てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 伝説・歴史・雑学・言い伝え等 › 新「位階」入門~琉球沖縄の身分制度について
 はいさい、今日(ちゅう)(うが)なびら。
 今回は少し(むず)かしい内容のため、お時間があってお読みになる方でも、流し読みをお(すす)めします。そして、今後、話の内容に関わる事柄(ことがら)にもし出会った際に、この記事を思い出してその部分は再び読んで(いただ)けると、(さいわい)いです。
 なお、長年の位階(いかい)に関するメモを羅列(られる)したものなのでまだ整理できていないことを、最初におことわりしておきます。







~琉球沖縄を知ろう~


琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)身分制(みぶんせい)位階(いかい)について


 琉球國(りゅうきゅうこく)行政(ぎょうせい)は、(ふた)つの行政単位(ぎょうせいたんい)である、「町方(まちほう)」と「田舎方(いなかほう)」に()けて、次第(しだい)(ととの)えられてゆきました。

 「町方(まちほう)」とは、特別行政(とくべつぎょうせい)地域(ちいき)のことで、具体的(ぐたいてき)には、首里(しゅり)那覇(なは)(とまり)久米(くめ)の四つでした。

 「田舎方(いなかほう)」とは、「(むら/そん)」や「シマ」がいくつか(あつ)まった地域(ちいき)である「間切(まぎり)」を単位(たんい)としていました。

 1609(ねん)琉球國(りゅうきゅうこく)は、薩摩(さつま)島津藩(しまづはん)()められて管理下(かんりか)()かれることになります。この(とき)から身分(みぶん)は、より明確(めいかく)制度化(せいどか)されてゆく(こと)になります。つまり王族(おうぞく)士族(しぞく)按司(あじ)といった士族階級(しぞくかいきゅう)人々(ひとびと)と、それ以外(いがい)人々(ひとびと)に、はっきり(ふた)つに()けられたのでした。それが「(さむれー)」と「百姓(ひゃくせい)」です(※日本では、士・農・工・商の四つの身分でしたが、琉球は二つで、士と(上級士族と一般士族)、それ以外(農・工・商など)に分けられ(王族は別扱い)、それは廃藩置県まで続きます。すでにあった琉球の位階制度の基本は、第二尚氏王統第三代尚眞王(しょうしんおう)に整えられました。その(おも)な目的は中央集権体制を確立するためで、刀狩りを実施(じっし)し、地方の豪族(ごうぞく)を首里に住まわせて位階を与えるのが目的(もくてき)でした)
 
 「(さむれー)」とは、琉球國(りゅうきゅうこく)行政(ぎょうせい)(にな)人々(ひとびと)のことで、上級士族(じょうきゅうしぞく)下司(ぎし)(※「ゆかっちゅ」はあくまで俗な言い方)と、一般士族(いっぱんしぞく)「ぶんにん」を、()わせて「(さむれー)」といいます。

 なお「(さむれー)」は「町方(まちほう)」に()み、平民(へいみん)である「百姓(ひゃくせい)」は「田舎方(いなかほう)」に()むのが原則(げんそく)でした。

 やがて、 康煕(こうき)28年尚貞王(しょうていおう)21年/1689年)、王府は「系図座(けいずざ)」を設置(せっち)し、系図奉行(けいずぶぎょう)新設(しんせつ)します。

 これによって士族層(しぞくそう)の「(さむれー)」は、自分達(じぶんたち)各々(おのおの)系図(けいず)である「家譜(かふ)」を、(かなら)編纂(へんさん)しなければならなくなりました(沖縄の士族出身(しゅっしん)の方の場合、自分の家系を辿(たど)りやすいのはこのためです)

 このことによって、人々(ひとびと)は、「系図(けいず)をもつ(もの)」=「系持(けいもち)」=「(さむれー)」と、「系図(けいず)をもたない(もの)」=「無系(むけい)」=「百姓(ひゃくせい)」に()けられて、身分(みぶん)制度(せいど)がより明確(めいかく)確定(かくてい)されたといえます。また、身分(みぶん)によって、屋敷(やしき)(おお)きさを(はじ)めとして着物(きもの)(がら)から衣食住(いしょくじゅう)(すべ)てにわたって、はっきりと差別化(さべつか)(はか)られました。百姓(ひゃくせい)()(もの)()くことを(ゆる)されず()(もの)鼻緒(はなお)の場合、大名は革、士は練緒(竹の皮か藺)、百姓や奉公人は草履だけは許されたものの下駄は禁止で、日常的には百姓は裸足(はだし)だった)、やがて瓦葺(かわらぶ)きの(いえ)普及(ふきゅう)するようになっても百姓(ひゃくせい)(ゆる)されず、茅葺(かやぶ)きのままでした。

 琉球時代(りゅうきゅうじだい)実際(じっさい)(くに)構成員(こうせいいん)大半(たいはん)である一般(いっぱん)人々(ひとびと)百姓(ひゃくせい)」は、一生(いっしょう)名前(なまえ)童名(わらびな)だけの()()てでした(※(いま)沖縄(おきなわ)言葉(ことば)には農業(のうぎょう)従事(じゅうじ)する(ひと)を「畑人/畠人(はるさー)」といったりしますが、それとここでの「百姓(ひゃくせい)」はまったく(こと)なります。そもそも江戸時代までは日本本土でも「百姓」を「ひゃくせい」と発音し、苗字(みょうじ)を持たない一般庶民(平民)という意味(いみ)でした。琉球(りゅうきゅう)同様(どうよう)です。なお童名(わらびな)は子どもの時につけられる()で、一生(いっしょう)()であり、士族(しぞく)などの場合はいくつかある名前のうちの一つでした)

 「百姓(ひゃくせい)」の(なか)で、首里・那覇・久米(そん)・泊(そん)()(もの)を「町百姓(まちひゃくせい)」、それ以外(いがい)を「田舎百姓(いなかひゃくせい)」、また地方百姓(ちほうひゃくせい)のうち役人(やくにん)()()てられた(もの)を「筆算人(ふぃっさんにん)」といい、(おお)くの一般庶民(いっぱんしょみん)人々(ひとびと)、つまり平民(へいみん)である「百姓(ひゃくせい)」は、系図(けいず)()たないため「無系(むけい)」とも()ばれて、真鍮(しんちゅう)(かんざし/じーふぁー)を髪に()しました。

 平民(へいみん)の身分の中に、地方官吏(かんり)(しょく)である「地方役人(じかたやくにん)」という(くらい)がありました。その「地方役人(じかたやくにん)」は、「間切役人」と「村役人」の二つに()かれていましたが、実際(じっさい)には地域によって、役人制度と内容は(こと)なっていました。

 また先に()れた「筆算人(ふぃっさんにん)」や、「オエカ人(※「オエカ」は役職の意)」もいました。「地方役人(じかたやくにん)」でも上級(じょうきゅう)役人になると、「オエカ地(※「役地、役職に応じて与えられる土地)」が(あた)えられて、王府への上納分(じょうのうぶん)以外は、自分の()(ぶん)となりました。

 その他にも、夫地頭(ぶじとう/ぶーじとぅー)という(くらい)になると、村の百姓を年2回使役(しえき)できるといった様々な特権があり、中間搾取(さくしゅ)や地位を乱用する悪徳役人を多く生み出す温床(おんしょう)となりました。なお方言の財産家(うぇーき/ウェーキ)の語源はここから()ています。

 「地方役人(じかたやくにん)」の実際の位階(いかい)は、上から、「地頭代(じとうだい/じとぅでー)」、「夫地頭(ぶじとう/ぶーじとぅー)」、「捌理(さばくり/さばくい)」、「文子(てぃくぐ)」でした。

 「地頭代(じとうだい/じとぅでー)」は平民(へいみん)でありながら、間切(まぎり)行政(ぎょうせい)の責任者であり、現代の村長に相当します。親雲上(ペーチン/ペークミー)称号(しょうごう)を許され、黄冠(こうかん)(かぶ)り、銀の(かんざし/じーふぁー)()しました。

 「地頭代(じとうだい/じとぅでー)」は地頭(領主)の代官で補佐役です。間切(まぎり)の番所の最高の役で、行政(ぎょうせい)監理(かんり)する役目を(にな)いました。

 「捌理(さばくり/さばくい)」ですが、具体的には「首里大屋子(しゅいうふやく)」「大掟(うふうっち)」「南風(ふぇーうっち)」「西掟(にしうっち)」の四人を()します。

 「文子(てぃくぐ)」は間切(まぎり)の下級役人で、階級や職種によって色々(いろいろ)であり、大文子、島文子、相附(あいつけ)文子、脇文子、若文子、見習文子(など)()んだ(くらい)がありました。

 ところで、「町方(まちほう)」に()むのは士族層(しぞくそう)(さむれー)原則(げんそく)ではあるものの、実際には(さむれー)(ほか)にも色々(いろいろ)人々(ひとびと)がたくさん()んでいました。例えば、豆腐(とうふ)(さけ)をつくる様々(さまざま)専門職(せんもんしょく)人々(ひとびと)海洋国家(かいようこっか)である琉球國(りゅうきゅうこく)には()かせない船頭(せんどう)水夫(すいふ)港湾労働(こうわんろうどう)従事(じゅうじ)する「町百姓(まちひゃくせい)」と()ばれる階層(かいそう)人々(ひとびと)(など)です。

 なお、町百姓(まちひゃくせい)(なか)には金持(かねも)ちになり、王府(おうふ)献金(けんきん)して士族(しぞく)になる「買い士(こーいざむれー)」も(あらわ)れるようになります。

 さて、「系図座(けいずざ)」が設置(せっち)されてから士族層(しぞくそう)の「(さむれー)」は、五年(ごねん)一度(いちど)(いえ)()男子(だんし)である嫡子(ちゃくし)中心(ちゅうしん)に、家族(かぞく)戸籍(こせき)である「成系図(せいけいず)」と、履歴(りれき)である「紀録(きろく)(など)()()して(しる)してゆく「仕次(しつぎ)(書き継ぎ)」の作成(さくせい)義務(ぎむ)づけられます。そして、これらを系図座(けいずざ)提出(ていしゅつ)して(はじ)めて承認(しょうにん)され、「家譜(かふ)」に記載(きさい)することが許可(きょか)されたのでした。つまり「成系図(せいけいず)」と「紀録(きろく)」を()わせたものが「家譜(かふ)」と呼ばれるものです。

 「(さむれー)」は、「町方(まちほう)」である首里(しゅり)那覇(なは)(とまり)久米(くめ)居住(きょじゅう)し、「家譜(かふ)」を二部(にぶ)(つく)って提出(ていしゅつ)します。(ひと)つは、王府(おうふ)承認印(しょうにんいん)である「御朱印(ごしゅいん)」が()されて(もど)されます。もう(ひと)つは、系図座(けいずざ)保管(ほかん)されたのでした。

 家譜(かふ)(つく)られる過程(かてい)について、もう(すこ)しだけ(こま)かく()れておく(こと)にしましょう。

 ()ずは、下書(したが)きである「家譜(かふ)組立(くみたて)」を作成(さくせい)します。(いえ)初代(しょだい)から組立(くみた)ての当事者(とうじしゃ)、つまり提出者(ていしゅつしゃ)までの系譜(けいふ)作成(さくせい)して、それを系図座(けいずざ)提出(ていしゅつ)します。

 系図座(けいずざ)は、この下書(したが)きを点検(てんけん)して、記述(きじゅつ)(あやま)りや、不適切(ふてきせつ)部分(ぶぶん)を、朱筆(しゅひつ)添削(てんさく)します。そして、審査済(しんさず)みを(あらわ)す「系紀之印(けいきのいん)」を、(かく)記事(きじ)ごとに()して、提出者(ていしゅつしゃ)返却(へんきゃく)します。

 提出者(ていしゅつしゃ)は、この「家譜(かふ)組立(くみたて)」を(もと)にして、「家譜(かふ)」を二部(にぶ)(つく)って提出(ていしゅつ)しました。

 「(さむれー)」の階級(かいきゅう)(あらわ)位階(いかい)についても、もう少し()れておく事にします。

 (おお)きく(みっ)つに()けられていました。そしてそれは、「はちまき」の(いろ)によっても区別(くべつ)されていました。(うえ)から「紫冠(しかん)」・「黄冠(こうかん)」・「赤冠(せっかん)」の(じゅん)です。

 「(さむれー)」は元服(げんぷく)すると()ず「片髪結(かたかしらゆ)い」して、「()」または「仁屋(にや)」という(くらい)になります。「()」は譜代(ふだい)で、「仁屋(にや)」は新参(しんざん)でした。

 その()(くらい)()がると(はじ)めて鉢巻(はちまき)(かんむり)(かぶ)ります。

 最初の「赤冠(せっかん)」は、「里之子(さとぬし)()なのか、「筑登之(ちくどぅん)()なのかで、に()けられました。つまり、家柄(いえがら)筋目(すじめ)」の(ちが)いにより、赤冠(せっかん)でも「里之子(さとぬし)」と「筑登之(ちくどぅん)」に()かれます。

 (くらい)()がって、「黄冠(こうかん)」になると、「里之子(さとぬし)親雲上(ぺーちん)」・「筑登之(ちくどぅん)親雲上(ぺーちん)」になります。そして、地頭所(じとうしょ)(たまわ)るようになると「里之子(さとぬし)筑登之(ちくどぅん)」がとれて、「親雲上(ぺーくーみ)」になります。

 ここから、「親雲上」という()()みに、「ぺーちん」と「ぺーくーみ」のニつの場合(ばあい)がある理由(りゆう)がよくわかると(おも)います。

 そして一握(ひとにぎ)りの(ひと)だけ、(くらい)()がって、紫冠(しかん)(かぶ)る「親方(うぇーかた)」になりました。

 この親方(うぇーかた)(なか)でも最高職(さいこうしょく)が「三司官(さんしかん)」で、「(さむれー)」としては最上(さいじょう)(くらい)であるとともに、行政(ぎょうせい)最高責任者(さいこうせきにんしゃ)でした。

 ところで、「(さむれー)」に男子(だんし)()まれない場合(ばあい)、どうしたのでしょうか。その(とき)は、養子縁組(ようしえんぐみ)をして、首里王府(しゅりおうふ)役所(やくしょ)である「大與座(おおくみざ)」という戸籍担当(こせきたんとう)部署(ぶしょ)に、「口上覚(こうじょうおぼえ)」を(とど)()ました。これが承認(しょうにん)されると正式(せいしき)養子縁組(ようしえんぐみ)成立(せいりつ)しました。

 また、徳川時代(とくがわじだい)の本土と同様(どうよう)に、近世(きんせい)琉球(りゅうきゅう)でも、男子(だんし)()まれた(とき)女子(じょし)として(とど)()ることがよくありました。

 その理由(りゆう)は、男子(だんし)死亡率(しぼうりつ)(たか)かったためです。死亡率(しぼうりつ)(ひく)女子(じょし)として(とど)()ることにより、疱疹(ほうしん)流行病(りゅうこうびょう)鬼物(おにもの)などから(まも)るという意味(いみ)がありました。

 なお、「大名(でーみょー)」という()(かた)がありますが、琉球(りゅうきゅう)での「大名(でーみょー)」とは、王族(おうぞく)上級(じょうきゅう)士族(しぞく)()します。称号(しょうごう)でいうと、王子(おうじ)按司(あじ)親方(うぇーかた)()しました。


 以上(いじょう)は、民話(みんわ)にも(かか)わることでもあり、この週末(しゅうまつ)沖縄(おきなわ)調(しら)べてまとめた一部(いちぶ)です。

 かなり(むず)かしく複雑な内容(ないよう)ですが、(なん)となく(なが)し読みして概要(がいよう)()っておくと、今後、琉球の事が色々(いろいろ)と深くまで(わか)り出す糸口(いとぐち)になる可能性(かのうせい)があります。

 なにより沖縄(おきなわ)方々(かたがた)のために、そして沖繩をよく知りたい方々(かたがた)のために、(すこ)しでもお(やく)()てたらと(おも)い、そして自分の頭の中を整理するためにも()いてみましたが、如何(いかが)だったでしょうか。

 最後までお読み頂いた方には、ご褒美を差し上げましょうかね〜。



Posted by 横浜のtoshi


※なお、上記の話とは別に、琉球の位階は細かく分かれていました。そのイメージだけでもつかんで頂くべく、参考まで表を添付しておきます。(元のコピー原稿の解像度が悪くてすみません)

新「位階」入門~琉球沖縄の身分制度について


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ルミさん、こんにちは。

門中制度に、一石を投じる意味もあって、書いてみました。
長年のメモは、付け足してきたのでまとまりがなく、すみません。

人間の中には、歳をとると特に、
沖縄人だけでなく、日本全国の人の傾向として、
自分の祖先を調べたいという気持ちが、強くなる人がいるようです。

それは決して悪い事ではないのですが、
ありがちなのが、自分の氏、素性が、由緒ある血筋と、決まっています。

ただ封建時代、一般庶民に名字などないのです。

もちろん、今の時代は民主主義でもあり、
一族、血族より、個人個人がより重視される時代です。

一方、田舎や沖縄などは、まだまだ一族に縛られるケースが少なくなく、
それも150数年のうちに起こった慣習に過ぎないのです。

先祖を敬って大切にする事と、財産相続や決まり事を執り行うことが、
まだまだ分離できない事は沖縄の足かせになり続けないといいのですが。
Posted by 横浜のトシ(toshi)横浜のトシ(toshi) at 2017年07月31日 06:57


横浜の toshiさん、こんばんは♪

琉球沖縄の身分制度 「位階 」 について、こんなに詳しく

丁寧に教えていただき ありがとうございました。



我が家のルーツは?

今の時代で良かった~と思ってしまいました(笑)
Posted by ルミルミ at 2017年07月25日 22:30


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