130神竜の怒り(しんりゅうのいかり) 〜琉球沖縄の民話

横浜のtoshi

2010年09月03日 20:20


〜琉球沖縄に伝わる民話〜

『球陽外巻・遺老説伝』より、第130話。


神竜の怒り(しんりゅうのいかり)


 久米邑(くにんだそん)の南方に門があり、大門(うふじょう)といわれています。
 その前面は、半月(はんげつ)形の空地(あきち)になっています。古(いにしえ)の人が、そこを、龍(りゅう)の頭になぞらえ、左右に石を置き龍の眼とし、両方に樹を植えて龍の角(つの)を形づくりました。またそこから北に、くねるように伸(の)びる街を貫(つらぬ)く大通りを、胴体(どうたい)に見立(みた)て、中島の水辺の丸(まる)い岩を、龍の珠(たま)としたのでした。
 龍は神霊(しんれい)を持つ陽物(ようぶつ)であるため、この門から、遺体(いたい)を出入(でい)りさせることを、忌(い)み嫌(きら)いました。そして、もしもその禁(きん)を犯(おか)すようなことがあれば、必ずや、神龍(しんりゅう)が怒(いか)り、暴風(ぼうふう)を巻(ま)き起(お)こして、必ず国家の災(わざわ)いをなすと、昔から言い伝えられ、戒(いまし)められてきました。
 ところが、順治七年(一六四九年)のこと。
 新納刑部(薩摩役人)が、この地で亡くなった時、そんなことなどあるものかと、家族は言い伝えを信じず、棺(かん)を門から入れてしまいました。
 葬式が終わって間もなく、突如(とつじょ)、前触(まえぶ)れもなく暴風(ぼうふう)が吹(ふ)き荒(すさ)び、人々を驚かせました。
 その後、尚貞王(しょうていおう)の時代に、愚(おろか)な男が、こっそり夜中(よなか)、ある遺体(いたい)をこの門から出したところ、この年は、例年になく七回も暴風に見舞われた上に、大飢饉(だいききん)になってしまったということです。


※註
〜龍に形どった通りは、「久米大通り」と称(しょう)し、左右の小路(こみち)は龍の足と見立てていたとのことである。久米三十六姓が、旧慣(きゅうかん)を守(まも)っていたが、清朝(しんちょう/一六六二年)になって、それを沖縄的風習(ふうしゅう)に改め、久米人の伝統は久米人の門中制度によって、現在までも受け継(つ)がれている。
 
※注
【久米邑】邑=村。久米村(くにんだ/くみんちゃ)には、14世紀後半より、中国の福建から移り住んだ人達が定住していた。その久米村の入り口に建っていたのが久米大門(うふじょう)。久米大道(現在の久米大通りの北西側)の反対側に建っていたのが西武門(にしんじょう)
【丸い岩】(まるいいわ)俗(ぞく)に大石といわれた。
【陽物】(ようぶつ)陰陽(いんよう)のうち、陽に属するもの。陽気なもの。陰陽とは、古代中国の思想を発端(ほったん)として、森羅万象(しんらばんしょう)、宇宙のありとあらゆる事物を、さまざまな観点から、陰(いん)と陽(よう)の、二つに分類するカテゴリ。陰と陽とは、互いに対立する属性を持った二つの「気」であるとし、万物の生成や消滅といった変化は、この二気によって起こるとする。なお、このような陰陽に基づいた思想や学説を、陰陽思想、陰陽論、陰陽説などといい、五行思想とともに、陰陽五行説を構成した。
【尚貞王】(しょうていおう)1645〜1709年(在位:1669〜1709年)。琉球国、第二尚氏王朝第11代国王。蔡鐸(さいたく/蔡温(さいおん)の父)は『中山世譜(ちゅうざんせいふ)』を編集。


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