。自分は死んでね。
 そうしたら、この事が公儀に聞こえたので、公儀でもってこの女の墓を造って、今でも三津武獄に墓は造られているそうだ。それで、この墓は公儀が拝んでいるわけだ。そして、玉城間切の人にその人は育てあげられて、玉城間切がその人の村になるわけだ。この人の子供は、三男までいたそうだ。それで、この人の長男は玉城間切に住んで、次男の子孫は糸満で生活して、三男の子孫はこの読谷に来たわけだ。その三男から安田の家は始まったそうだ。安田という姓は、あまり沖縄にはないでしょう。この人から生まれた子は、渡慶次ぺークミーと名が付けられているらしい。そういう事で、清明祭の時など私達は、三津武獄の墓をいつも今でも拝んで、鹿児島に向かって拝んでいるんだよ。だから、私達の祖先は鹿児島からきているというわけだ。(『伊良皆の民話』読谷村民話資料1)

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