129真壁神社(まかべじんじゃ) 〜琉球沖縄の民話
〜琉球沖縄に伝わる民話〜
『球陽外巻・遺老説伝』より、第129話。
真壁神社(まかべじんじゃ)
昔むかし、真壁邑(まかべそん)に、首里大屋子(おおやこ)職(しょく)で信心深い人がおりました。
ある日のこと、湖波嶽(こばだけ)イベの前を掃(は)き清(きよ)めていたところ、ひょっこりと一個の霊石(れいせき)が目の前で躍(おど)り上がるのを見ました。
大屋子は、とても珍(めづ)らしいことがあるものだと思いながら、石に向かって手を合わせ、お祈りを上げながら言うことには、
「あなたが、世にも勝(すぐ)れた神霊(しんれい)をお持ちでしたら、どうぞ私の掌(てのひら)に登ってみて下さい。」と。
するとその言葉が終わらないうちに、見事(みごと)霊石は、掌に飛び載(の)ったのでした。
大屋子は喜び、直(す)ぐさま小さい庵(いおり)を池波嶽の麓(ふもと)に造って、お嶽(たけ)の石を二個加え、都合(つごう)三個の霊石をこの庵に移して安置したのでした。
やがて、大屋子は官命(かんめい)を受けて、薩摩に行くことになりました。
その時、ここでお祈りして言うことには、
「どうか、安全に重職(じゅうしょく)を果たして帰れますように。」と。
そう祈願して出掛(でか)けたところ、道中(どうちゅう)恙(つつが)なく、首尾(しゅび)よく帰国することが出来ました。その旅の際(さい)、小さい御殿(うどぅん)を持ち帰ったので、改めて霊石をそこに移し、丁重(ていちょう)にお祈りしました。その後、子々孫々(ししそんそん)まで崇拝(すうはい)したとのことです。
尚質王の時代の初め頃に、臨海寺(りんかいじ)の住職(じゅうしょく)が、改めて瓦葺(かわらぶき)にしました。
更(さら)に年月を経(へ)て壊(こわ)れかかったため、茅葺(かやぶき)に改められました。
尚敬王の時代(一七二八年)、村中(むらじゅう)の人達が費用を出し合って、再び瓦葺の御殿を復活させました。その大きさは一丈(じょう)五尺(しゃく)、横一丈二尺の立派なお宮(みや)とのことです。
※註
〜『琉球国由来記』によれば、首里大屋子は、山北(やまきた=北山/ほくざん)の地頭職を拝命(はいめい)して、その子孫は、御嶽(うたき)の神官(しんかん)として代々仕えてきたと記されている。この御嶽は遠近を問わず、その崇拝を人々から受け、毎年九月の参詣は、盛況を極(きわ)めるとのことである。なお臨海寺の僧とは、頼久座主(ざす)(「座主」とは、一山の寺の事を統轄する首席の僧。)という。
※注
【真壁邑】(まかべ)真壁間切(まぎり)真壁村。邑=村。真壁の以前の発音は「まかび」など。古く真壁村は、テラヤマ(恐らく「寺のある山」の意)と呼ばれる石灰岩の丘陵を背にして南西向きに集落が広がっていた。後に真壁・名嘉真・田島の3つの集落が合併。
【官名】(かんめい)国の命令。琉球王府のの命令。
【重職】(じゅうしょく)責任が重い重要な職務。また、その職にある人。
【尚質王】(しょうしつおう)1629〜1668年(在位1648〜68)。琉球國第二尚氏王統第10代国王。向象賢(しょうじょうけん)(=羽地朝秀(はねじちょうしゅう))を登用し,薩摩(さつま)との融和政策と殖産興業につとめ、琉球最初の正史『中山世鑑』を作らせた。童名(わらびなー)は思徳金(うみとぅくがに)。
【尚敬王】(しょうけいおう)1700〜1751年(在位1713〜51)。琉球國第二尚氏王統第13代国王。蔡温(さいおん)を三司官に取り立てて多くの改革を行い、産業の発展や、文化、教育の振興をはかり、尚真王以来の功績をあげる。童名(わらびなー)は思徳金(うみとぅくがに)。
【丈】尺貫法(しゃっかんほう)の長さの単位。10尺。1丈は曲尺(かねじゃく)で約3.03m、鯨尺で約3.79m。
【尺】 尺貫法の長さの基本単位。1寸の10倍。1丈の10分の1。1尺は、曲尺では約30.3cm、鯨尺では約37.9cm。
※真壁神社/真壁宮〜真壁集落の後方の丘が真壁城である。真壁神社/真壁宮の場所も城郭内であったようだ。すでに、名馬ゆえに落城した真壁城の話は、8/19「名馬ゆえに」で、とりあげた。真壁按司の子孫に、首里大屋子(地方役人)になった者がいて、それがこの話の最初に出てくる人物で、クバ嶽(池波嶽/コバ森/※『琉球國由来記』では「コバ森、神名、コバウノ御イベ」)の場所に真壁神社/真壁宮を建てたとされる。その後、真壁神社/真壁宮は話に出てくるように、何度も改修され、それはそれだけ大切にされていたということである。
Posted by 横浜のtoshi
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