世の主がなし ~琉球沖縄の伝説

2010年12月23日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(2)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第71話。


()(ぬし)がなし



 ()(ぬし)がなしは、(むかし)沖永良部島(おきのえらぶじま)(おう)です。
 その城跡(じょうせき)(はか)も、(いま)内城(うちじろ)にあります。
 一三八〇年(ごろ)のお(はなし)です。
 当時(とうじ)(しま)には、各村(かくむら)に、ヌル(ノロ)という役職(やくしょく)の者がおりました。
 ヌルは、女性神官(しんかん)神人(かみんちゅ)として様々(さまざま)祭事(さいじ)を行う役目(やくめ)()たすと同時(どうじ)に、沖永良部島(おきのえらぶじま)からの貢物(みつぎもの)である税金(ぜいきん)を、北山王(ほくざんおう)(もと)(とど)ける役目(やくめ)をもっていました。
 ヌルは、未婚(みこん)(うつく)しい乙女(おとめ)がいつも(えら)ばれました。当時(とうじ)、ヌルになる女子(じょし)は、斉戒(さいかい)という()(きよ)める儀式(ぎしき)()ける(こと)になっておりました。
 また、ヌルの役職(やくしょく)の者がやめて、(つぎ)(あたら)しいヌルと交代(こうたい)する(とき)には、北山王(ほくざんおう)(ところ)()って、(あら)たな辞令書(じれいしょ)(もら)(こと)になっていました。
 その(ころ)上城(かみしろ)のヌルは、貢物(みつぎもの)()って、北山王(ほくざんおう)(もと)()きました。その(さい)、ヌルを交代(こうたい)させたいと(おも)って自分(じぶん)(めい)()たる十四、五(さい)(うつく)しい(むすめ)()れて()ったのでした。
 北山王(ほくざんおう)は、この(うつく)しい(むすめ)に、(おき)ヌルとしての辞令書(じれいしょ)(わた)しましたが、(あまり)りの美貌(びぼう)可愛(かわい)らしさにすっかり()()んでしまい、そのままとうとう、(よめ)にしてしまったのでした。
 それからというもの、その美人(びじん)(おき)ヌルは、(おう)(もと)不自由(ふじゆう)なく(たの)しく(くら)すうちに懐妊(かいにん)し、やがて出産(しゅっさん)(ちか)づきました。
 (おき)ヌルはそこで、故郷(こきょう)のエラブ(じま)(かえ)って、両親(りょうしん)(もと)でお(さん)しようと(ふね)()って()かったのでした。
 まず(はじ)めは、屋子母(やこも)港で上陸(じょうりく)したいと(おも)い、船をその港に入れました。ところが土地の人々から、今年(ことし)はシニグイ(まつ)りの年のため、妊娠(にんしん)している(けが)れた(おんな)上陸(じょうりく)許可(きょか)出来(でき)ないと(ことわ)られてしまいました。
 そこで(つぎ)に、(ふね)住吉(すみよし)港に(まわ)しましたが、此処(ここ)こでも(おな)じくシニグイ祭りの(とし)なので、妊娠(にんしん)した(けが)れた女の上陸は許可(きょか)出来(でき)ないとのことで、(ことわ)られてしまいました。
 段々(だんだん)と、()()れて(よる)になり、(おき)ヌルは産気(さんけ)づきました。
 そこで今度(こんど)は、故郷(こきょう)の、沖ドマリ港に上陸(じょうりく)しようと思い、(ふね)(みなと)()かわせたのでした。そして、沖ドマリ港では、上陸したいと(たず)ねずに(ひそ)かに上陸(じょうりく)したため、()()にも()くことが出来(でき)ないままでいると、いよいよ産気(さんけ)づいて、付近(ふきん)(はたけ)(すみ)で、とうとう出産(しゅっさん)する事になったのでした。
 無事(ぶじ)()まれた赤児(あかご)は、(たま)のような(おとこ)()でした。
 ()まれた(よる)は、生憎(あいにく)小雨(こさめ)()(よる)で、(みの)(かさ)()わりにしての、お(さん)でした。
 生まれると、早速(さっそく)その場で、(にわか)(づく)りのカマド(いし)(なら)べて産湯(うぶゆ)()かしたり、お(かゆ)()いたりしての出産(しゅっさん)でしたが、無事(ぶじ)安産(あんざん)で子どもは生まれ真松千代(まちぢよ)名付(なづ)けられました。
 この()まれた赤ん坊(あかんぼう)こそ、後の()(ぬし)がなしなのでした。
 なお、その(はたけ)現在(げんざい)下城(しもじろ)村内(そんない)にありますが、そこには当時(とうじ)のカマド石が今も大事(だいじ)保存(ほぞん)されています。
 近世(きんせい)になって、(むら)人々(ひとびと)(おそ)(おお)(とうと)場所(ばしょ)ということで神社(じんじゃ)()てました。この神社が、()(ぬし)神社で、カマド石がご神体(しんたい)として(まつ)られています。
 さて、すくすくと(おお)きく成長(せいちょう)していった()(ぬし)がなしですが、北山王(ほくざんおう)二男(じなん)であり、やがて中山王(ちゅうざんおう)(ひめ)(よめ)としてお(むか)えになりました。
 そしてお二人(ふたり)は、父君(ちちぎみ)北山王(ほくざんおう)(めい)により、沖永良部島(おきのえらぶじま)(おさ)めることになりました。
 二人は最初(さいしょ)に、玉城(たまじろ)(そん)の、ふばどう(金の塔)(いえ)()てました。
 その(ころ)()(ぬし)がなしは、大城(おおじろ)の、川内の(ひやー)という(もの)一緒(いっしょ)に、与和の海に魚釣(さかなつ)りによく出掛(でか)けていました。
 ある()のことです。
 この与和の海から、越山(こしやま)方向(ほうこう)指差(ゆびさ)して、あそこは大城(おおじろ)(そん)所有(しょゆう)する土地(とち)で、(おう)居城(きょじょう)(つく)場所(ばしょ)最適(さいてき)であると、川内の(ひやー)が言いました。
 ()(ぬし)がなしも、この場所(ばしょ)()()って、早速(さっそく)築城(ちくじょう)後蘭孫八(ごらんまごはち)命令(めいれい)し、三年かけて城を完成(かんせい)しました。
 ()(ぬし)がなしが、この(しろ)()み始めたある(よる)のことです。
 (しろ)から、(とお)(はな)れた東方(とうほう)の、喜美留(きびる)海岸(かいがん)(ほう)()ると、(なに)かが光っています。(つぎ)(よる)も、また次の夜も、同じ場所が光っています。
 それは(なに)かと不思議(ふしぎ)(おも)い、()(ぬし)がなしは、使者(ししゃ)喜美留(きびる)の村に(おく)ったのでした。そして、そこの様子(ようす)()いて来させました。
 そして(つた)えられた内容(ないよう)は、このようでした。
 喜美留(きびる)の村に、扇丈という漁師(りょうし)がいて、この人が、海で魚を()っていた時のこと、魚の()わりに一本の日本刀(にほんとう)()がりました。(めずら)しい(こと)があるものだと、漁師は家にそれを持ち帰ったそうです。
 この(かたな)には不思議(ふしぎ)(ちから)宿(やど)り、俎板(まないた)の上にのった魚を(かたな)()ると、(ほとん)(ちから)を入れていないのに、俎板(まないた)まで切れてしまいます。
 またある(とき)には、(えさ)欲しさに(にわとり)()って()て、(あま)りに五月蠅(うるさ)いので、(かたな)()った()()(はら)仕草(しぐさ)をしたところ、()れてもいないのに(にわとり)(くび)()んでしまいました。
 また、古場野原(こばのばる)で、大きな石に切りつけてみたところ、石はものの見事に()(ぷた)つに()れたのでした。
 ところがやがて、自分(じぶん)の子が、その(かたな)(さわ)ってもいないのに大怪我(おおけが)をしてしまいました。
 そのため漁夫(ぎょふ)の扇丈は立腹(りっぷく)し、また、こんなに危険(きけん)(もの)はないと(かんが)えて、(もと)(うみ)()てたのでした。
 それからというもの、(かたな)毎晩(まいばん)(うみ)(なか)(ひか)りを(はな)つようになったという話でした。
 そして、(とお)(はな)れた内城(うちじろ)の、()(ぬし)がなしの(しろ)からも()えたのでした。
 その話を聞くと、()(ぬし)がなしは、(ふたた)使者(ししゃ)喜美留(きびる)の村に送り、扇丈に日本刀を()()げて(もら)う事にしました。
 こうして、その日本刀(にほんとう)は、()(ぬし)がなしに(おく)(とど)けられました。そして大事(だいじ)秘蔵(ひぞう)の品となって()(ぬし)がなしは、非常(ひじょう)にお(よろこ)びになり、この(かたな)に「喜美留(きびる)なつくみ」と名付(なづ)けました。
 さて、丁度(ちょうど)その(ころ)()(ぬし)がなしの家来(けらい)に、住吉村に住む、国吉里主という男がおりました。
 この国吉里主は、競走馬(きょうそうば)二頭(にとう)所有(しょゆう)していました。()(ぬし)がなしは、(たくま)しい馬を見て()しくなり、国吉里主に言いました。
 国吉里主は、それでは一頭()()げますと言ったにも(かか)わらず、()(ぬし)二頭(にとう)とも必要(ひつよう)だと言って、とうとう二頭の馬を取り上げてしまいました。
 (おこ)った国吉里主は、中山王(ちゅうざんおう)(ところ)()き、エラブの()(ぬし)がなしの(こと)を、色々(いろいろ)()(ぐち)しました。またその(とき)名刀(めいとう)喜美留(きびる)なつくみについても、(くわ)しく話したのでした。
 この(はなし)()いた中山王(ちゅうざんおう)は、喜美留(きびる)なつくみが、どうしても()しくなり、早速(さっそく)使者(ししゃ)をエラブ島の()(ぬし)に送って、是非(ぜひ)とも名刀を(ゆず)ってくれるようにと(たの)みました。
 しかし、()(ぬし)がなしは、王として島を(おさ)めることが出来(でき)るのは、名刀(めいとう)のお(かげ)なので、(ゆず)ることが出来(でき)ないと(ことわ)ってきました。
 (あきら)めきれない中山王は、家臣達(かしんたち)色々(いろいろ)知恵(ちえ)(しぼ)って(ぬす)()計画(けいかく)()てたのでした。
 そこで、(わか)くて(かしこ)(おんな)(ひそ)かにエラブ島へ(おく)()みました。
 この(おんな)は、()(ぬし)がなしの奥方(おくがた)(つか)えることに成功(せいこう)しました。女は、()()んで手伝(てつだ)いながら、美留(きびる)なつくみの(かく)場所(ばしょ)を知り、まんまと(ぬす)()して中山(ちゅうざん)王の所へ運んで、渡しました。
 なお、その(ころ)中山(ちゅうざん)王、南山(なんざん)王、北山(ほくざん)王による、三つの国の王が勢力(せいりょく)(きそっ)ていました。その(なか)から、勢力(せいりょく)非常(ひじょう)(つよ)かった中山王(ちゅうざんおう)に、北山王(ほくざんおう)(つい)(ほろ)ぼされてしまいました。
 ()(ぬし)がなしは、自分は北山王(ほくざんおう)二男(じなん)であり、また(つま)(ほろ)ぼされた(さき)中山王(ちゅうざんおう)(むすめ)であるため、中山(ちゅうざん)軍勢(ぐんぜい)が、いつ()めて()んでくるのかと、毎日(まいにち)心配していました。
 そのため、正名(まさな)村の上の高台(たかだい)に、見張(みは)りのための番所(ばんしょ)()きました。そのため、現在でもその付近を番堂原と()びます。
 やがて、中山王(ちゅうざんおう)(もと)から数艘(すうせき)の船が、沖永良部島(おきのえらぶじま)にやって()ました。
 ()(ぬし)がなしは、家臣(かしん)屋者真三郎(やじゃまさばる)と西見国内兵衛佐の二人を急行(きゅうこう)させ、(いく)さのための軍船(ぐんせん)か、和睦(わぼく)のための使節船(しせつせん)かを調(しら)べてくるようにと(めい)じました。
 また、和睦(わぼく)(ふね)ならその(むね)合図(あいず)し、戦うための軍船の場合は、大至急(だいしきゅう)帰って()るように(めい)じました。
 二人は、船に()()み、()(ぬし)がなしの使者(ししゃ)であることを()げました。
 船は軍船ではなく、使節船(しせつせん)でした。
 二人は、大変(たいへん)な、もてなしを()けたために、つい合図(あいず)の事をすっかり(わす)れてしまったのでした。
 一方、(しろ)では、合図(あいず)があるのを、今か今かと待ち()びたものの、一向(いっこう)にそれがありません。それはきっと(てき)軍船(ぐんせん)間違(まちが)いなく、二人は(すで)(ころ)されてしまったのだと思いました。
 ()(ぬし)がなしは、この小さな島をあげて大国(たいこく)(てき)(まわ)して(たたか)うなど、とても無理(むり)である事を知っていました。
 また、(たの)みの(つな)としていた宝刀(ほうけん)美留(きびる)なつくみも、今や行方(ゆくえ)()れずです。
 ()(ぬし)がなしと奥方(おくがた)はじめ、城中(じょうちゅう)者達(ものたち)は、(たが)いに()(ちが)えて、(みずか)らの(いのち)()ってしまいました。
 それは、一四一六年のことでした。
 一方で、五歳の長女と、三歳の長男の乳母(子守)であったマスガネは、二人を連れて、(しろ)から(そと)脱出(だっしゅつ)していました。
 西原村の、アガレ百の家まで()げたところ、丁度(ちょうど)その(とき)に、村の港に徳之島(とくのしま)(ふね)()ており、その船で徳之島に避難(ひなん)したのでした。
 ()(ぬし)がなし()(あと)、エラブ島を(おさ)める(もの)がいなくなり、それから(のち)中山王(ちゅうざんおう)領地(りょうち)になりました。
 中山王(ちゅうざんおう)は、エラブ島に大屋役を()いてエラブ島を(おさ)めさせたため、エラブ島は()ぐに()ちつきを()(もど)して平和(へいわ)になりました。
 (しま)役人(やくにん)達は、徳之島にいる()(ぬし)がなしの二人の子をエラブ島にお(むか)えし、(しろ)(きた)小高(こだか)(ところ)に家を建てて()まわせました。またその後、中山王(ちゅうざんおう)()(はか)らいによって、子孫(しそん)代々(だいだい)、大屋役を(つと)めることになりました。
 なお、(あね)(おう)(ひめ)だったために、(よめ)(もら)相手(あいて)がなく、一生(いっしょう)独身(どくしん)だったということです。
 ()(ぬし)がなしの城跡(しろあと)は、現在(げんざい)は、世の主神社になっています。
 その(にわ)高台(たかだい)()つと、与和の海から、(はる)(ひがし)喜美留(きびる)海岸までが見渡(みわた)せます。
 また、(しろ)周辺(しゅうへん)谷間(たにま)まで(なが)めていると、当時(とうじ)様子(ようす)(おも)()かべる者も少なくないそうです。
 そしてまた、後蘭孫八(ごらんまごはち)築城(ちくじょう)技術(ぎじゅつ)素晴(すば)らしさは、今もって()を引きます。
 ()(ぬし)がなしの(はか)は、神社から南西方向にあり、大層(たいそう)立派(りっぱ)であり、如何(いか)にも(おう)のものに相応(ふさわ)しいものです。また、このお(はか)はまさに、この(はなし)そのものである歴史(れきし)象徴(しょうちょう)する存在(そんざい)であるそうな。

 
※注~「シニグイ(まつ)り」とは「城籠(しにぐ)祭」か。

※この話の参考とした話
奄美・鹿児島県大島郡知名町瀬里覚~『知名町瀬利覚に伝わる昔ばなし』


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●伝承地
奄美・鹿児島県大島郡知名町瀬里覚~世の主がなしは沖永良部島の王さまです。その城跡も墓も現在内城にあります。昔(一三八○年頃)六百年程以前の琉球時代の頃の話です。当時は各部落にぬる(ノロ)という役職がありました。ぬるは女神官でありますがエラブ島からの貢物(みつぎもの/税金)を北山王の許まで届ける仕事でもあります。ぬるは、未婚の美しい少女を選定します。当時は結婚する女子は斉戒という身を清める儀式を受けることになっておりました。また、ぬるの役職を止めて、次の新しいぬると交代をする時には北山王の許まで行って新しい辞令書をもらうことになっております。その頃、上城のぬるは、貢物を持って北山王の所に行きました。その時にぬるの交代もしたいと思い、自分の姪に当たる十四、五歳の美しい娘も連れていきました。北山王はこの美しい娘に沖ぬるとして辞令書を渡しましたが、この娘のあまりの美しさと可愛さにすっかりほれ、とうとうお嫁にしました。それからその美人の沖ぬるは王さまの許でたのしく暮しておられましたが、そのうち妊娠され、やがて出産も近づきました。それで故郷のエラブ島に帰り、両親の許でお産をしようと思い船に乗りエラブ島に向ってきました。まず最初は屋子母港で上陸したいと思い船を屋子母港に入れました。ところが土地の人々が今年はシニグイ祭りの年だから妊娠しているけがれ女の上陸はお断わりするとのことで、上陸できませんでした。今度は住吉港に入れました。ところがここでも屋子母港と同じくシニグイ祭りの年だから、妊娠したけがれ女の上陸は出来ないとのことで断わられました。だんだんと日は暮れて夜となり女は産気づいてきました。それで今度は故郷の沖ドマリ港で上陸しようと思い船を沖ドマリ港に向かわせました。そして沖ドマリ港ではひそかに上陸しましたが我が家にも行くこともできずそのうちに、いよいよ産気づいてきましたので付近の畠のすみでとうとう出産しました。めでたく生まれた赤ちゃんは、玉のような男の子でした。当夜はあいにく小雨の降る夜でしたので、ミノを傘にしてのお産でした。早速、その場でにわか作りのカマド石をならべて産湯をわかしたり、また、おか湯を炊いたりして無事安産されました。このお生まれになられました赤ちゃんこそ、世の主がなしで御座います。この畠は現在、下城部落内にありますが、当時のカマド石が大事に保存されてあります。近世になり、部落民の人々がここは恐れ多い尊い遺跡だよと神社を建てられました。この神社の御石は世の主神社と言い、このカマド石を神体として大事に祭っておられます。すくすく大きくなられました世の主がなしは、北山王の二男でありますのでお嫁さんは中山王の姫をお迎えになりました。そして、お二人は、父君の北山王の命により沖永良部島を治めることになりました。まず最初は玉城部落のふばどう(金の塔)に家を建てられました。その頃大城部落の川内の百(ひやー)といっしょに、与和の海に魚つりによく出かけておられました。ある日のことです。この与和の海から、越山の方向を指差してあそこは大城部落の所有地です。王さまの居城地としては、もってこいの所ですよと川内の百は申しました。ところが世の主がなしもこれは良いと気に入りまして早速築城工事を後蘭孫八に仰せ付けになり、三か年もかかって完成し世の主がなしはここにお住まいになりました。ある夜のことですが城の方から遠く離れた東方の喜美留海岸の方を見ますとピカピヵ光るものを見ました。あけの夜も、また、次の日も毎夜同じ場所でピカピカ光りますのでこれは何ものだろうかと不思議に思い、使者を喜美留部落にやりその様子をよく聞きますと次のような話でした。喜美留部落に扇丈と言う漁夫がおり、この人が海で魚を釣っておりますと、魚は釣れずに魚の代わりに一本の日本刀がつり上げられました。これは珍しいものだと家に持ち帰りました。この刀は不思議な刀でまな板の上で魚を切ると余り力をいれないのにまな板までも、ずきんずきんと切りとられてしまい、また、その周辺のエサほしさに寄ってきた鶏がうるさいのでシッシッと刀を持った手で追い散らすと、鶏の身体に触れもしないのに鶏の首が飛んでしまった。また、自分の子供がその刀にさわったかさわらないかのちょっとしたことでも大怪我をする始末です。そこでこの漁夫の扇丈さんはこんなに危険なものなら又元の海に捨ててしまえと立腹のあまり、古場野原(コバノバル)で真石に切りつけると真石は真二ツに切り割られてしまいました。それから元の海に投げ捨てたそうです。ところがこの刀は毎晩、海の中でピカピヵと光り遠く離れた内城の世の主がなしの城でも見えたのです。そこで世の主がなしは使者をもう一度喜美留部落の扇丈漁夫の所にやり、この不思議な日本刀を釣り上げてもらい今度は世の主がなしが大事に秘蔵することになりました。世の主がなしは非常にお喜びになり、この刀を喜美留なつくみと申すようになりました。ちょうど、その頃世の主がなしの家来に住吉部落に住んでいる国吉里主と言う男がおりました。この国吉里主は勝負用の馬を二頭所有しておりました。世の主がなしはこのたくましい馬を見ると非常にほしくなり国吉里主にこの二頭の馬を私に下さいと言いました。ところが国吉里主はそれでは一頭は差し上げましょう。後の一頭は、自分も遠い住吉部落からこのお城までこの馬の助けを借りて往復しておりますのでどうぞ勘弁して下さいとお願いしましたが、世の主がなしはぜひ二頭とも必要だからと申されとうとう二頭の馬を取り上げてしまいました。二頭の馬を取り上げられた国吉里主は立腹し沖縄の中山王の所に行き、エラブの世の主がなしの事をいろいろと告げました。その時に喜美留なつくみの名刀のこともくわしく告げました。この話を聞いた中山王は、この喜美留なつくみがほしくなり早速使者をエラブ島の世の主がなしのところにやって、その名刀をゆずってくれないかとの交渉をしました。ところが世の主がなしは私はこのような小さな島で王さまとして島中を治めて行けるのはこの名刀があるおかげです。それでこの名刀はゆずることはできません、と断わりました。それで中山王の使者は仕方なく沖縄の方に帰りました。中山王の方ではなかなかあきらめ切れず、家臣どもがいろいろと知恵をしぼり今度は何らかの方法で盗み取ろうではないかと計画を立てました。
 それで今度は、若い知恵のある女をエラブ島にひそかに渡らせ、世の主がなしの奥方のお手伝(女中さん)さんとして住み込んで働いてもらうようにしました。女は住み込んでいるうちに名刀、喜美留なつくみの秘蔵場所を知ることができました。(床柱の裏側を掘り抜いて納めてあったとの説もある。)女中さんはこれをひそかに盗みとって沖縄の中山王の許に運んで渡しました。その頃沖縄では中山王、南山王、北山王と三つの国となり各王様は勢力争いをしており、中でも中山王の勢力が非常に強く、北山王もとうとうほろぼされてしまいました。(ここで不思議に思いますことは、エラブ世の主がなしの奥方は中山王の姫であるのにどうしてだろうかと、沖縄の歴史をよく調べて見ましたら奥方の産みの親は十年以前にほろぼされてしまい、別の中山王となっていたのです。)この事情をよく知っておられる世の主がなしは、自分は北山王の二男であるために中山王がいつこちらに攻めてくることかと毎日心配をされておりました。(正名部落の上の方の高台に、沖縄方面からくる軍船を見張りする番所があったそうです。現在でもその付近の土地名を番堂原と呼んでおります。)ちょうどその頃、沖縄の中山王から数艘の船が当地沖永良部島にやってきました。世の主がなしは、非常に心配されて早速家臣の屋者真三郎と、西見国内兵衛佐の二人を港へ急行させ、何の目的できたのか戦うための軍船か、敵か味方かを見てくるようにと命じました。そしてもし軍船ではなく仲直りの船であったら旗を高く揚げよ、もし戦う敵の軍船であったら旗を揚げずに大至急帰ってくるようにとの約束でした。(またある説では敵か味方かを、赤、白の旗で合図するようにとも言われています。)港へ急行した屋者真三郎と西見国内兵衛左は早速船の様子を見ながら船に乗り込み、二人はエラブ島の王さま、世の主がなしの使者であることを告げました。そうして要件を聞きますと、軍船ではなく仲直りのための使節船でしたので船の人々はこの二人を盛んにもてなしてくれました。二人は安心して飲み食いしましたのでとうとう酔っぱらってしまい約束の旗を揚げることをすっかりわすれてしまいました。一方、こちら城の方の世の主がなしは、港の方を見つめて旗の揚がるのを今か今かと待ちわびておりましたが一向に旗は揚がりません。これはてっきり敵の軍船に間違いない。二人ともすでに殺されたのだろう。小島を以って大国を敵にすることはとても無理だ。たのみとしていた宝刀の喜美留なつくみもすでに無く、これが最後だと直ちに奥方を始め城中の皆の者互いに差し違えて、無念の自殺を遂げられました(一四一六年)。この大騒動の中で長女五歳、長男三歳の乳母(子守)のマスガネはこの二人の王子を連れていそいで城から外に逃げられました。そして、西原部落のアガレ百の家に飛んでいき、しばしの難をのがれましたがちょうどその時西原部落下の海岸(港)には徳之島船が来ており早速、その船に乗り徳之島の方に避難なされました。(西原部落のアガレ百の家は現在もあります。)この事件でエラブ島を治める者が無くなりましたのでこれから後は中山王の領地となり、大屋役を置いてエラブ島を治めさせました。これでようやくエラブ島も落ちつきを取り戻して平和になりました。島の役人たちも徳之島にいらっしゃる二人の王子さまをエラブ島にお迎えしました。城の北方の小高い所に家を建てられ、その後中山王のお取立てによりその子孫も代々大屋役を勤められました。また、姉さんの方は王様の姫ですので嫁にもらう相手がなく一生独身でお過しになられましたそうです。世の主がなしの城跡は現在世の主神社となっております。その庭の高台に立って与和の海や、はるか東方の喜美留海岸を見渡したり、また城の周辺の谷間を眺めますと当時の様子がしみじみと思い浮びます。後蘭孫八の築城技術の偉大さも深く感じられます。世の主がなしの墓は神社から南西方向にありますがとてもりっぱなもので、如何にも王様のお墓であることが、また歴史の深さが身にしみて読みとれるような感じがします。
(『知名町瀬利覚に伝わる昔ばなし』)


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仲本さま。長文の購読、ありがとうございました。
とても具体的な部分が多いので、沖永良部島の当時が、まるで目に浮かぶような、なかなかよく出来た話です。
いつもありがとうございます。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2014年02月19日 17:12


為井俊雄さん
長文でも読み応えがありました。ありがとうございます。
Posted by 仲本勝男 at 2014年02月05日 18:11


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