黄金山 ~琉球沖縄の伝説

横浜のtoshi

2011年06月15日 20:20


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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第159話。


黄金山(くがにむい)



 むかし(むかし)大宜味(おおぎみ/うじみ)(そん)田嘉里(たかざと)屋嘉比(やかび)の、山口(やまぐち)という(いえ)先祖(せんぞ)が、奄美大島(あまみおおしま)まで航海(こうかい)した(さい)種子島(たねがしま)()ることになりました。その(しま)での、ある(よる)のことです。
 一人(ひとり)女性(じょせい)が、山口(やまぐち)(たず)ねて()()うことには、
 「船主(ふなぬし)の、山口様(やまぐちさま)でしょうか。」と。
 「その(とお)り、(わたくし)山口(やまぐち)だが、一体(いったい)(なん)(よう)ですか。」と。
 「()()らずの(わたくし)が、(まこと)御無理(ごむり)御願(おねが)いをするのは充分(じゅうぶん)理解(りかい)しておりますが、どうか(わたくし)を、琉球(りゅうきゅう)()れて()って(くだ)さいませんか。何卒(なにとぞ)(よろ)しく御願(おねが)(いた)します。」と。
 「これはまた(きゅう)に、どうしてそんなことを(かんが)えたのか、(わけ)をお()きしましょう。」と。
 「(じつ)は、(わたくし)、この種子島(たねがしま)島主(しまぬし)(むすめ)でございます。
 (しま)()きな男性(だんせい)がおりますが、しかしながら(ちち)二人(ふたり)(なか)を、どうしても(ゆる)してはくれません。
 ()ずかしながら、(だれ)にも()っておりませんが、(すで)(わたくし)(からだ)にはその(ひと)()宿(やど)っております。それでこうしてお(ねが)いしている次第(しだい)なのです。」と。
 「よくわかりました。()どもが()まれたら、その(おとこ)(かなら)ずあなたと()どもを(むか)えに()くと()っているのですね。」と。
 「はい。そのように約束(やくそく)しております。」と。
 「よし。そういうことでしたら、(わたくし)(ふね)にお()りなさい。」と。
 こうして、島主(しまぬし)(むすめ)屋嘉比(やかび)にやって()ました。そして月日(つきひ)(なが)れ、(たま)のような(おとこ)()()まれました。()どもの生育(せいいく)順調(じゅんちょう)で、丸々(まるまる)(ふと)った元気(げんき)()(そだ)ちました。()どもは立派(りっぱ)成長(せいちょう)したものの、母親(ははおや)種子島(たねがしま)(かえ)りたい気持(きも)ちは(つの)るばかりでした。
 (むら)人達(ひとたち)は、(もり)(なか)洞穴(ほらあな)()()にして不自由(ふじゆう)()(しの)んで子育(こそだ)てする女性(じょせい)に、みな同情(どうじょう)しました。そして彼女(かのじょ)のために、どうか(はや)(おっと)(むか)えの(ふね)()ますようにと、みんなでお(いの)りをしてあげました。
 しかしながら、()どもを()いて(きた)(うみ)(なが)(つづ)けた女性(じょせい)に、やがて(つか)れの(いろ)がみえはじめ、(つい)(やまい)(とこ)()すようになってしまったそうです。
 そんなある()のこと、女性(じょせい)(やまい)をおして、一人(ひとり)()()すと、故郷(こきょう)から()って()黄金(くがに)(もり)(なか)()めに()くと、()もなく()んでしまったそうです。
 それからその(やま)は、黄金山(くがにむい)()ばれるようになりました。
 (きた)田嘉里(たかざと)周辺(しゅうへん)(ひと)は、(のこ)された()()()子孫(しそん)ともいわれ、氏神(うじがみ)として黄金山(くがにむい)をお(まつ)りして、(きゅう)七月(ひちがつ)第二(だいに)(いぬ)()には村芝居(むらしばい)をして、種子島(たねがしま)女性(じょせい)肖像(しょうぞう)(かか)げて、(おが)むそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「長者屋敷」「金塚」
沖縄本島・沖縄県国頭郡大宜味村字田嘉里~『大宜味のむかし話』
沖縄本島・国頭郡国頭村~『国頭村史』


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●伝承地
柳田~「長者屋敷」「金塚」
沖縄本島・沖縄県国頭郡大宜味村字田嘉里~昔、大宜味村の田嘉里屋嘉比の山口という家の先祖が奄美大島に航海していたとき、たまたま種子島まで寄った。するとある夜のこと一人の女が山口をたずねてきた。「船主の山口さまでしょうか。」と言った。「わしは山口だが、何か用かね。」「まことに、ご無理なことと存じますが、私を琉球につれて行って下さいませんか。」「急にまたどうしてそんなことを。」「はい、私はこの種子島の島主の娘でございます。好きな男がいますが、父は不義密通と申しまして二人の仲を許してくれません。お恥ずかしいことに、私の体にはその人の子が宿っております。それでお願いでございます。」「わかった。それでは子供が生まれたら、その男が迎えにくるのだな。」「そのように約束いたしております。」「よし、そんならこの船に乗りなされ。」ということになって、島主の娘は屋嘉比まできた。こうして月が満ち、玉のような男の子が生まれた。子供も育ちがよく、丸々と元気な子に成長した。子供が立派になるにつれて、女は種子島に帰りたい心がつのるばかりであった。村の人たちは、森の中のほらあなを家にして、不自由を忍んでいる女にみな同情して、どうぞ早く迎えの船の来るようにと祈った。毎年子供を抱いて北の海を眺めていた女に疲れの色が見えて、女はついに病の床に伏してしまった。そしてある日一人で起き出して持っていた黄金をこの森の中に埋めた。間もなく女は死んでしまった。持参の黄金を埋めたのでそこを黄金山と呼んだ。北部の田嘉里のあたりの人は、この残された子の子孫だということである。それで氏神として黄金山でお祭りをして、なお旧七月の第二の戌の日には村芝居をするが、その日は種子島の女の肖像をかかげて礼拝するとのことである。(『大宜味のむかし話』)
沖縄本島・国頭郡国頭村~昔、漁師達が夜の漁に出て岩山の近くを通
ると、頂上に黄金の花が光を放っていた。こういうことが度々あって、黄金の森という名が付いた。(『国頭村史』)

※安須森御嶽(うたき)/辺戸御嶽は、琉球開闢(かいびゃく)七御嶽の一つで琉球最高の聖地である。シヌクシ嶽、アフリ嶽(安須森御嶽)、シチャラ(チザラ)嶽、イヘヤ嶽の、四つの山々の総称(金剛石林山はイヘヤ嶽の一部)。「安須森」を「あすもり」と今は一般的に呼ぶものの、『国頭村史』には「あしむり」が正しい呼び方とある。『琉球国由来記』には「アフリ嶽 神名カンナカノ御イベ」とあり、今帰仁のアフリノハナに涼傘(りゃんさん)が立つ時、アフリ嶽に君真物(キンマモン/キンマンモン)の神(※琉球神道の女神。琉球神道に伝わる女神。最高の精霊の意)が現れるという。また、琉球國時代、国王就任に際しては、君手摩(きみてずり)という神が安須森御嶽に現れ、5つの御嶽を順に次々と巡り、最後に首里真玉森御嶽に現れるとされた。山全体は、仏が寝ているように見え、辺戸岳とも。一帯の山「黄金山」は「くがにやま」と今は呼ばれるが、かつては「くがにむい」と呼ばれた。琉球神話では、日の大神(最高神)が開闢の神アマミキヨ(アマミク)に命じて島作りをさせたとある。アマミキヨは命を受けて沖縄本島を作り、『中山世鑑』によると、そこに9つの聖地、『聞得大君御規式の次第』によると、7つの森を作ったとされる。現在では、アマミキヨによって作られた聖地のうち7つが琉球開闢七御嶽として語り継がれ、琉球信仰における最も神聖な御嶽とされる。一方、琉球國の、祭政一致の体制で最重視された御嶽は斎場御嶽で、聞得大君(ちふぃじん)の就任式などはこの御嶽で行なわれた(ちなみに斎場御嶽からはアマミキヨ降臨の聖地久高島が遥拝できるものの、琉球王府の史料には出てこない)。なお、アマミキヨが作ったとされる順は、安須森御嶽(あすむぃうたき)、クボウ御嶽(うたき)斎場御嶽(せーふぁうたき)薮薩御嶽(やぶさつうたき)雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき)、クボー御嶽(うたき)首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき)であり、琉球神話や琉球信仰、琉球開闢七御嶽の上では、安須森御嶽、つまり黄金山が琉球最高の聖地である。

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