てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 伝説・歴史・雑学・言い伝え等 › あなたの「ヤンバル」、間違っていませんか?
山原(やんばる/ヤンバル)」について


 みなさまは、「山原(やんばる/ヤンバル)」という言葉で、沖縄本島の、どの(あた)りをイメージなさるでしょうか。

 私は、沖縄の人がこの言葉を使う場合、個人によってかなり使い方に差がある点に、気がつきました。それ以外の人々が使うヤンバルにいたっては、まず壊滅的(かいめつてき)に間違った使われ方をしているのが現状です。

 観光案内はじめ様々(さまざま)な場所で、山原(やんばる)(あやま)って使われているのが実情(じつじょう)です。

 正しくはこうです。
 「山原(やんばる)」という言葉は、「沖縄本島の恩納(おんな/ウンナ)村と金武(きん/チン)町周辺より(きた)の地域を()す言葉」である。

 これは民俗学だけでなく様々な研究をはじめとする学問的認識として正しいと考えられています。より正確に言い直すならば、現在の恩納村や金武町ではなくて、かつての地域を表した「間切(まぎり)」で言うところの、「恩納間切と金武間切より北」が「やんばる」です。

 いつどの時代から使われ出した言葉なのかという点になると(さだ)かではないものの、どうやら近世(きんせい)、つまり、江戸時代の中頃(なかごろ)には一般化してよく使われ始めたようです。その点からすると、琉球沖縄の長い歴史から考えて山原(やんばる)という言葉は他の言葉に比べて歴史が浅いといえます。

 この言葉は地域(ちいき)を指すだけでなく、例えば「山原人(ヤンバルンチュ)」といった言葉の中で使われました。

 なお、文化が低い地域とか田舎といった偏見(へんけん)にみちた意味で使う人もいたようですがそれは明らかな誤りであり、本質的には「北」を指すだけの言葉です。

 他の言葉と同様に、言葉というものは、もつイメージや意味内容が、時代と共に変化しながら多種多様(たしゅたよう)な意味を(ふく)んで出来上がります。この言葉も同様で、「山原(やんばる)」という言葉もまた年月をかけて微妙に変化しつつ定着し、形成された言葉です。

 正しく理解しないで安易(あんい)山原(やんばる)という言葉を使ってしまうと、私も大きな間違いを犯すことにある時、気付きました。この言葉は色々な文献や資料に出てくる言葉であり、聞き取りの際によく使われ、また自分が何かを説明する上でも使う言葉のため、しっかり理解しておかないと民俗学研究を進める上では特に大きな障害になりかねません。そう思った私はその時、(あわ)てて沖縄の図書館に()け込み、あるいはネット検索しながら、手はじめに沖縄本島の「北部」を理解することから調べ始めたのでした。

 ひと通り調べた結果、同じ意味として使われる言葉に、「国頭/国上(くにがみ/クンジャン)」「北部(ほくぶ)」「北山(ほくざん)/山北」「山原(やんばる)(など)といったものが見つかりました。

その中でも、「北山/山北」という言葉は、「三山鼎立(さんざんていりつ)」時代の「北山/山北」です。沖縄本島が、北山と中山と南山の三つの国に分かれていた時代、つまり琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)として沖縄本島が一つに統一(とういつ)される前の時代、三山時代の表記に「北」と「山」の字が現れます。

 地域を三つに区分する言葉が文献(ぶんけん)に登場したのがいつのことかを調べてみると、当時の中国の『明実録(みんじつろく)(1372年)が最初のようで、その中に「中山王(ちゅうざんおう)察度王(さっとおう)」という言葉として、三山の一つ、中山という文字が初めて登場します。

 これ以後、色々な書物に三山(さんざん)それぞれの名が出てくる事から、少なくともこの時代にはすでに沖縄本島には三山という「三つ」の領域(りょういき)区分「山」が存在していたのがわかります。但し、おそらく三山にはそれぞれの地域があるものの、ひとつ一つに厳密な境界線のようなものは恐らくこの当時には無く、また三つの国が治める地域以外に、大小の按司(あじ)が治める地域や、特に誰かの支配がない地域、未開の地など、この時代は色々とあったと思われます。

 いずれにせよ、三山時代に三つの領域区分があったことは、当時の(みん)の国の文字による資料からも明確です。

 そして、この三つの国はやがて中山(ちゅうざん)統一(とういつ)されていったにも(かか)わらず、それ以降(いこう)、現在に(いた)ってもなお、沖縄本島を三つに分ける区分はずっと引き()がれてゆくことになります。ただその過程については、まだ完全に研究し尽くされ、整理されてきてはいない気がします。

 ちなみに「三山」における「」とは「」の事です。ですから、「北山」とは「島の北」、「中山」は「島の真ん中」、「南山」は「島の南」の()です。

 山原(やんばる)という言葉が、沖縄本島の北を示す「北山/山北」からきた言葉である事はほぼ間違いないのですが、この言葉は、首里王府からみて北を指すものとして中世に生まれたのであり、それは少なくとも北部の人々が名付けた言葉でない事は容易に想像できます。なお使われ出したのが中世以降ですから、薩摩による琉球支配の影響が関係するかも知れませんが、その点は定かではありません。というのも「原」の字を「ばる」と発音するのは琉球だけで無く九州全域の地名にも見られるものの、その場合の「原」の意味は沖縄の「山原」に当てはまりません。少なくとも山原の「原」が、平野や稲作の地でないのは確かです。首里からみて中心以外の空間という意味か、草木が芽生えて大地が萌え出す季節「春」が先にやってくる地域の意では無いかと、個人的には考えています。

 なお、「北部」や「山原(やんばる)」が()す地域は、歴史の中で移り変わりました。そこで、現在まで集めた資料を元に整理してみることにしましょう。真実の「山原(やんばる)」や「北部」が何かは、以下に目を通して頂ければわかります。時代によって変化してきた真実の「山原(やんばる)」の姿が理解できるはずです。以下の黄緑色の部分が、時代時代の山原(やんばる)です。時代により、変化しているのがわかると思います。

 一応、自分としては今までにない画期的な試みのつもりです。これで読者であるあなたと私だけが、正しい「山原(やんばる)」をそれなりに理解できるはずなのですから。 







~資料に出てくる「山原(やんばる)



海東諸国記(かいとうしょこくき)(一四七二)の区分
国頭城
○琉球国都
○島尻城


中山世鑑(ちゅうざんせいかん)(一六五〇年編纂)の三区分
○山北王(山北)
羽地、伊江、名護、伊平屋、国頭、金武、(今帰神按司)
○中山王(中山)
~那覇、泊、浦添、北渓、中城、越来、読谷山、具志川、勝連、首里三平等
○山南王(山南)
~佐敷、知念、玉城、具志上、東風平、島尻大里、喜屋武、摩文仁、真壁、兼城、豊見城(十一国)(大里按司)


中山世譜(ちゅうざんせいふ)(一六二四~二五:蔡温本(さいおんぼん)。/一六九七~一七〇一年編纂)の三区分
○山北府(国頭)
九郡(原有五郡。康煕年間。分為九郡) 羽地、今帰仁、本部、名護、大宜味、国頭、久志、金武、恩納
○中山府(中頭)
五州・十一郡(原有八郡。康煕年間。分為島十一郡) 首里、三平等、那覇、泊、西原、浦添、宜野湾、北谷、読谷山、越来、美里、中城、勝連、与那城、具志川
○山南府(島尻)
十五郡(原有十四郡。康煕年間。分為島十五郡) 真和志、南風原、東風平、大里、佐敷、知念、玉城、摩文仁、具志頭、喜屋武、真壁、高嶺、兼城、小禄、豊見城


球陽(きゅうよう)(一七四三~一七四五編纂)の三区分
○国頭(山北王・山北)
羽地、伊江、名護、伊平屋、国頭、金武
○中頭(中山王・中山)
~那覇、泊村、真和志、南風原、西原、浦添、北谷、中城、越来、読谷山、勝連、具志川
○島尻(山南王・山南)
~兼城、真壁、喜屋武、摩文仁、東風平、豊見城、具志頭、玉城、知念、佐敷、東大里


七代官制(~一六六〇)
①首里之平代官
~真和志、南風原、西原
②東代官
~大里、佐敷、知念、玉城
③島尻代官
~具志頭、東風平、摩文仁、喜屋武、真壁、高嶺、豊見城
④浦添代官
~浦添、中城、北谷
⑤越来代官
~越来、読谷山、具志川、勝連
⑥今帰仁代官
羽地、今帰仁、名護、国頭、金武
⑦久米代官
~久米島、慶良間島、粟国島、渡名喜島


琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)(一七一三)による四代官制(一六六〇~一七二八)
①国頭方代官
(主取一員、筆者四人) 羽地、今帰仁、本部、伊江、名護、伊平屋、大宜味、国頭、久志、金武、恩納等十四間切(まぎり)
②中頭方代官
(主取一員、筆者四人) 西原、浦添、宜野湾、中城、北谷、読谷山、越来、美里、具志川、勝連、与那城等十一間切(まぎり)
③島尻方代官
(主取一員、筆者四人) 真和志、南風原、大里、知念、玉城、東風平、具志頭、真壁、喜屋武、高嶺、小禄、豊見城、摩文仁、佐敷等十五間切(まぎり)
④久米方代官
~久米、慶良間、粟国、渡名喜等四島間切(まぎり)


「国中併諸離里積之事」
御当国御高並諸上納里積記(おんとうこく おんたか ならびに しょじょうのう りせきき)(一六〇九~一八六八まで使用された石高検地)の三区分

○国頭方
羽地、今帰仁、本部、名護、大宜味、国頭、久志、金武、恩納などの間切(まぎり)
○中頭方
~浦添、北谷、読谷山、西原、宜野湾、美里、越来、中城、勝連、与那城、具志川などの間切(まぎり)
○島尻方
~真和志、小禄、豊見城、高嶺、真壁、摩文仁、具志頭、玉城、知念、佐敷、大里、南風原、喜屋武、東風平などの間切(まぎり)







 最後に、この記事とは直接、関係がない余談(よだん)を付け加えておきます。それは自分にとって謎だった事に関する、個人的意見にすぎませんが。

 沖縄本島を統一(とういつ)して琉球國を建国(けんこく)した尚巴志(しょうはし)は、佐敷(さしき)から出発して、まず南部の東側(ひがしがわ)手中(しゅちゅう)(おさ)めます。しかしそのまま残った半分の南部を制圧(せいあつ)せず、次に中部(ちゅうぶ)を制圧します。

 そして次に、北部を攻略(こうりゃく)してから、最後に残った南部を制圧して統一国家を樹立(じゅりつ)します。

 さて、以上の順序に、みなさんはどこか違和感(いわかん)を感じないでしょうか。この事は、沖縄に関するあらゆる本に書いてあることですが、問題は、なぜ先に、南部全体を制圧しなかったのかという事です。

 特に、中部を制圧して北部を攻める前に、例え不可侵条約を結んだとしても残った南部を押さえておかないと、背後(はいご)から攻められたり、南部の自分の領地を取られてしまう危険があります(※不可侵条約を結んだかどうかはわからないが、そもそも三山時代、中山と南山は仲が良い)

 戦国のセオリーに反したこの歴史的事実は、初めてこのあたりの歴史を学ぶ者にとっては、非常に違和感を感じるところです。

 私も例に(たが)わず机に向かって本を読んでいた時は、その理由を色々と推理してみたものの、仮説を立ててもすべて行き()まりました。

 しかしながら、尚巴志(しょうはし)が南部の半分を(おさ)めた(ぐすく)の頂上に、自分の足で実際に立ってみたところ、謎は解け(た気がし) ました。

 なぜなら、向こうの山に首里城が見えるばかりか、中山の地域が目の前に広がっていたからです。その時代にはまだ首里城は無く、浦添が中山の中心です。それでも尚巴志が立ったその場所は、まさに中山を攻めるには絶好の場所であり、万が一、中山攻略に失敗して戻った際、つまり中山の敵が攻めて来た場合、城から眼下が丸見えで敵から防御しやすく、また攻めやすいのです。また南山以上に中山の価値を尚巴志がわかっていた証拠といえます。

 このことは今まで指摘(してき)した人は殆どいないため、私の(ひそ)かな発見です。

 いずれにせよ、尚巴志の野望が中山に向いたのは至極(しごく)当然の事だと、島添大里城に立つとそう思えるのであり、その考えはあくまで私の仮説ではあるものの、同じ光景を見ながら尚巴志になったつもりで考えれば、ほぼ間違いないだろうと思われます。

 すると尚巴志は、もしかすると南山を取られ、さらに後ろから攻められるかもしれないリスクを計算に入れた上で中山を攻める事を決断したのではないかというのが私の仮説です。あくまで個人的な意見に過ぎませんが。またこの計画を実行するのによい時期でもありました。というのもこの時期、南山王統の各地域は実に不安定な状態にありました。だからこそ、それに乗じて尚巴志は南山の東側を攻略できたのであり、それを足場に見事に中山を制圧しますが、これは大変な歴史的偉業です。琉球國を建国して琉球を統一し、第一尚氏王統を成立させた尚巴志の偉業こそが、琉球沖縄の歴史において最大の偉業であることに間違いはありません。真に琉球時代を築いて平和をもたらしたのは尚巴志、その人です。

 にも関わらず、未だ尚巴志の功績が足蹴にされ、闇に葬られたままです。一日も早く、正しい歴史がひのめを見る日が来ることを、心から願ってやみません。

 以上、お読み頂きまして、ありがとうございました。感謝。




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春緒うるま様、コメントありがとうございます。

三山の、当時の中国、つまり明国への朝貢は文書が残っているので確かな事です。秦国はBC221-207なので、日本は弥生時代の後期に当たるでしょうか。因みに、明国はAC1368-1644ですので、秦は誤りで明だと考えられます。

北琉球方言と南琉球方言との間では全く会話が通じないは、存じませんでした。調べてみます。

メッセージとご意見、ありがとうございました。
いっぺー、にふぇーでーびる。
Posted by 横浜のトシ横浜のトシ at 2021年05月07日 05:23


 確かに秦への朝貢は3山の特権でした。それで、中山の権利を得たいと考えたと思われる。南山はご存知のような状況、結局は南と中は地理的にも近いし言語も似ている。そして(ウイきぺリア)琉球語(琉球方言)は、北琉球(奄美群島・沖縄諸島)と南琉球(先島諸島)の2つに大別でき、北琉球方言と南琉球方言との間では全く会話が通じない。
 はい、ヤンバルは異国語を使うと理解してたかも知っれない。
話しを戻すと、秦への朝貢の権利が先になると思う。南山は身内みたいなものになってるからね。尚巴志のあとは中山も同じで南山支店と言えば怒る方もいらっしゃると思う。
 北山を攻めたのが関ケ原の合戦と同じ。大きな勢力図は決まった。そこで身内の争いを鎮める、大阪の陣ですね。すっきり、しないですか。3山統一は北山攻めで終わってるはず。
Posted by 春緒うるま春緒うるま at 2021年05月06日 23:25


石原昌光さま、コメントありがとうございます。

八重瀬按司と、承察度を中心とする勢力に分かれていたという説は、存じませんでした。
教えて下さって、感謝します。

ただ、南山は、古くなればなるほど、色々な時代、色々な場所に按司がいて、難しくて、私にはさっぱりです。

もちろん、それだけに、面白いわけですが。

南山系統と尚巴志の関係が良好であったというのは、私も同感です。私は、歴史ではなくて、民俗学(民話)が専門ですので、目下の所は、第一尚氏や、第2尚氏の、出自です。

一般的に考えられているのは、作られた歴史の気がしています。

いずれにしても、歴史に夢をはせるのは、楽しいですね。

コメント、ありがとうございました。
また、勉強になりました。感謝。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2013年04月19日 22:55


管理人様、こんにちは

なんちゃって琉球歴史家の石原と申します。

尚巴志が、どうして、南山を先に攻め滅ぼさなかったかについての視点は実地を踏んだ方の意見として、凄く新鮮でした。

最近の説ですが、南山は、最初から、八重瀬按司を中心とする勢力と、承察度を中心とする勢力に分かれていたという説もあります。

日本の戦国武将、齊藤道三のように、新興の八重瀬按司系統は、古株の承察度系統の力を除々にしのぎ、最期には、尚巴志と協力して、最期の南山王、温沙道を滅ぼしたのではないかと考えています。
それが、南山の北半分の大里城を尚巴志が落とした戦いになります。

その関係で、八重瀬按司の南山系統と尚巴志の関係は良好で、尚巴志は後顧の憂いなく、まず、中山を滅ぼしてから、北山攻略に向かったのではないでしょうか?

南山は、尚巴志の船に便乗して、一緒に朝貢を行ったりと一時期、非常に関係が親密な時もありますので、あり得なくはない話だと思います。
そして、北山を攻略した、尚巴志は、用が無くなった、八重瀬按司系の南山を一気に攻略してしまったのではないでしょうか。
Posted by 石原昌光 at 2013年04月01日 13:33


ルミさん、はいさい、今日拝なびら。

僕も、研究上は恩納村より上、生活面では本部・名護・今帰仁より上の森、
という感覚を、今まで持ってきました。

ところが、民話だとよく、どの辺かと迷う事が今までにあって、
先日、調べ始めたら、以外に歴史がない言葉である事と、
一向に、答えが見つからず、今回、沖縄の図書館や博物館に通って、
答えとはいえないまでも、やっと、何とか、それらしい答えを、出せるまでに。

オリブ山病院ですが、以前、夏の炎天下、首里から歩いてエライ目に遭いました。
しかも、手前から斜面の道を登ったら、横まで行かれるのに敷地内に入れない。
延々、来た道を戻って、再び病院へ。

バイクで前や、近くを通る度に、あの悪夢を思い出します(笑)。

さすがに、映画を撮影した時の面影は、ありませんでしたが、
それでも、映画のシーンを、無理に目の前の風景と重ね合わせて、
苦労しただけに、感無量でした。

映画『ホテル・ハイビスカス』は、1シーンを除いて、完璧に探し当てましたが、
男はつらいよは、そこまでは、探しておりません。
ただ柴又の、とらや=高木屋で草団子を買って、帝釈天でお参りをして、
裏の、寅さん記念館を見て、ふと上にあがったら、そこは荒川土手で、
草団子を食べながら、感動しました。

いつもコメント、いっぺー、にふぇーでーびる。m(_ _)m
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2013年03月28日 00:06


横浜のtoshiさん
こんばんは

『山原』やんばる…

私も恩納村辺りより北側と 思っていました。

以前 友人がもっと北側からを『山原』と言っていたので、

あれ~?私、間違っている?と思っていました。


『山原』 って 奥深い(いろんな意味で(笑))
んですね

ところで、
寅さんシリーズの

沖縄の病院は今のオリブ山病院 なんですか。

母が3年前にしばらく入院していた病院で、ビックリしました。

撮影の時は たくさんの見物人で大変だったでしょうね…。

それと、
オリブ山病院って山が付ますが、山はありません(笑)
(山の中にある病院かと思ってました)


『山原』って
緑の深い 癒やされるイメージがあります。
toshiさんが
山原を黄緑色で色分けしたのが、
嬉しいです(笑)


勉強になりました。ありがとうございます
Posted by ルミ at 2013年03月27日 20:40


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