一日橋由来 ~琉球沖縄の伝説

横浜のトシ

2011年05月02日 20:20


みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第133話。


一日橋由来(いちにしばしのゆらい)



 むかし(むかし)の、これもまた沖縄(おきなわ)ではよく()られた、お(はなし)です。
 琉球国(りゅうきゅうこく)として統一(とういつ)される(まえ)に、沖縄本島(おきなわほんとう)が、南山(なんざん)中山(ちゅうざん)北山(ほくざん)の、(みっ)つに()かれて(あらそ)っていた、三山(さんざん)時代(じだい)がありました。
 南山(なんざん)他魯毎(たるみい)(おとうと)に、南風原按司守忠(はえばるあんじもりただ)という(ひと)がいました。尚巴志(しょうはし)が、中山(ちゅうざん)(ほろ)ぼして中山王(ちゅうざんおう)となり、(つづ)いて北山(ほくざん)(ほろ)ぼし、最後(さいご)南山(なんざん)(ほろ)ぼして、三山(さんざん)統一(とういつ)し、琉球国(りゅうきゅうこく)()てます。
 南山(なんざん)が、尚巴志(しょうはし)()められて()ちた(とき)南山王(なんざんおう)であった(あに)他魯毎(たるみい)一緒(いっしょ)に、(おとうと)()()にするつもりでした。ところが、それでは祖先(そせん)(はか)(まも)(もの)がいなくなり、一族(いちぞく)()えてしまうということで、(あに)他魯毎(たるみい)(しろ)()()にした(のち)(おとうと)南風原按司守忠(はえばるあんじもりただ)は、(しろ)から()()び、具志頭(ぐしちゃん/ぐしかみ)間切(まぎり)花城(はなしろ/波名城)の、首里(しゅり)(つか)える安里大親(あさとのひやー)という(さむらい)(ところ)に、()()せました。
 安里大親(あさとのひやー)は、以前(いぜん)から南風原按司守忠(はえばるあんじもりただ)(した)しく、しばらく(かくま)っていました。しかし、首里(しゅり)尚巴志(しょうはし)家来達(けらいたち)が、守忠(もりただ)(あと)()って(さが)(まわ)っていると()くと、こっそり与那原(よなばる)(はま)から山原(やんばる)汀間(ていま)に、守忠(もりただ)()がしました。
 守忠(もりただ)は、三年間(さんねんかん)汀間(ていま)()らしましたが、三山(さんざん)統一(とういつ)されて平和(へいわ)()(なか)になり、もう大丈夫(だいじょうぶ)だろうということで、具志頭(ぐしちゃん/ぐしかみ)安里村(あさとそん)(かえ)って()ました。これを安里大親(あさとのひやー)大変(たいへん)(よろこ)んで(むか)え、自分(じぶん)(むすめ)を、守忠(もりただ)(つま)にしました。この夫婦(ふうふ)から()まれたのが、守知(もりとも)です。
 さて、(のち)琉球国(りゅうきゅうこく)第二尚氏(だいにしょうし)王統(おうとう)初代国王(しょだいこくおう)尚圓王(しょうえんおう)に、()どもの尚真(しょうしん)()まれました。すると尚圓王(しょうえんおう)は、尚真(しょうしん)を、それはそれは大変(たいへん)可愛(かわい)がったそうです。
 ある(とき)(おう)は、尚真(しょうしん)()子守役(こもりやく)()けようと、(だれ)子守(こもり)にさせるのがいいか、(うらな)わせました。すると、王子(おうじ)子守(こもり)(えら)ぶなら、()()(しお)()()(えら)び、首里(しゅり)(みなみ)与那原(よなばる)(はま)使(つか)いを()して、身分(みぶん)()わず、最初(さいしょ)出会(であ)った(ひと)()れて()て、その(もの)王子(おうじ)子守(こもり)をさせなら、(くに)はとても(さか)えると()われたのでした。
 そこで、その言葉通(ことばどお)りに、()()(えら)ばれ、(しお)()()()時間(じかん)(えら)ばれて、与那原(よなばる)使(つか)いが()されました。
 与那原(よなばる)(はま)周辺(しゅうへん)(みち)は、普通(ふだん)百姓(ひゃくしょう)以外(いがい)は、滅多(めった)(ひと)(とお)らない(みち)だったそうで、その(とき)使者(ししゃ)出会(であ)ったのが、守知(もりとも)でした。
 守知(もりとも)は、偶々(たまたま)そこを(とお)()かったばかりに、首里(しゅり)使者(ししゃ)である(さむらい)(たち)に、まるで()らえられたかのように、そのまま首里(しゅり)(おう)(まえ)まで、()れて()かれたそうです。
 守知(もりとも)は、()わば南山(なんざん)落武者(おちむしゃ)であり、しかも他魯毎(たるみい)(おとうと)である南風原按司(はえばるあんじ)()ですから、突然(とつぜん)出来事(できごと)(おどろ)くとともに、大変(たいへん)(こと)になってしまった(おも)いました。しかしそうは(おも)ったものの、途中(とちゅう)()()すことも出来(でき)ず、(おう)()(まえ)()つことになったのです。
 (おう)もまた、百姓(ひゃくしょう)のような()すぼらしい衣服(いふく)()ている守知(もりとも)()れて()られて、(おどろ)きました。
 ところが尚圓王(しょうえんおう)は、できた人物(じんぶつ)で、尚巴志(しょうはし)(おう)も、自分(じぶん)祖先(そせん)もまた、(もと)百姓(ひゃくしょう)()()ぎないと(おも)っていたので、もしかすると、この(もの)でもいいかも()れないと(かんが)え、()()えず、しばらく(はなし)をしてみることにしたそうです。
 すると、()()服装(ふくそう)とは(おお)きく(ちが)って、その人物(じんぶつ)は、(こころ)()()ぐでしっかりし、教養(きょうよう)もある、なかなかの人物(じんぶつ)である(こと)()ぐに()かり、(おう)(ふたた)(おどろ)いたそうです。
 そこで(おう)は、王子(おうじ)子守(こもり)をしてみないかと(たず)ねてみました。すると守知(もりとも)は、自分(じぶん)が、琉球王府(りゅうきゅうおうふ)にとって(かたき)だった、南山王(なんざんおう)他魯毎(たるみい)(おとうと)()であると、自分(じぶん)身分(みぶん)()かしました。そして、王子(おうじ)(そだ)てる身分(みぶん)ではありませんと、丁寧(ていねい)(ことわ)りました。
 ところが、尚圓王(しょうえんおう)は、守知(もりとも)()かって()いました。
 それは(むかし)(はなし)であり、(いま)()っての(とお)り、すっかり()(なか)泰平(たいへい)時代(じだい)なのだから、(むかし)のことなど、()にしなくて(かま)わない。あなたという人物(じんぶつ)見込(みこ)んで、是非(ぜひ)(たの)みたいと(かんが)えているが、どうか(わたし)(ねが)いを()()けてはくれまいかと()ったところ、尚圓王(しょうえんおう)(ひと)となりに感服(かんぷく)した守知(もりとも)は、子守役(こもりやく)()()けたのでした。
 さて、尚圓王(しょうえんおう)は、その七年後(ななねんご)に、()くなりました。
 その(とき)尚真王(しょうしんおう)は、十三歳(じゅうさんさ)(とし)で、(おう)になりました。尚真(しょうしん)(おう)になると、(おさな)(とき)からよく面倒(めんどう)()てくれた守知(もりとも)(たい)し、首里(しゅり)金城(きんじょう)家屋敷(やしき)(あた)え、具志頭(ぐしちゃん)間切(まぎり)地頭(じとう)任命(にんめい)し、それから守知(もりとも)は、花城親方守知(はなしろうぇーかたもりとも)()ばれるようになりました。
 やがて、花城親方守知(はなしろうぇーかたもりとも)(とし)()って、ある(とき)尚真王(しょうしんおう)に、もし自分(じぶん)()んだら、具志頭間切(ぐしちゃんまぎり)玉城(たまぐすく)にある祖先(そせん)(はか)(ほうむ)られるのを許可(きょか)してもらう、お(ねが)いをしました。
 すると尚真王(しょうしんおう)は、(おさな)(ころ)からよく面倒(めんどう)()てもらい、(おう)となってからも、政治(せいじ)はじめ、花城親方守知(はなしろうぇーかたもりとも)には沢山(たくさん)協力(きょうりょく)して(もら)ってきたので、希望(きぼう)を、(かなら)(かな)えるので心配(しんぱい)ないと()いました。それだけでなく、(おう)は、守知(もりとも)()んだ(とき)は、琉球(りゅうきゅう)国葬(こくそう)としての葬式(そうしき)をあげるとも()いました。
 さて、やがて守知(もりとも)()くなりました。
 その()は、(あめ)がよく()季節(きせつ)の、六月(ろくがつ)二十三日(にじゅうさんにち)だったそうです。
 (あめ)()(つづ)いていたため、葬式(そうしき)(れつ)(とお)(みち)が、連日(れんじつ)長雨(ながあめ)(こわ)れていないか心配(しんぱい)した(おう)は、使(つか)いを()して(みち)調(しら)べさせました。
 すると、()(つづ)大雨(おおあめ)のため、(かわ)(みず)かさが()し、識名橋(しきなばし)が、()(なが)されていたのでした。
 その報告(ほうこく)()いた(おう)は、具志頭間切(ぐしちゃんまぎり)葬式(そうしき)をすると、生前(せいぜん)守知(もりとも)約束(やくそく)したので、(なん)とか(まも)らねばならないので、どんな(はし)でも(かま)わないから、一日(いちにち)識名橋(しきなばし)()わる(はし)(つく)れないものかと、家臣達(かしんたち)相談(そうだん)しました。
 すると優秀(ゆうしゅう)家臣達(けらいたち)により、当時(とうじ)土木技術(どぼくぎじゅつ)(つう)じる優秀(ゆうしゅう)(もの)(おお)かった、津嘉山(つかざん)周辺(しゅうへん)の、技術者(ぎじゅつしゃ)人夫(にんぷ)()()せられたのでした。そして(あめ)(なか)一晩(ひとばん)二日(ふつか)で、(はし)()けられました。
 それまで識名橋(しきなばし)()ばれていた(はし)は、尚真王(しょうしんおう)花城親方守知(はなしろうぇーかたもりとも)葬式(そうしき)のために一日(いちにち)()(なお)されたため、この(とき)から、名前(なまえ)一日橋(いちにちばし)()えられたそうな。


※この話の参考とした話
沖縄本島・沖縄県那覇市泊~『那覇の民話資料』第四集首里地区
沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町神里~『ふるさとの民話南風原町』第一集


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.
●伝承地
沖縄本島・沖縄県那覇市泊~大里には、南山城趾の下に井戸があるんだが、南山の他魯毎王は、首里の尚巴志が金の屏風を持っていると聞いて、その金の屏風を見ていないから、簡単にいいと思って、井戸と喜んで替えたのでしょう。すると、尚巴志はその水を使わさんようになったから、水の井戸がないと生活できんわけだ。とうとう南山は水攻めに会うて滅ぼされたって。南山には、南風原按司の子孫がおるんだが、あの尚巴志王子に滅ぼされた。そうしたらその滅ぼされた時に本当は、みな討死にさせられるのだが、乳飲児が一人おったので、その乳飲児は、その抱いた人が具志頭の真嘉比という所に逃げて、そして平生は洞窟の中に置いておって、夜はまた連れてきて、家に寝かせよったそうだ。そうするうちに今度は、この首里の中山の連中が、それをかぎつけてからね、こっちに子供がおるということを聞いたらしいね。それからびっくりして、その養っておる、その養い親は与那原の方に、その子供を連れて行って、山原船の船頭にあげたそうだ。「もうこの辺には置けんから、どっが遠い所へ連れて行ってくれ」と。それで久志村の方に子供をもらっていったそうだ。向こうで育てたら、とうとう二十歳になって、それからは、あんまり敵の方でもその子供を捜さんから首里の方に上ってきて、それで首里城の奉公人になって、馬の草刈りをしよったそうだ。その人が馬の草刈りをしておる時に、今度皇太子が生まれて、その子供が夜泣きしよってもうどうもこうもできん。医者に診せても病気はないといって、夜はもう泣いて育て方に非常に困ったそうだ。それから易者の方に易をとってもらったら、「この子供の親を換えなさい」って。養い親というのが昔はあった。「本当の親とは、相が合わんから、仮に別の人を連れてきてそれに養い親といって育てなさい」と言った。それで、その養い親は誰にさせるかと易者に問おたら、「何月何日の日の明け方に一番初めにお城へ来る人にさせなさい」て、そういうふうな占いがでたわけさ。その日になると、城の方では誰か来るのを待って番しておるのは誰にも知らさんで番をしていた。そのうちに、この今言う南山の子孫が具志頭から首里の方に来て奉公しておるから、二番鶏が鳴いたら具志頭から首里の方に立っていたって。その日に限って、鶏が早く夜中に鳴いたそうだ。夜中起きたさね、時計が無いんだから時間はわからん。鶏の声で時間をとっているから鶏が鳴いたから、毎日の起きる時間だと思って、用意して具志頭から首里に来たら、まだ夜も明けんうちに首里に着いているわけさ。それで一番目に首里に来たんだから、その番しておる人にひっ捕まえられて、国王の皇太子様の養い親になったって。礼儀だけの親さ。それから皇太子の養い親なのに、馬の草刈りをさせては気の毒だと思って、だんだんその位が上がってしまって、しまいには花城親方と呼ばれる親方にまでなるわけ。その親方になったら、王の信用を受けて、だんだんするうちに、王がまた結婚時期になったら、その人の娘が非常にいい人ができたそうだね。それで王の妻になって、その人はもう後見人として首里城で勤めておったんでしょうね。そうこうするうちに、もう年をとってしまって、その花城親方は死んでしまったそうだ。国王が、花城親方に死ぬ前に「君は、もう生きているうちに相当御奉公したんだから、お墓も首里の方にちゃんとこさえてあげるから首里の方に葬ろう」といいよったそうだが、「僕は具志頭で育ったから、向こうの方に恩義があるから、ぜひ具志頭に送ってくれ」といっていたそうだ。その葬式間際になってぞういうふうになったから首里の方ではあわててしまった。それに、今の一日橋の所の川が氾濫して、具志頭に行ズ道が無いそうだが、それで「すぐ明日、葬式するから、そっちに橋を架けなさい」といってあわてて一日で架けさせた橋が今残っている一日橋という橋だそうだ。それで、具志頭嘉比という所にはほら穴もあるし、位牌もまだ残って、墓も向こうにあるわけ。他魯毎王の子孫の私達は、今も二・三年に一回はあっちに拝みに行く。(『那覇の民話資料』第四集首里地区)
沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町神里~南山の他魯毎の弟に南風原按司守忠という人がいた。その人が南山が落ちたときに、兄と一緒に討ち死にしたら祖先の孝養をする人はいなくなるからと、兄の他魯毎は城で討ち死にしたが、そこの城から逃げて具志頭間切の波名城に行き、首里には仕えているが親しい安里大親という侍のところに落ちのびていった。その安里大親という人は、南風原按司守忠をしばらくかくまっていたが、首里の尚巴志の家来が跡を追って来るといううわさを聞いて、与那原の浜から山原の汀間に逃がしてやった。守忠は汀間で三年暮らしていたが何事もなかったので、具志頭の安里村に帰って来ると、安里大親は、喜んで迎えて自分の娘を妻にした。この二人から生まれたのが波名城大屋(ウツヤ)である。後に尚円王に子供の尚真が生まれると、尚円は、尚真を大変可愛がった。それで良い子守役を付けようとウフヤクに「この子には、誰に子守させた方がいいか」と占わせると、そのウフヤクは、「王子の子守を求めるのなら、いい日と潮の満ち干を選び、首里の南の方の与那原の浜に使いを出しなさい。そして身分は問わないで、最初に出会った人を連れてきて、王子の子守させたら栄えるでしょう」と教えた。そのウフヤクの言葉通りに、いい日を選び、潮の満ち干をはかって与那原に使いを出した。普通は、百姓以外は通らない道なのだが、そのときに使者が出会ったのは、波名城大屋だった。首里の使者は、侍二、三名だからその二、三名に捕まえられて王様の前に連れて行かれた。波名城大屋は、南山の落武者で、しかも他魯毎の弟である南風原按司の子だったので、びっくりして、たいへんな事になったなあと思うていたが、逃げることもできずに王様の前に連れて行かれた。王様も、波名城大屋が百姓のような見すぼらしい着物を着ているので驚いたが、この尚巴志王も自分の祖先は百姓だから、まあこれでもいいだろうと、しばらく話してみると、その相手の方の心がしっかりしているのがわかったので、王様はまた驚いた。それで三世相のいう通りにしようと王様が、「頼みがある。王子の子守をやってみないか」と言った。そのときに波名城大屋は、「私は、王様が捕まえようと思う敵のかたわれで、南山の他魯毎の弟の子だ。王子様を育てる身分ではない」と言った。王様は、「今は世の中が泰平になっているから、昔のことは言わんでもいい。頼みを引き受けてくれ」というので、守役を引き受けた。その王様がその七年後に亡くなった。そのときには、尚真王は、十三歳の年で王になった。波名城大屋には、幼いときからめんどうを見てもらったので、首里金城の方に家屋敷を与え、具志頭間切の地頭を勤めさせたので、波名城大屋は、波名城親方と呼ばれるようになった。やがて、波名城親方も年とったとき、「年をとってもういつかは、私も死ぬから今のうちに王様にお願いします。私が死んだら具志頭間切の玉城にある自分の祖先の墓の方に、葬ってください」とお願いした。尚真王は、小さいときからめんどうも見てもらい、また政治でも波名城親方に協力してもらっているから、「心配はするな。あんたが死んだときは、琉球の国葬として葬式をしよう」と言った。そう約束していたが、その人が死んだのが雨の時季の六月の二十三日だった。葬式の通る道は、毎日雨で壊れていないかと、使いをやって調べさせると、識名橋が流されてしまっていた。それを王様に報告すると「具志頭間切で葬式をするのは、生きているときの約束だからやらねばならん」と言って、家来に命令して、「どんな橋でもいいから、一日でそこに橋を造りなさい」と命令した。家来は、津嘉山とかその近くの者を人夫に頼んで、一晩と二日で橋を造った。もとは識名橋と呼ばれていたが尚真王が波名城親方の葬式のために、一日で掛けたので名前を一日橋と付けた。(『ふるさとの民話南風原町』第一集)

関連記事