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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第2話
琉球の綱挽
一七一三年、尚敬王時代、旧記由来寄奉行で、琉球国の各間切からの報告書による『琉球國由来記』が完成し、その「巻四」に、綱引きについてこう書かれている。
綱引きは、「唐では魅河と称す。」と。
当国(※琉球國)では、何時の時代から始まったのかは判らないけれども、それは日本や支那(※中国)にもあり、大通りの真ん中で綱を引き、勇気と力を競う行事である。これは国中に疫病が流行った時に、疫病を追い払うための祈願でもあった。
綱引きは、例えば日本の東北地方では正月十五日(※以下もすべて旧暦)の行事であり、また九州南部では八月の十五夜に行われている。
琉球では、「二十日正月」というのがあり、辻町の尾類馬行列と一緒に行われ、戦前までは年中行事の一つになっていた。戦後、尾類馬は復活したが、しばらく綱引きは見られなかった。(※沖縄の村々で、綱引きが年中行事として行われたのは、かつて六月二十五日であったが、現在では、与那原、糸満や、先島方面の一部でしか行われていない。) 綱引きの起源について、その一説は、こうある。
島尻郡東風平間切の富盛村で、毎年、稲が害虫に蝕まれて不作が続いた。これはきっと神の祟りであると村人達は相談し合って、祈願の余興として綱を引き、またその綱を川に流して虫払いを行ったところ、その翌年からは豊作だったと伝わる。
南風原間切津嘉山村では、村が双方に分かれて豊作の勝負をしたところ、どちらも豊作で、勝敗がつかなかったため、そこで互いの藁を全部出し、それで綱を綯って、綱引きで勝ち負けを決めたのがその始まりであると伝わる。
二十日正月の綱引きは、中島と辻が双方に分かれ、東渡地は中島の加勢、西渡地は辻の加勢をし、また辻は貴婦人出の遊女姉妹が、中島は仲村梁が指揮して、商売繁昌の祈願の余興として行われたのがその始まりと伝わる。
※注や解説
【綱挽】~綱挽き、綱引、綱引き。「挽」の字は、力を込めて引っ張る意。大綱挽はじめ、琉球王朝時代から琉球沖縄では「挽」の字が慣習として使われたが、それは巨大な綱が地面を往復し、摩擦を起こす様子からだと言われている。
【尚敬王】~一七〇〇年八月三日(康熙三十九年六月十九日)~ 一七五二年三月十四日(乾隆十七年一月二十九日)。(※在位は一七一三年~一七五二年)。琉球國第二尚氏王統第十三代国王。蔡温を三司官にして多くの改革を実施。
【琉球國由来記】~『琉球國由来記』は『おもろさうし』などと並ぶ、琉球の研究や琉球を知る上で必須の資料の一つ。近世になり、琉球國は、国家組織の再編と強化に並行して国の歴史や地誌に関する記録が整備され、琉球国家としての意識が高まった。首里王府の命により、琉球國正史として『中山世鑑』『中山世譜』『球陽』が編纂される一方で、地誌として『琉球國由来記』が編纂された。琉球國に関する最古の体系的な地誌資料といえる。一七〇三年、琉球の旧記由来を正す目的で、王府に旧記座が置かれて、琉球の各地の旧記や由来記が収集される。それらの資料に基づいて、旧記由来寄奉行と中取(※奉行の補佐役)が編纂を行い、一七一三年、尚敬王即位年に「琉球國由来記二十一巻」が完成。
【東風平】~東風平の以前の発音は「くちんだ」など。
【富盛】~富盛の以前の発音は「とぅむい」など。
【南風原】~南風原の以前の発音は「ふぇーばる」など。
【津嘉山】~津嘉山の以前の発音は「つぃかざん/ちかじゃん」など。
【綱を綯って】「綱を綯う」とは、綱の作り方の一つ。綱の作り方には何種類かあり、その地域によって作り方に伝統や地域性がみられる。「綯う」とは、何本かをを一つにねじり合わせること。
【渡地】~遊郭があったことでも知られる、辻、仲島、渡地の三島は、渡地が東と西、辻と仲島はその中に三つの村があり、前を「めーんだかり」、真中を「なかんだかり」、後を「うーくんだかり」といった。
※「那覇」~本来、狭義で「那覇」は那覇湾に浮かぶ離島の「浮島」を指した。十五世紀の中頃、第一尚氏の尚金福の時代に、海中道路長虹堤を築いたため陸地と島は繋がった。当初は浮島を西と東に分け、後に辻、若狭、東村、西村といった村全体を那覇といった。また中国(※福建)から渡来し帰化した人々の集落である「久米村」も浮島にあったが、浮島時代の旧那覇には含まれず、他とは別格の扱いの村だった。明治以降は、浮島にあった全ての集落である、久米、辻、若狭、東、西、そして対岸の陸地の泉崎など一帯を指して那覇といわれるようになり、この地域が戦前までの那覇(※旧那覇市)の中心地として栄えた。
※「沖縄の綱引き」~沖縄の綱引きは、殆どが集落単位で行われ、現在は百箇所以上で行われているという。開催時期は、旧暦の六〜八月が多い。その中で最も集中するのは、旧暦六月十五日前後の「ウマチー綱(※稲粟の収穫祭)」、二十五日前後の「年浴綱」(※苗代始め、雨の祈願祭)、七月の「盆綱」、八月十~十五日前後の「十五夜綱」。これらに加えて、旱魃の際に「雨乞い綱」が臨時的に催される場合があった。綱の素材は、ほとんどが稲の藁であるが、宮古島のように山の蔓草で作る所もあり、それは全国的に珍しい。年に一度の実施が多いが、中には七年、又は十二年に一度の地域や、一年に二回以上行う地域などいろいろ。現在の目的は、昔とは異なり娯楽に重きが置かれるようになったものの、それでも一年を占う目的、邪鬼を祓う目的、雨乞いの目的をもっていることにかわりはない。沖縄の綱は、二本の綱を結合する場合が多いが、そうでないものとしては、蛇をかたどった一本の綱を担いで村の中を回る例もある。なお「沖縄の三大綱引き」といわれるのは、「与那原大綱曳・真栄里の綱曳き・那覇大綱挽」。
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スーさん。私も御主人の気持ち、とってもよくわかります。
父が自営業で、母が書家で、忙しかったですから。
結局、さいごは人が大切で、もちろん人は、中身が大切。
すべては、それ以外のことです。
残る人生を、どう生きるか、まあ、楽しみましょう。
ではでは。(^^)/

横浜のtoshiさんへ♪
今晩は。お返事ありがとうございます(^^)
すみません、私は大綱引きに1度も参加したことがありません。
ごめんなさい~!(でも、いつか参加したいぃ~!・(笑))
10月10日は別のイベントで毎年、帰省していました。
主人のご実家は祖父母が亡くなってから、正月の餅つき会が無くなり、またクリスマス、お誕生などのイベントごとをしない(自営業で多忙で義父母に余裕が無かったようです。)ご家庭なので、てっきり、主人もその気風かと私が勝手に勘違いしていました。
主人が子供時代に祝ってもらえなかった事がやはり、子供心に”我慢”だったのでしょう。
ささやかですが、手作りのケーキで主人のお誕生日とバレンタインデーを優先しています(^^)

スーさん、こんにちは。
細かい事情がわからないので、なんともコメントのしようがありませんが、
論理的に考えると、
大綱引きに参加した事と、ご主人との誕生日は、
直接の関連が無い気がします。
ご主人が憤慨なさったのは、
綱引きに参加した事自体が直接の原因ではなくて、
参加の仕方において、憤慨するような事があった、
あるいは、
参加する事に関わる、
他に、何か憤慨するような事が、きっとあったからこそ、
憤慨なさったのだと推察できますが、いかがでしょうか。

横浜のtoshiさんへ
こんばんは。ご無沙汰ですみません。
綱引きの起源、大変興味深く拝見させて頂きました。
ありがとうございます。
ちなみに、10月の那覇市の大綱引きですが、主人の誕生日を横目に参加。でも、主人はそのことに賛成と思いきゃ、かなり憤慨していたようで・・・。
あ~ぁ。((笑)
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