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与論のアアジンケエ ~琉球沖縄の伝説

2011年01月23日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(5)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第76話。


与論のアアジンケエ(按司根津栄)



 むかし(むかし)の、与論(よろん)(※与論の古名(こめい)は「與論/かいふた・かゑふた/ゆんぬ・ゆうぬ・いうぬ」等々)(じま)のお(はなし)です。
 ある(おんな)(ひと)が、自分(じぶん)屋敷(やしき)(きた)(はたけ)で、(あわ)()()けをしていました。
 ところが突然(とつぜん)(そら)(くも)ったかと(おも)()もなく、(おお)きな(かみなり)(おと)(ひび)いて、大粒(おおつぶ)(あめ)()って()ました。
 これは(みなみ)(しま)ではよくある(こと)で、()()えず女性(じょせい)は、(はたけ)(きた)にある洞穴(どうけつ)(なか)(はい)って雨が()むのを()つ事にしました。そしてそこにあった(いし)(すわ)って、うたた()していました。
 (しばら)くして、ふと()()めたのですが、それは(あな)(おく)からカサカサという(おと)()こえたためでした。
 女性(じょせい)(おどろ)いて、(おと)がした方向(ほうこう)()かって()()らしました。そして次第(しだい)()暗闇(くらやみ)()れていきました。
 すると、(とし)()えば八十(あま)りでしょうか、白髪(はくはつ)老人(ろうじん)黄金色(こがねいろ)をした(つえ)をついて()っていたそうです。そしてその老人は(またた)()()()せたのでした。
 女性(じょせい)は、自分(じぶん)(ゆめ)()ていたのだと(おも)いました。
 「それにしても不思議(ふしぎ)(ゆめ)だったなあ。」と、それから時々(ときどき)(おも)()しながら()らしていました。ところが、女性(じょせい)身籠(みご)もっていて、十ヵ月(あま)()って、(おとこ)()()みました。
 (うま)れてきた子は、(すで)毛髪(もうはつ)非常(ひじょう)(おお)く、眼光(がんこう)爛々(らんらん)(ひか)り、()(すで)()(そろ)っていたそうです。
 それを見た子どもの母は、この子はきっと(おに)の子どもに(ちが)いないと思い、()ずかしくなって、不思議(ふしぎ)な老人と()った洞穴(どうけつ)(まえ)(はたけ)(すみ)に、子どもを()めてしまったそうです。
 ところがその(よる)からというもの、その場所(ばしょ)から(まばゆ)いばかりに一際(ひときわ)(かがや)(ひかり)が出るようになって、またそれと一緒(いっしょ)に子どもの泣き声がするようになりました。そしてそれは七日の(あいだ)(つづ)いたのでした。
 子どもの母が思う事には、
 「なんて不思議(ふしぎ)な事があるものだ。これは、もしかすると、(かみ)がそうさせているのかもしれない。もしも何もせずこのままにしておくと、(かみ)(たた)りがあるのではあるまいか。」と。
 そう(かんが)えて、八日目に()()えず()めた(はたけ)を見に行きました。
 すると、畑が非常(ひじょう)に大きく()れていて、その中で、子どもが泣いています。
 「どうして、この(よう)ような事が()こったのだろうか。(まった)く、どんな事でも()こり()るものだ。」と思って、大層(たいそう)(おどろ)いたのは言うまでもありません。
 「それにしても、(なに)かの(ばつ)()たったのだろうか。(いず)れにせよ、この子は私が(そだ)てる事にしよう。」と母は決心(けっしん)して、子ども(はたけ)から(ひろ)()してアアジンケエ(按司根津栄)という名を()け、(そだ)(はじ)めたのでした。
 (なお)アアジンケエ(按司根津栄)(はは)妊娠(にんしん)していた(あいだ)()たり()いたりした(もの)一切(いっさい)(くち)にせず、毎日(まいにち)生米(なまごめ)はじめとする生物(なまもの)ばかりを食べていたそうです。そのためでしょうか、アアジンケエ(按司根津栄)は、普通(ふつう)の子に(くら)べてどんどん大きくなっていったのでした。そして、七、八歳になった(ころ)には、十五、六歳の男の子よりも(はる)かに、(からだ)(たましい)も、大きく(つよ)くなっていました。
 例えば、相撲(すもう)をとらせれば(かなら)()ちました。また、よく(ゆみ)(かたな)()って、()()相手(あいて)にして(いくさ)真似事(まねごと)をして遊んでいたそうです。当然(とうぜん)、子ども(たち)(あつ)まればいつも大将(たいしょう)で、そのうちに毎日(まいにち)毎日、(いくさ)ごっこをして(あそ)ぶようになりました。
 (とく)に、武具(ぶぐ)の中でも(ゆみ)非常(ひじょう)()きになっていって、朝夕(あさゆう)(いえ)(ひがし)にあるパンタという小高(こだか)(おか)(のぼ)っては、よく弓を()真似(まね)をしていたそうです。
 ある日のことです。
 ()()んだ琉球(りゅうきゅう)(ふね)が、ウプガニクという(ところ)(はる)(おき)(とお)っている(とき)に、アアジンケエ(按司根津栄)()(ゆみ)()が、(とお)(はな)れた島から飛んできて船の(つな)を切った事がありました。それから(のち)琉球(りゅうきゅう)では、与論島(よろんじま)の東の海を(とお)ると非常(ひじょう)危険(きけん)だと()われるようになり、船が通らなくなったそうです。
 アアジンケエ(按司根津栄)には(あに)がいて、その名を、キャアウドゥキと言い、また(いもうと)もいて、その名を、インジュルキといいました。
 キャアウドゥキは、農業(のうぎょう)大層(たいそう)熱心(ねっしん)だったので、島では農耕(のうこう)(かみ)()ばれていました。
 インジュルキは、(うみ)をこよなく(あい)していたので、龍宮(りゅうじん)の神と()ばれていました。
 ところで、アアジンケエ(按司根津栄)は、病気(びょうき)流行(はや)ったり旱魃(かんばつ)(とき)はじめ、(まず)しい島の人々(ひとびと)のために(ちから)()くす人だったため、自然(しぜん)に島の神として(あが)められて首長(しゅちょう)となり、島を統治(とうち)していました。
 兄と同じく妹のインジュルキもまた、(ゆみ)()るのがそれはそれは上手(じょうず)で、(たぐ)(まれ)上等(じょうとう)(ゆみ)()っていました。そのためアアジンケエ(按司根津栄)は、インジュルキのこの弓を()りて(いくさ)の時のための稽古(けいこ)を、よくしていたそうです。
 やがてアアジンケエ(按司根津栄)は、二十七歳になりました。この(ころ)には、馬に乗るのがすっかり上手(じょうず)になっていました。
 ある日、アアジンケエ(按司根津栄)があれこれ深く(かんが)える事には、
 「この小さい与論島(よろんじま)の中だけで、いつまでも(すぐ)れた(もの)として(とど)まり続けて安穏(あんのん)()らしているようでは、いけないのではあるまいか。
 もっと大きな国でも、(すぐ)(もの)として通用(つうよう)する人間(にんげん)に、自分はならなければならない。」と。
 そう考え決心したアアジンケエ(按司根津栄)単身(たんしん)、沖縄本島の北部、山原(やんばる)へと旅立(たびだ)ったのでした。
 そして、やがて北部(ほくぶ)琉球(りゅうきゅう)(おう)出会(であ)ったのでした。
 (おう)が、お(まえ)何者(なにもの)かと(たず)ねたところ、アアジンケエ(按司根津栄)は、自分は与論島(よろんじま)首長(しゅちょう)であると答えました。
 (つづ)いて(おう)は、()(なん)というのかと質問(しつもん)すると、アアジンケエ(按司根津栄)が言うことには、
 「人の名は、そもそも、あるものではございません。」と。
 そう(こた)えたので、(おう)は、なかなか不思議(ふしぎ)(こと)を言う男だと気に()って、如何(いか)ほどの(ちから)があるのか(ため)してみたくなりました。
 そこでアアジンケエ(按司根津栄)を、自分が()御殿(うどぅん/おどん)から(とお)ざけると、非常に沢山(たくさん)(へい)御殿(うどぅん/おどん)(かこ)ませました。
 そして、アアジンケエ(按司根津栄)に、殿内(とのち)出来(でき)るだけ(はや)()るよう、やってみなさいと言い()けたのでした。
 すると何をどうやったのか、アアジンケエ(按司根津栄)は、(きわ)めて短時間(たんじかん)(あいだ)に、何処(どこ)からともなくやって()て、王の前に(かしこ)まって正座(せいざ)しています。
 (おどろ)いた(おう)が言う事には、
 「お(まえ)一体(いったい)何処(どこ)()まれか。」と、そう()いました。
 アアジンケエ(按司根津栄)は、与論島(よろんじま)()まれだと()げました。
 すると、王が言うことには、
 「お(まえ)は、(きわ)めて(すぐ)れた人物(じんぶつ)である。
 (はや)故郷(こきょう)(しま)(もど)って、島の人々(ひとびと)のために、()いアアジにならなければならない。」と、そのように(もう)()けたのでした。
 それからまた王はアアジンケエ(按司根津栄)に、お(まえ)(おも)()になるような(もの)(なに)か一つ、()いていって欲しいとも()いました。
 そこでアアジンケエ(按司根津栄)は、インジュルキから()りて()(ゆみ)()いて、与論島へ(もど)ったのでした。
 さて、(はなし)()いたインジュルキは、自分(じぶん)(ゆみ)手元(てもと)二度(にど)(ふたた)(もど)らないと聞くと、それはそれは大層(たいそう)()()んで、毎日(まいにち)物思(ものおも)いに(ふけ)ってばかりいるようになりました。
 そこでアアジンケエ(按司根津栄)は、(ゆみ)(つく)るために、最高(さいこう)(くわ)()(さが)(まわ)って島全体(しまぜんたい)を歩きました。そして弓を作ると、インジュルキに渡しました。
 しかしながらインジュルキは、あの弓でなければと言って受け取ろうとしません。
 仕方(しかた)なくアアジンケエ(按司根津栄)は、自分が()まれた(しるし)として()えられていた屋敷(やしき)(きた)(くわ)の木を()って(ゆみ)(つく)り、渡そうとしましたが、やはりインジュルキはそれも()()りません。
 アアジンケエ(按司根津栄)は、(つい)()(けっ)して、インジュルキの(ゆみ)(かえ)してもらおうと、(ふたた)琉球(りゅうきゅう)(わた)って王の殿内(とのち)()かったのでした。
 一方(いっぽう)北部(ほくぶ)琉球(りゅうきゅう)(おう)は、アアジンケエ(按司根津栄)から(もら)った(ゆみ)を一番の(たから)にしていて、(とこ)(かざ)って朝夕(あさゆう)(なが)めていました。
 そこでアアジンケエ(按司根津栄)は、(かみなり)(おと)(つよ)()(ひび)いて大雨(おおあめ)()った(よる)に、御殿(うどぅん/おどん)(かわら)()()がしてこっそり(なか)(はい)り、(だれ)にも気付(きづ)かれる事なく(ゆみ)を取り(もど)して、与論島(よろんじま)(かえ)って()ました。
 妹のインジュルキが、(あきら)めていた自分自身の弓が手許(てもと)(もど)ってどれほど(よろこ)んだかは、今更(いまさら)、言うまでもありません。
 一方、王の(ほう)は、毎日(まいにち)家来(けらい)使(つか)ってあちこちを(さが)させたものの、(ゆみ)一向(いっこう)()()ません。
 今回(こんかい)の事は、普通(ふつう)の人間が出来るような(こと)ではない。きっと与論島の「アアジ」がしたに(ちが)いないと(かんが)えるようになり、(ちから)ずくで弓を取り(もど)そうと、兵隊(へいたい)千人を与論島(よろんじま)へ送り出したのでした。
 アアジンケエ(按司根津栄)は、ウプガニク(大金久)舟倉(ふなぐら)網干(あみほ)()(つく)るため、(みさき)大石(おおいし)とナアビルの大石に()(づな)をしていました。
 それが終わって、魚をとるため海へ出掛(でか)けようとしていた時、使(つか)いの(もの)がやって()()げました。
 「琉球(りゅうきゅう)戦船(いくさぶね)が、赤佐(あがさ)港へ(はい)っています。」と。
 アアジンケエ(按司根津栄)は、それを()くと()ぐさま(いえ)(もど)り、(いくさ)(そな)えて()べられるだけ食べると、(かたな)(ゆみ)()()ち、黒い馬に(またが)ると、(すく)ぐさま出掛(でか)けたのでした。
 その時、三歳(さんさい)になる子どもが(はし)()って飯椀(めしわん)()()ぐに()てました。
 その(ころ)琉球(りゅうきゅう)軍勢(ぐんぜい)(すで)に与論島に上陸(じょうりく)して、ウシミチの(ところ)まで()ていました。
 アアジンケエ(按司根津栄)は、(かたな)()()げると軍勢(ぐんぜい)に向かって()()み、次々と(てき)()(たお)していきました。()(のこ)った兵士(へいし)は、アアジンケエ(按司根津栄)のあまりの(おそ)ろしさに、(みな)一目散(いちもくさん)()()しました。
 (なお)、その(たたか)いの最中(さいちゅう)不吉(ふきつ)な事に(かたな)目釘(めくぎ)()けてしまったアアジンケエ(按司根津栄)でしたが、()(まえ)機転(きてん)()かせ、即座(そくざ)に自分の(かんざし)()()って()め、目釘(めくぎ)代用(だいよう)にしたため、(こと)なきを()ました。そして(てき)()途中(とちゅう)アアジンケエ(按司根津栄)一度(いちど)(うま)()り、カタナダプの()(はい)って、(かたな)()(あら)()としながら()(きよ)めました。それから、赤佐(あがさ)浜に()かいました。
 浜には(すで)兵士(へいし)一人(ひとり)(のこ)っておらず、(ぐん)全滅(ぜんめつ)したために戦船(いくさぶね)は、まさに島を出て行こうとしていました。
 アアジンケエ(按司根津栄)は、ピグチパンタ(※徳沖島氏の家の北の小丘)()つと、船にへ向かって()びました。
 「琉球(りゅうきゅう)からこの(しま)征服(せいふく)しようとやって()たお前達(まえたち)仲間(なかま)は、(わたし)一人残(ひとりのこ)らず成敗(せいばい)した。さっさと(かえ)って、私の話を()こうとしない(もの)や島を征服(せいふく)しようとやって来た者は、たった一人でも()かしてここから(かえ)さないと、お前達(まえたち)(おう)(つた)えよ。」と。
 そう、大声(おおごえ)()うと、(おき)()く船に()かって(ゆみ)()を次々に()ったのでした。すると、(ふね)()(つな)が矢で次々と()()られ、(ふね)は思い通りに(はし)れなくなりました。
 さて、それを()いた琉球(りゅうきゅう)北山(ほくざん)(おう)は、与論島のアアジンケエ(按司根津栄)がそんなにも(ちから)をつけた今となっては、一刻(いっこく)(はや)(ころ)してしまわないと自分(じぶん)(くに)(ほろ)ぼされかねないと(かんが)えました。
 そこで(おう)即座(そくざ)に、アアジンケエ(按司根津栄)(ころ)すため、(ふたた)千人(せんにん)軍隊(ぐんたい)与論島(よろんじま)に送り()んだのでした。
 アアジンケエ(按司根津栄)はこれを、一兵(いっぺい)(のこ)さず()(ころ)しました。
 そして最後(さいご)に、まだ()(のこ)った者がいないか、船の中を調(しら)べていると、(めし)()役目(やくめ)年寄(としよ)りがいました。アアジンケエ(按司根津栄)(ころ)そうとすると、その老人(ろうじん)()うことには、
 「どうか、お()(くだ)さい。(わたくし)はこの(とお)りの年寄(としよ)りで、もう(ちから)(あま)りございません。私は兵士(へいし)ではなく、(たん)なる飯炊(めした)きに()ぎません。
 どうか(いのち)だけはお(たす)(くだ)さい。」と。
 それを()いたアアジンケエ(按司根津栄)は、その年寄(としよ)りを(たす)ける事にしました。
 次の日の朝、アアジンケエ(按司根津栄)仕事(しごと)出掛(でか)けるため、朝飯(あさめし)()べようとすると、まわりを()(まわ)って(あそ)んでいた子が、アアジンケエ(按司根津栄)飯椀(めしわん)真上(まうえ)から(はし)()()てたものが()かれていました。アアジンケエ(按司根津栄)はそれを()て、(まった)縁起(えんぎ)(わる)悪戯(いたずら)ばかりする子だと(おも)いつつ、気にする事もなく、(はし)()くと朝飯を()べ、出掛(でか)けたのでした。
 当然(とうぜん)昨日(さくじつ)までの(いくさ)日々(ひび)とは(ちが)うので、(かぶと)などはもちろん(かぶ)っていません。
 その(ころ)(ふね)(かえ)支度(じたく)をしていた老人(ろうじん)は、目の前にあった()()てふと(おも)いました。自分以外(いがい)の千人の仲間(なかま)は、すべて()んでしまった。この弓の矢は、もう使(つか)(みち)がないと(つぶや)くなり、太陽を()るつもりで、空に向かって矢を一本、(はな)ったのでした。
 するとその()は、(もり)(なか)(みち)(ある)いていたアアジンケエ(按司根津栄)(あたま)()(ささ)さり、アアジンケエ(按司根津栄)はそのまま()んでしまったのでした。
 アアジンケエ(按司根津栄)()んだらしいという(うわさ)は、やがて北山王(ほくざんおう)(みみ)にも(とど)きました。しかしながら一兵(いっぺい)も自分の兵が(もど)らぬ(おう)は、その(うわさ)素直(すなお)(しん)じられません。
 そこで、アアジンケエ(按司根津栄)本当(ほんとう)()んだのかを(たし)かめさせるため、(ふたた)び千人の軍勢(ぐんぜい)を、与論島に()()けたのでした。
 ()めてきた琉球(りゅうきゅう)軍勢(ぐんぜい)()て、与論島(よろんじま)人々(ひとびと)色々(いろいろ)(かんが)えた(すえ)()んで(ほうむ)ったアアジンケエ(按司根津栄)(はしら)(しば)()けて()っているように()せかけました。
 アアジンケエ(按司根津栄)(くち)には、(しろ)蛆虫(うじむし)()いていましたが、それを()琉球(りゅうきゅう)兵士(へいし)が言うことには、
 「まだアアジンケエ(按司根津栄)()きているではないか。ああして、生米(なまごめ)()べながら、相変(あいかわ)らず(おそろ)ろしい(かお)をしながら()っているぞ。私達(わたしたち)(うそ)(はなし)にまんまと(だま)されて、ここまで来てしまったのだ。」と口々に言い、恐れをなして一端(いったん)港に(もど)ってみると、(ふね)は島の人々によって(こわ)されていたのでした。このままでは今までの兵士のように、アアジンケエ(按司根津栄)に殺されるのは()()えています。(てき)にむざむざ(ころ)されるよりはと、兵士達は次々(つぎつぎ)(はら)()って死んでいきました。
 その様子(ようす)を見ながら島人(しまびと)達は、島が助かったのはアアジンケエ(按司根津栄)(さま)のお(かげ)だとますます感謝(かんしゃ)して、今まで以上に(あが)めて、(まつ)りました。また、後々(のちのち)まで子孫(しそん)に話を(つた)える事にしました。つまり、アアジンケエ(按司根津栄)()きている(あいだ)()()せた、千人の敵兵(てきへい)何度(なんど)(ころ)して島を守り、そればかりか()んでさえも、千人の敵兵(てきへい)(ころ)して(しま)(まも)った英雄(えいゆう)として、島の人々(ひとびと)子孫(しそん)(かた)()いでいく事にしたのでした。
 また、今後この島では、(けっ)して飯椀(めしわん)(はし)()()ててはならないという事も、(つた)えられていきました。
 さて、琉球の王はアアジンケエ(按司根津栄)(ころ)そうと、(ふたた)軍勢(ぐんぜい)派遣(はけん)しました。
 そしてその軍勢(ぐんぜい)は、赤佐浜で上陸(じょうりく)し、アシトゥ(足戸)(※足戸は、現在、朝戸に改められている)まで()がって来ました。
 アアジンケエ(按司根津栄)(いもうと)のインジュルキは男の兵士(へいし)()()ちで人々と(たたか)いました。
 しかしながら(てき)(かず)(おお)く、多勢(たぜい)無勢(ぶぜい)で、最期(さいご)には自身(じしん)(いえ)の南のウガニ(※神々(こうごう)しい丘。そこは二坪位の広さの地で、石垣で囲まれ、周りは雑木が繁茂(はんも)している)の中に(ひそく)んでいるところを琉球軍(りゅうきゅうぐん)(とら)えられて殺されてしまいました。
 ところが、インジュルキの(くび)がその場で()り落とされた(とき)、その(くび)(てん)(たか)(おど)()がったかと思うやいなや、東から西へと()びながら、
  ニリャアに走りなさい
  カネエライに走りなさい
(うた)(はじ)めたのでした。
 この不思議(ふしぎ)なインジュルキの空飛(そらと)ぶ首を見た琉球の兵士達(へいしたち)は、(あま)りの恐ろしさに()えかね、一目散(いちもくさん)に船まで走って逃げました。そして急いで出奔(しゅっぽん)しようしたところ、突如(とつじょ)大風(おおかぜ)()いて船は()()(かえ)り、(てき)兵士(へいし)(のこ)らず(おぼ)()んでしまいました。
 そのためインジュルキの(うた)は、(うら)みと(のろ)いの意味(いみ)(うた)()われるようになりました。
 (なお)、歌の「ニリャア」とは、龍宮(りゅうぐう)の事であり、「カネエライ」とは、メエバマ(前浜)とワタンジ海との(あいだ)の海の()だそうです。
 カネエライは、(しお)の流れが(きゅう)(はや)くなる場所(ばしょ)として、与論島(よろんじま)では(ふる)くから()られていて、インジュルキの(うた)は「琉球の船よ、そこまで走ってそこでみんな(おぼ)れてしまいなさい」という意味であると、島では代々(だいだい)子孫(しそん)にいい(つた)えられ、子は親から話を()いてきたそうな。



※注~
アアジンケエ(按司根津栄)」は、「あんじにちぇー/あーじにっちぇー/あーじんちぇー/あじにっちゅー」などとも。
「インジュルキ」は、「インジュルギ」などとも。


※この話の参考とした話
奄美・鹿児島県大島郡与論町城~『与論島の生活と伝承』
奄美・鹿児島県大島郡与論町麦屋西区~『奄美大島与論島の民俗語彙と昔話』
奄美・鹿児島県大島郡与論町立長~『与論島郷土史』


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●伝承地
奄美・鹿児島県大島郡与論町城~むかしむかしのこと。女の人が屋敷の北の畑にて、粟の植え付けをしていた。そうしたところが、今々さっそく、天が曇って、大きな雷の音がして、大雨が降ってきた。女の人は、畑の北の洞穴の中に入って、雨が晴れるのを待っていた。洞穴の中の石にすわって、うたた寝をしていた。そうしたところが、洞穴の中からカサカサしている音が聞かれてきたという。おどろいて見たところが、年が八十余りの白髪人のおじいさんが、黄金杖を持って立っていたという。そうしてからその白髪おじいさんは、消えて無くなったという。その時、女の人は、夢を見ていたという。
 「不思議な夢を見たものだ」と思って暮らしておったところが、女は子を孕んで、十ヵ月余りになってから男の子を産んだという。生れてきた子供は、頭の毛は非常に多く生えて、目は爛々と光って、歯も生えていた。
そうしたところが、その子供の母は恥ずかしくなって、
 「この子は、鬼の子である。」と思って、不思議なおじいさんと逢った、洞穴の前の畑の隅に、埋めてしまったという。そうしたところが、その夜から、毎日ぴかぴかと光る光りが出て、子供の泣き声が七日のあいだ聞こえてきたという。
 「そんなにまで、不思議なこともあるものだ。これは神様が、させているものであるのかもしれない。このまま置いてしまえば神の崇りがあるだろう。」そのように思って、八日目になってから、埋めた畑に行ってみたところ、畑は非常に大きく割れて、中において子供が泣いておったという。
 「どうして、このようなことが起るのだろうか」といって、おどろいて、
 「これは、きっと罰が当たったのである。早く畑の中から、子供を出さなければならない」といって、子供を出して、アアジンケエという名を付けて育てたという。アアジンケエの母は、妊娠していたあいだに、煮たり焼いたりしてある物はなにひとつ食べないようにして、毎日なま米となま物ばかり食べておったという。アアジンケエは、大きくなっていく。七、八歳になったところが、十五、六歳の男の子よりも魂強くなって、相撲をさせれば勝って、また、弓と刀を持って、立ち木を相手にしていくさ(戦)の真似をしておったという。また、子供たちを集めて、自分自身で大将になって、遊びごとをしていた。また、弓を非常に好むようになって、朝夕家の東のパンタ(小高い丘)に登って、弓を射る真似をしていた。ある日、沖縄の船が荷物を積んで、ウプガニクの沖を通っている時、アアジンケエが放った弓の矢は、舟の櫨綱を射り切ったという。それから後は、沖縄にては、与論島の東の海から船を走らせることをしてはならない、といって、船は通らなくなったという。アアジンケエの兄の名は、キャアウドゥキといい、妹の兄は、インジュルキといったという。キャラドゥキは、農作業に熱心になって、農業の神といわれていた。インジュルキは、海を好むようになって、龍宮の神といわれていた。アアジンケエは、病気や旱魃や貧しい時の祭り神になって、島の首長(または統治者)といわれていた。インジュルキは、弓射りを好むようになって、非常に良い弓を持っておった。アアジンケエは一度ずつインジュルキの弓を借りて、いくさの稽古(けいこ)をしていた。アアジンケエは二十七歳の青年になった。馬乗りが上手になって、ある日考えて、
 「小さくある与論島の、すぐれ者になっていることよりは、大きくある国のすぐれ者にならなければならない」そのように思って、山原(やんばる・北部沖縄本島の方へ)出発して行った。北部沖縄王様にお目にかかった時、王は、 「おまえは、何をしているのか」と問うたという。
 「わたしは、首長でございます」といったところが、王は、
 「名は、なんというのか」と問うた。アアジンケエは、
 「名は、あるのではございません」といったところ、王は、不思議な男であると思って、いかほどの力があるだろうか、試してみよう。そのように思って、アアジンケエを、御殿から遠くに行かせて、非常にたくさんの兵隊で、御殿を囲ませて、
 「とのち(殿内)へ、速く来てみなさいよ」といいいつけた。そうしたところが、アアジンケエは、どこから来たのかわからないけれど、きわめてほんの瞬間のあいだに、王様の前へ来て、かしこまって正座していた。
 このことを見た王様は、おどろいて、
 「おまえは、どこに生まれたのか」と問うた。アアジンケエは、
 「わたしは、与論島に生まれたのでございます」といったところが、王は、
 「おまえは、すぐれている人である。さあ、早く島の方へ戻って、非常に良い『アアジ』にならなければならない」そのようにいいつけてから、
 「お前のカタミ(思い出の種)になっていく物の一つは置いて置きなさい」そのように、王様がいっていることなので、インジュルキから借りてきた弓を置いて、与論島へ戻って来た。インジュルキは、自分自身の弓が無くなってから毎日もの思いをしていた。アアジンケエは、弓を作る桑の木を島全体たずね探して、インジュルキへ弓を作って、取らせたという。インジュルキは、
 「元の弓でなければいけない」といって、なんとしても聞かなかった。しかたが無いのだから、屋敷の北のアアジンケエが生まれた印として植えてある桑の木を伐って、それでもって、弓を作って与えたが、インジュルキは取らなかった。そうしたところが、アアジンケエは、また再び琉球に渡って、インジュルキの弓を取ろうとして、王様の殿内(とのち)へ上がって行った。王は、その弓は、御殿の宝にしようと思って床に飾って、朝夕見ておいでになっていたという。アアジンケエはある夜、雷の音が鳴り強くなって大雨が降っている時、御殿の瓦を取り剥がしてきわめてこっそりと中へ入って、弓を取って、与論島へ帰ったという。弓が無くなってから、王は、毎日家来を使って、たずね探させたのであるが、弓が出てこないので、
 「これは、普通の人のしかたではない。必ずきっと、与論島の『アアジ』のしたことである」そのように考えて、腹がたって、兵隊千人を与論島へ送った。インジュルキは、自分自身の弓を取って、喜び嬉しがっていた。アアジンケエは、ウプガニク(大金久)の舟倉に、網干し場を作って、岬の大石とナアビルの大石に、巻き網をしていた。ある日、アアジンケエが魚取りをしようとして海へ行っていた時、使い人が来て、
 「沖縄のいくさ船が、赤佐(あがさ)港へ入っている」と語ったという。アアジンケエはさっそく家へ戻って、とても多く食べ物を食べて、刀と弓と矢を持って、黒馬に乗って出かけようとしたところが、三歳になる子供が箸を取って、飯椀にまっすぐ立てた。そのかたきの、琉球のいくさ人は、すべて与論島へ降りて、ウシミチの所まで来ていた。アアジンケエは、刀で斬り込んで、薙ぎ倒した。残っていた兵隊は、こわくなってひん逃げていった。その時、アアジンケエの刀の目釘が抜けたことによって、カンザシを取って嵌めて、馬を降りて、カタナダプの田に入って刀の血を洗い落して、赤佐浜へ向かった。赤佐浜にはいくさ人が一人もおらずいくさ船は出て行こうとしている。アアジンケエは、ピグチパンタ(徳沖島氏の家の北の小丘)に立って、船の方へ向かって、
 「琉球からやってきたおまえたちは、わたしによってすべて、殺されて無くなったのです。速く帰って、わたしがいっていることを聞かない者は、たった一人でも生かさない。そのように、王様へ聞かせなさい」と、大声でいった。そして、沖に浮いている船へ、弓の矢を射ったところが、船の帆の綱が断ち切れて、船は走れなくなった。そのことを聞いた琉球の王は、
 「与論島には、そのようにある力者がおることだ。早くその者を殺さなければ、わたしの国が亡ぼされるだろう」そのように考えて、王は、アアジンケエを殺すために、また、再び、千人のいくさ人を与論島へ送った。
 アアジンケエは、一人も残さないように斬り殺した。そうしてから、まだ残っている人が、いないだろうかと思って、船の中を調べてみた。そうしたところが、船には飯を炊く役の人の年寄りの一人がおったという。アアジンケエは、殺そうと思ったのだが、そのおじいさんが、
 「どうか、待ってくださいませ。わたしは、こんなにしている年寄りでございます。なにをする力もあるものではございません。どうかどうか、命だけは助けてくださいませ」といっていることなので、アアジンケエは、それもそのとうりである、と思って、年寄りを助けた。次の日の朝、アアジンケエが、朝飯を食べて仕事をするため出かけようとしている時、そこから這い廻って遊んでいた子供が、アアジンケエの飯椀の真上から、箸を突き立てて置いた。アアジンケエは、
 「いやらしくきたなくしている、この子供」といって居(お)りつつ、箸を抜いて朝飯を召しあがって出掛けて行った。いつもの兜をかぶらないようにして出た。船に残っていたおじいさんは、その頃、
 「あれまあ、もうわたしの千人の仲間はすべて死に終って、わたしにはもうどうにもされない。わたしが、このようにある弓を持っておっても何をするか。あの太陽を射ってみましょう」といって、弓を太陽に向けて放った。そうしたところが、その弓の矢は、道の中を歩いていたアアジンケエの頭の上へ落ちてきて、アアジンケエは死んでしまった。その噂は、琉球の王様へ届いた。そうしたら王は、
 「ほんとうに、アアジンケエは、死んであるだろうか。行って確かめて来なさい」そのように家来へいって、またまた、千人のいくさ人を与論島へ行かせた。与論の人たちはおどろいて、あれもこれもすべて考えたのであるが、良い考えは出てこなかった。しかたが無いのだから、死んでしまっているアアジンケエを柱に縛りつけて、立たせて置いた。アアジンケエは、もう蛆が生えて、口から長く、白くしている蛆虫が、サラサラと音立てて、落ちてきた。それを見た琉球のいくさ人たちは、
 「まだアアジンケエは、生きてのみいる。なま米を噛んで、口から白くある飯を、出しておりつつ食べているそよ。彼に殺されるぐらいでは、自分で腹をおし斬って死ぬのが良いのです」そのようにいって、次々と自分自身の腹をおし斬って、すべて死んだ。島の人たちは、
 「島は、助かってあるのだよ。アアジンケエ様は、ほんとうにありがたい人でございます」といって、喜び嬉しがった。また、後になってから、
 「アアジンケエは、生きているあいだ、千人のかたきを殺して、死んでから千人のかたきを殺して」と、島の中のすべての人からいわれたという。また、飯椀に箸を突き立てるものではない、といわれてきた。琉球の王は、アアジンケエを殺そうとして、またいくさ人を派遣した。いくさ人たちは、赤佐浜に降りて、アシトゥ(足戸、足戸は今では朝戸に改めている)へ上がって来た。インジュルキは、男のいくさ人のようにしたくをして、いくさした。相手は多くあって、自分自身の家の南の方のウガニ(神々しい丘。そこは二坪位の広さの地で、石垣で囲まれ、周りは雑木が繁茂している)の中に隠れておったのであるが、琉球のかたきに見つけられて、殺されてしまった。インジュルキの首が斬られた時、首は天の方高く躍って、東から西へ飛んで、
  ニリャアに走りなさい
  カネエライに走りなさい
と歌った。ふしぎなインジュルキの有様を見ている琉球のいくさ人は、もの恐ろしくこわくなって、あわてて船へ引き上げて、船を走らせようとしたのだが、大風が吹いて、船はひっくり返って、琉球のかたきは、すべて死んだという。この歌は、恨み呪いの歌の意味である。「ニリャア」は、龍宮のこと。「カネエライ」は、メエバマ(前浜)とワタンジ海とのあいだの海の名といわれた。カネエライは、潮の流れかたが速くなる所である。琉球の船は、それから先、そこの所にて溺れなさい、といっていることの意味である。そのようにいい聞かされてきたのである。(『与論島の生活と伝承』)
奄美・鹿児島県大島郡与論町麦屋西区~昔、ニチェーというところに女がいた。屋敷の北側で粟植えをしていたが、大雨が降ってきたので近くの穴に雨宿りをした。穴の中で光を発する白髪の老人がたっている夢をみた。それからお腹が大きくなり、子どもが生れた。その子は頭の毛は黒く、歯も生えそろっていた。家の人は鬼の子として畑に埋めた。ところが、その夜から埋めたところから稲光と赤子の泣声が聞こえてきた。これは神の子だと掘り起して、大事に育てた。この子が七・八歳になると力も強く、勇気もあり、弓も上手であった。島の東側を通る船の帆綱を射落とすほどであった。ニチェーには農業をしている兄、海が好きで島で一番強い弓を持っている弓の上手な妹がいた。ニチェーは妹の弓を借り、首里へ行き、琉球王に仕えた。暫くして、帰島を願いでたが、琉球王はニチェーとの別れを惜しみ、形身として妹の弓をおいていくようにと命じた。ニチェーが弓を琉球王においてきたので、妹は悲しんだ。ニチェーは琉球王城に忍びこみ弓をとり返してきた。琉球王は怒り、兵千名を与論島にさしむけて弓をとり返すことにした。ニチェーは琉球の軍船をみると、家に帰り、三歳の子どもが箸をご飯の上にたてたご飯をかきこみ、戦いにのぞみ敵を一人残らず撃退した。その時、琉球軍船の飯たきの老人が天に向って放った矢がニチェーの頭上に当った。ニチェーは立ったまま死に、口に生米をかんだ状態のようであった。再び押し寄せた琉球軍勢はこの姿をみて恐れて逃げ帰った。さらに、ニチェーが死んだのを聞いて、琉球王は軍勢をさしむけた。ニチェーの妹は強弓で奮戦した。最後に妹が首をはねられた時、その首は東、西へととび、海の神様が、早い流れにという意味ののろいの歌をうたった。
琉球軍勢は驚き、われさきにと琉球へと逃げ帰った。(『奄美大島与論島の民俗語彙と昔話』)
奄美・鹿児島県大島郡与論町立長~ニツチエの母が屋敷の北側で粟植えをしていると、大雨が降ってきた。畑の北の南向きの穴に入り、居眠りしていた。夢の中に白髪の老人が現われた。暫くすると壊妊、男の子を生んだ。頭髪も豊かで、目も鋭く、歯もあったので畑に埋めた。それから夜に光を発し、泣声をたてるので神の子だと掘り出した。七歳の頃には十四歳ほどの体格で弓がとても上手になった。ニツチエには農業神を信仰している兄、ニツチエに劣らない強弓をひく竜宮神を信仰している妹がいた。ニツチエは二十七・八歳の頃、琉球王に謁見し、与論島より北の領地を与えられ按司を賜った。帰島の時、形身として妹から借りてきた弓をおいてきた。妹は、自分の弓を惜しみ意気消沈していた。ニツチエは、琉球王城へ忍び入り、弓をとり返してきて、妹に返した。琉球王は与論島へ検証のため兵千名を派遣した。漁にでていたニツチエは、琉球軍勢が来攻したのを聞き、急いで家に帰り、三歳の子どもが箸一本をつきさしたご飯を食べて、戦さに出かけた。敵兵を退けて、ニツチエが茶花の北側の小高い森にたっていると、一本の矢がニツチエの頭上に当った。この矢は飯炊きの水夫が残った矢を天に向って射たものであった。ニツチエはその場所にたったままで、葬式をしようとしても大風が吹いてできなかった。琉球軍勢は、再び来攻したが、小高い森にたち、飯を食べているようなニツチエの姿をみて恐れて逃げ帰った。ニツチエ死去の報に琉球王は三回目の軍勢をさしむけた。今度は妹が強弓をひいて奮戦したが、最後に首をはねられたとき、その首が東、西に飛びながら呪いの歌をうたった。琉球兵たちは船に逃げ帰り、大急ぎで琉球へ引き返すことにしたが大暴風が吹き、軍船は残らず沈没したという。(『与論島郷土史』)


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仲本さま。長編の購読、まことにありがとうございました。
小さな与論島に生まれた、昔の英雄伝説です。
ひとりで戦ったというのは、民話ですから脚色の気がして、個人的には、外部勢力に対して簡単には屈しない精神が、かつての与論島の島民にはあったのでしょう。こういう民話を語り継ぐというのは、そういう土地柄だったのだろう推察されます。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2014年02月19日 16:42


為井さん楽しく恐ろしく若者たちにこうして弓の願望。人の生き死にが日常的で何を教えてのでしょう。今にもキジムナーが現れるようでした。
Posted by 仲本勝男仲本勝男 at 2014年02月16日 15:37


す~み~サン、はいさい、今日(ちゅー)拝(うが)なびら。

まずは、長文を読んで頂いて、ありがとうございました。
そして、お疲れさまです。

僕は、土曜の夕方から、資料を見ながら、
ざっと本の本文を書き終わるのに、3時間ぐらい。

前の日の本文を、アップしそこなって、土曜になったので、
この文は日曜にしようと、たかをくくっていたら、
結果的に、土曜の夜~日曜の殆どが、この話の訳で終わっちゃいました。
きつかった~。

僕も、自宅の仏壇で、お箸を立てるのは見た事がなかったです。
大学以降、全国を、旅するようになって、見かけるようになりました。

ご飯と、お汁の置き方や位置は、
確か、仏教とは、関係が無かった気がします。
どちらかというと、マナーの類(たぐい)。
食文化の変化とともに、変わってきたところがあります。

かつて日本も、米といった「主食」は、中央でした。
古今東西、どこの国でも、基本は「主菜が真ん中」。

汁物は、平安末から登場。

それでも、ご飯と並んで出される形になるのに、
時間がかかったと、言われています。

戦国時代の末期、
千利休(せんのりきゅう)が、茶懐石として、
少し盛った御飯、汁椀、その他の一品で、膳を整える作法が確立。

それで、「ご飯は左、汁は右」の形式が、できあがったと言われています。

それが、日本の配膳の基本になっているとか。

でも、結局、今は様々で、色々な意見があって、僕もよくわかりません。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年01月24日 12:54


長かった(*≧▽≦*)

うちは、ありがたいことなのか、
お葬式って、まともにみたことないんですよ。
数年前、父が他界しましたが、
あまりにも、裏方でバタバタしてたもんで、
箸を立てる様子、全く、記憶にないんですわ。
でも、うちの親が嫌っていたのは、

ご飯と、おつゆを、逆に置くことで。
普通、ご飯は左、おつゆは右ですよね。
それを逆に置くと、ほんと、嫌がっていました。

この置き方も、仏壇と関係してるのかな?
うち、ほんと、仏壇事情は、よう~知らんです(^^;;
Posted by す〜み〜☆ at 2011年01月24日 09:36


SUZUさん、こんにちは。

僕の家でも、ご飯に箸を立てると、両親に怒られました。
ただ、お箸を立てたらいけないという民話も理由も、
知りませんでした。

「立(た)て箸(ばし)」の由来なんですが、
昔は、ご飯の炊き方は、強飯(こわめし)と粥(かゆ)で、
強飯だという、しるしのため、箸を立てて出したという説が、あります。

それから、
箸を立てるというのは、
元をたどると、仏さまに出す出し方、正式なご飯の出し方です。

それが、
時代の流れで、食事の形式が変化して、
一方で、仏壇の、お供え物の様式は変わらなかったので、こうなったようです。

そして、ご飯に箸を立てるのは、お供え物の時の、特有の形になったとか。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年01月24日 07:13


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