察度王 ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第80話。
察度王
むかし昔のお話です。
奥間子という人が、おりました。
ある日のことです。畑から帰ってきて、森の川で、手足を洗っていたところ、見たこともない美しい着物が木に掛かっていました。
奥間子が思うには、
「不思議なことだ。こんなにも美しい着物を着る人がこの辺り住んでいるとは考えられないが、一体、誰が置き忘れたのだろう。」と。
その珍しい着物を家に持ち帰って家宝にしようと思いました。そして家に着くと、大切に倉の中に隠しました。
さてその頃、森の川では、女の人が水浴びを終えて川から上がってみると、木に掛けておいた自分の羽衣が、なくなっています。
「まあ、何てことでしょう。私の飛衣がなくなっている。」と、女性は腰が抜けるほどの衝撃を受けたのは言うまでもなく、その場に立ち竦んで、しくしくと泣きました。
するとそこを再び通り掛かった奥間子が、泣き声を聞きつけやって来て、尋ねることには、
「あなたは、何が悲しくて、そんなに泣いていらっしゃるのですか。」と。そう、声を掛けました。
その問いに答えて女性が言うことには、
「私が水浴びしている間、この木に掛けておいた着物が、なくなってしまったのです。着て帰る服もなく、一体、どうしたらよいか、途方に暮れているところです。」と。
すると奥間が言うことには、
「それはそれは、大変な目に遭われました。
ところで私の家は直ぐ近くですから、家までまいりましょう。取り敢えず、私のバサー(※芭蕉布で作った粗末な着物ですが、お貸しします。」と。
そう言うと、奥間は女性を家に連れ帰り、着物を貸してあげたのでした。
しかし女性は天女であったため、羽衣がなくては天に戻れません。
奥間子と天女はそのまま暮らし始める事になり、やがて夫婦となって、二人は、歳上の女の子と、下に男の子の、一男一女をもうけたのでした。
それから月日が流れた、ある時のことです。
幼い弟が泣いたので、姉が、あやそうとして歌を唄い始めたその歌詞にいうことには、
「お前さあ、そんなに泣いたら、倉の中にある飛衣を着せてあげないよ。ヘイヨー、ヘイヨー(※よしよし)、泣くなよう、泣くなよう。」と。
この歌を耳にした母は、それを聞くなり、もしや倉の中にある着物は自分の羽衣なのではないかと思いました。そして直ぐに倉へ行って、飛衣を見付けたのでした。
そしてそれを身にまとうと、かつてのように天高く舞い上がり、そのまま飛び去ったのでした。
この、天女の生んだ男の子が、後に、大昔の琉球の王である察度王になった人物です。
さて、この察度王についての話ですが、子どもの頃から全く働かない怠け者だったそうです。特に農作業は大嫌いで、ろくに働かず、毎日毎日、魚釣りに耽ったり、山に行って鳥を射止めたりしながら、ぶらぶらして暮らしていたのでした。
ところがある時のこと、勝連城の王と王女が、娘の婿選びをしていると耳にするや、そこに出掛けて行きました。
もちろん、いつもの粗末なバサーを着て藁帯をしていましたから、門番の兵に、城へ入るのを止められたのは言うまでもありません。
衛兵が言うことには、
「お前は一体、何者か。
何様のつもりで、そんな身なりのまま、城に入ろうとするのか。
今、城内では、お姫さまの婿選びという、大切なことが行われている真っ最中なのだ。」と。
すると男がそう告げることには、
「自分を婿に選んで貰うためにやって来た。」と。
門番の兵が言うことには、
「お前の様な場違いの者が、こんな場所に、のこのこやって来たところで婿になど選ばれない。さっさと帰れ。」と。
それから押し問答になりました。
その騒ぎをたまたま聞きつけてやって来た王女に向かって、衛兵が言うことには、
「どうか、お聞き下さい、お姫さま。
こんな酷い身なりの奴が、婿選びの会に出ると言って、恥知らずなことにやって来たのです。
そもそもこんな卑しい身分の者を城の中に入れたら、私が王にお咎めを受けてしまいます。絶対に入れわけにはいきません。
ところがこの者は、私の言うことを、少しも聞こうとしないのです。」と。
すると王女が言うことには、
「人を身なりや身分で判断してはなりません。入れてあげておやりなさい。
どういう方かも分からないというのに。」と。
しかしながら、二番の門でも、同じような押し問答となり、再び王女がやって来て、やっと男は中に入る事が出来たのでした。
すると次に、王と王妃が男を見て驚きました。更に、城内に入れたのが娘だと知るや否や、両親は王女に向かって言うことには、
「貴女は、こんな見窄らしい男の妻になるつもりなのですか。一体、どういうつもりで、こんなくだらぬ男を城内に入れたのか、気が知れませんよ。」と。
すると、王女が答て言うことには、
「いいえ、私は一目見ただけで、この方には徳があると思いました。しかもその徳は、人並み優れたものです。
私は、この方の妻になりたく存じます。」と。
直ぐさま男のその徳は証明されることとなり、王女は妻になり、男は後に察度王になることになります。
なお、察度王のその時の身なりが余りに酷かったため、王女の母親は酷い貧乏者と結婚した娘の事を不憫に思って、米俵を一つ与え、そしてその米俵の中に黄金(※黄金)の塊を一つ入れて、持たせました。
ところでその頃、勝連と泡瀬の間は、小さな舟で渡っていたそうで、王女を嫁にもらった察度王もまた勝連からの帰りに、この舟に乗っていました。
すると、近くを飛んでいる鳥が鳴きながらついて来ます。その声が余りに五月蝿くてしつこいので、察度王は米俵の中から黄金の塊を出すと、鳥、目掛けて投げつけたのでした。
それを見た妻が言うことには、
「あきさみよー(※まあ何てことを)。
たかが鳥一羽に黄金を投げつけてしまうなんて、貴方は何故、そのような事をなさるのですか。」と。
すると、察度王が言うことには、
「貴女こそ、何をそんなに驚いていらっしゃるのですか。あんな石など、私の家にいらっしゃれば、いくらでも転っています。屋敷にあるのは、あれより大きな石ばかりですよ。」と、笑いながら答えたのでした。
そして、謝名の黄金庭という場所にあった察度王の屋敷に、着いて見ると、まさしく、その通りなのでした。
そしてヒヌカン(※火の神)を祀る立派な三つの祭壇が黄金庭に作れらているのをはじめとして、屋敷のあちこちが、本当に黄金だらけではありませんか。周囲の土の中からも、沢山の黄金が頭を出しています。
ところで、謝名の黄金庭より下の低い所は、昔、海だったそうで、そこは港田原と呼ばれていました。謝名一帯の下が海であり、屋敷の直ぐ側まで、よく大和の船が入って来ました。というのも、大和湧泉と呼ばれる所があり、航海の途中で飲み水を汲むために、よく立ち寄ったためです。
そのため黄金庭の下の海を、大和の船がよく通りました。
元々、察度王は、大層、頭が切れる人物でした。その上に、とても賢い王女を妻にもらった察度王は、やがて妻と相談し、自分の家から近くのカンジャーガマまで黄金を運んで、通る船を相手に黄金の取り引きを始めました。
より詳しく言い直すと、大和の人が持ってくる鉄と自分の黄金を交換したのでした。
そして、手に入った鉄を色々な物とを交換して、僅かな期間で、察度王と妻は、大変な財を成したそうです。
ただ察度王が人並み優れていたのは、決してそれだけの成功に満足することなく、手に入れた鉄で、鍬や篦等を作って、農民達に配たったことです。
当時は、木の鍬や篦を使うのが一般的でしたから、農民達の大変な信望を得たことは、言うまでもありません。
こうして、やがて察度王の元に、有能な臣下がどんどん集って来るようになり、やがて伊祖城の按司となり、続いて浦添城の按司、そして遂には、中山王にまでなったと伝わっています。
なお、奥間の屋敷やカンジャーガマは、その後の長い間、残っていたといわれています。
※この話の参考とした話
①高木~「長者ヶ池」・柳田~「炭焼藤太」〉
②沖縄本島・沖縄県宜野湾市宇地泊~『宜野湾市史』第五巻資料編四 民俗
③沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村長浜~『長浜の民話』読谷村民話資料3
④沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~『喜名の民話』読谷村民話資料2
⑤沖縄本島・沖縄県那覇市田原~『那覇の民話資料』第五集那覇地区
⑥沖縄県宜野湾市大謝名~『中山世鑑』巻二)〔『中山世譜』巻三、『球陽』巻一など省略
※なお、天女に関しては、2009.09.20に、
「羽衣をなびかせ、天から琉球沖縄に舞い降りた天女とは?」を、
書いております。
宜しければ、合わせてご覧下さい。
http://totoro820.ti-da.net/e2499139.html
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●伝承地
①高木~「長者ヶ池」・柳田~「炭焼藤太」〉
②沖縄本島・沖縄県宜野湾市宇地泊~奥間子という人がいたそうだ。この人が畑から帰ってきて、森の川で手足を洗っていたら、まだ見たこともない美しい着物が木に掛けてあったって。奥間子は美しい着物が下がっているもんだから、「不思議だな。こんなに美しい着物を着る人はここらあたりにはいないけどなあ。珍しい物だから家に持っていって我が家の宝にしよう」と思って、それで、その着物を家に持って帰って、倉の中に隠したそうだよ。森の川という所は、浴びる所は分けられているよ。そこで女が浴びていたって。そうして、女が川から上がってみたら、自分の着けていた着物がなくなっていたんだよ。「あれまあ、たんへんだ。私の着物がない」女が心配してガダガダふるえながら坐っていると、「あんたは何をさがしているのか」と、奥間が声をかけたんだね。そしたら、女が、「ここに下げておいた着物がなくなってしまったので。着けて帰る着物もなくどうしようかと心配しているんです」と言ったんで、奥間は、「そういうことだったら、私の家はすぐそこだから、さあ、私の家に行って私のバサー(芭蕉布で作って着物)を貸してあげよう」と言ってね。この森の川と奥間の家とはくっついていたらしくて、それで、女を家に連れて行って、自分の着物を女に貸してやったわけ。で、もう二人は男と女だから、夫婦になったんだよ。そうして、上の子は女、下が男の子の一男一女をもうけたんだね。あるとき弟が泣いたんで、姉が、「おまえね、こんなに泣いたら、倉の中にある飛び衣(羽衣)を着せてやらないよ。ヘイョーヘイョー(よしよし)泣くなよう、泣くなよう」と歌って、あやしていたようだね。そうしたら、おかあさんは、この歌を聞いて、「ああそうか。私の飛び衣は、こんなところに隠してあったんだね」と言って、それで倉に行ってね、その着物を取って飛んでいったという話だよ。
そうやって、後にこの生まれた男の子が察度王になっているわけだよ。この察度王という人は、子どもの頃からぜんぜん仕事もしなかったらしい。農業が嫌いなので、仕事もしないで魚釣りをして遊んだり、また、山に行って、鳥を射ったりして遊んでいたそうだ。ぶらぶらして、仕事もしない人だったわけだよ。
そうするうちに、あるとき、勝連城の娘、王女が聟(むこ)選びをしているというんで、「そうか勝連城は、聟選びをしているというから、私も行ってみよう」と言って出かけたらしい。そまつなバサーを着けて藁帯をしてね。そのようにして行ったら、門番に、「おまえは何様のつもりだ、ここから入ろうとするが。城内ではお嬢さまの聟選びをしようとしているのに。おまえがここに来たって聟には選ばれないから帰れ」と言われて、押し問答していたらしいね。そうしたら、このお嬢さまが門の穴のあいたところからこの様子を見て、「どうしたの、どうしたんだいおまえたちは」と聞いたんで、門番は、「聞いてくださいお嬢さま。こんな身なりの奴が『聟選びに出る』と言って来ているんですよ。こんな奴をお城の中に入れてなるもんですか」と答えたわけ。だけどお嬢さんは、「なんでもいいから入れなさい。入れてごらん。どういう方かもわからないのに、入れてみないさ」と言って、察度を入れたらしいね。そうして二番の門でも同じように押し問答になったもんだから、また、「入れなさい」と言って中に入れたわけ。そうやって中に入れたら、両親が、「おまえは、こんな身すぼらしいなりの男の妻になるつもりか。どういうつもりだ、こんな男と」と言ったもんだから、娘は、「いいえ、この人は徳のある方です。私の見たところ、徳がすぐれていらっしゃるから、私はどうしてもこの人の妻になります」と言ったわけ。そうして、奥間の妻になったらしいんだね。そうしたら奥間のなりがなりだもんだから、母親は、たいへんな貧乏者だと不憫に思った。それで米俵をひとつおあげになったらしい。米俵の中には、これぐらいの黄金をひとつ入れて持たせたらしいんだよ。そのころは、勝連と泡瀬とは小さな舟で渡っていたって。それで勝連からの帰り飛んでいる鳥があまりにも、ピーピーピーピー泣き叫ぶんで、察度は、鳥を落とそうとしてもう米俵の中から小石をとって投げつけたらしいね。そしたら妻が、「アキサミヨー(あれまあ)、あんたはもうとんでもないことをして。どうしてそんなふうに黄金を投げて鳥をいためつけようとなさるの」と言ったら、「あれ、おまえこそどうしたんだい。私の家には、こんなもんたくさんあるよ。屋敷はみんなこんな石だよ」と答えたらしいね。そうやって、いよいよ奥間の屋敷に着いてみたら、謝名の黄金庭という所だったらしいよ。火の神も三つの黄金で作れらていたって。また、屋敷の周囲もぜんぶ黄金だったって。
この黄金庭の下にカンジャーガマという所があるよ。今は謝名の下方にアパートや学校がでぎているが、昔はそこは海だったそうだよ。それで、港田原といってハル名も港田原といっていたそうだよ。このように、謝名の下は昔は海だったから、その人の屋敷のすぐそばまで黄金庭の下まで船は入って来たそうだよ。それにまた、謝名の下に大和湧泉という所があるよ。大和の人の船は港に入ってきたら、この湧泉から水を汲み入れていたらしいね。それで、察度は、頭のきれる人だったから、カンジャーガマも近くにあり、船も自分の家の近くに着くので、大和の人が持ってくる鉄と黄金とを交換してね、自分は金持ちになったんだ。そして大和から来た鉄で鍬やヘラを作って農家に配り、人々の信望を得てたわけ。そうして、察度王は初めはここでシンカ(臣下)をたくさん集めて伊祖城の按司になって、それから浦添城の按司になり、そして中山王になったんだよ。奥間の屋敷は今もあるよ。カンジャーガマも今も残っているよ。(『宜野湾市史』第五巻資料編四 民俗)
③沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村長浜~昔、謝名に奥間という百姓が、畑仕事の帰り、川で水遊びをする天女の羽衣を隠した。天女は奥間に従い夫婦となって、男女二人の子どもを生んだ。女の子はある按司の妻となり、男の子は勝連按司の娘に結婚を申し込み、按司の娘の望みで、夫婦となった。勝連按司の娘が、男の子の家に行くと、みな黄金で二人は金持となった。その頃、沖縄には鉄がなかったので、その黄金と鉄とを交換し、鉄で農具を作って百姓に分けてやったので、人々から奥間鍛冶屋と慕われた。ところがその王に世継がなく、安里の比屋という老人の物言いで奥間が王となって、察度王と呼ばれた。(『長浜の民話』読谷村民話資料3)
④沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~謝名に奥間大親という貧乏な男がいて、真志喜大川へ山羊の草刈りに行くと、大川に水浴びをする天女を見つけ、その着物を隠す。天女は奥間大親に従い夫婦となって子どもをもうけた。天女は、子守り唄で稲倉の下に隠された着物を見つけ、子どもを置いたまま昇天した。その子が成長した頃、勝連按司が福人親雲上の婿調べによって娘の婿を探しており、貧乏な奥間大親の息子が選ぽれた。勝連按司は怒って娘夫婦を追い出したので、娘の母親は黄金をもって夫婦を励ました。ところが、奥間の息子が、その黄金を見て、こんな物ならいくらもあると言うので、その場所を訪ねて二人はたくさんの黄金を掘り出し、またその黄金を鉄と交換し、農具を作って沖縄の農業を進歩させた。この人が察度王であった。(『喜名の民話』読谷村民話資料2)
⑤沖縄本島・沖縄県那覇市田原~浦添間切の謝名村に、奥間大親という百姓がいた。畑から上がって井戸で足を洗っていると、天女の飛び衣を見つけて、これを隠してしまった。天女は奥間大親に従って夫婦となり、一男一女をもうけたが、姉が弟をあやす子守り唄で、飛び衣のありかを知り、子どもを残したまま昇天した。やがてその子が成長した頃、勝連按司が娘の婿選びをしていたので、奥間大親の息子があえてそれに応じて、勝連に赴いた。みすぼらしい息子を按司は問題にしなかったが、娘の望みで二人は夫婦となった。その息子に従って、按司の娘が奥間の家に来てみると、トゥブシの台が黄金であったので、それを尋ねると、そんなものは家の畑には幾らもあると言う。按司の娘の勧めで、黄金を掘り出し、それを鉄と交換して鍛冶屋を始めて、農具を作って農民にやった。この息子が後の察度王であった。(『那覇の民話資料』第五集那覇地区)
●文献
⑥沖縄県宜野湾市大謝名~察度王ハ、浦添間切謝那村、奥間ノ大親ガ、一男子也。母ハ天女也。
其由来ヲ、委ク尋ヌレバ、奥間大親ハ、素ヨリ信実無妄ナル者ニテ、貧窶ニ有リケレバ、妻ヲ求ルニ便リ無シ。
アル時、田ヲ耕シテ、帰ルサニ、手足ヲ洗ンガ為ニ、森ノ川ニ行ケルニ、年ナラバ、二八ト見ヘタル、紅顔美麗ノ女房、只独、沐浴ヲゾシケル。奥間大親、ツクヅクト、思案シケルニ、此郷ニ、カカル女房有トハ、見モ聞モ及ズ。若ヤ都アタリノ女房ニテモ、アルナラバ、遠所ヘ、独リハ、来ルマジ。昔ヨリ、天女天降ト云事モ、アレバコソ、語リニモ伝へ侍レ。是ハ必定、天女ニテゾ有ルラン。
トテ、霜ニ木蔭ヨリ立寄、彼女房ノ衣裳ヲ見ルニ、誠ニ人間ノ衣裳ニ非レバ、一先ヅ隠ヒテ見ン様ゾアルラメトテ、草ノ荒タル中へ、ヲサメ置、知ザル者ノ真似ニテ、手足ヲ洗ン体ニテ、忽然トシテゾ、行キタリケル。
去程ニ、彼女房、周章驚ク体見ヘテ、ツゝタチアガリ、衣裳ヲ取ントスレバ、衣裳ハ無シ。只サメザメトゾ、泣居タリケル。
奥間大親、申ケルハ、
是ハ何方ヨリ、ヲハスル女房ニテ、渡ラセ給ケルゾヤ。若ヤ御同心ノ、人共有テ、行迷給モノニテ、アルナラバ、何方へ成トモ、送リ進セ候ン。
ト有ケレバ、女房涙ヲ押ヘ、
今ハ何ヲカ隠スベク、我ハ天上ノ者ニテ有ケルガ、沐浴ノ為ニ、今下界ヘ降リケルニ、飛衣ヲヌスマレテ、力及バザル候。
トゾ答ヘケル。
サテハ余儀無キ御事哉。憚リニテハ侍レ共、暫ク吾ガ草庵ヘ、御坐給ヘカシ。飛衣トヤランヲバ、尋求テ、進セ候ン。
ト申ケレバ、彼女房、ヨニモ、ウレシゲナル気色ニテ、
サテハ真平頼ム也。同心セン。
トテ、奥間大親ガ草庵ヘゾ、参リタリケル。
奥間大親、心中ニハ、悦思ケレ共、尋求ル真似ニテ、深ク櫃ニ収テ、蔵ノ上ニゾ、カクシ置ケル。
去程ニ、彼天女モ、力及バズ、奥間大親ト、夫婦ニゾ、成居タリケル。
角テ、十年余ニモ、成ヌレバ二人ノ中ニ、女子一人、男子一人ゾ、出来ニケリ。
彼女子、如何シテ、知リタリケン、弟ヲ携へ、遊山ヲスルトテ、
母親ノ飛衣ハ六足蔵ノ上
母親ノ舞衣ハ八足蔵ノ上
トゾ歌ヘケル。
母、ツクヅクト聞テ、大ニ悦、夫ノ隙ヲ窺ヘ、蔵ヘ上リテ、求ケルニ、案ノ如ク、櫃ニ収テ、稲ノ下ニゾ、カクシ置タリケル。悦バシト云侭ニ、取出シ、打着テ、天ヘゾ上リケル。
稚キ者共、声ヲ惜マズ、呼ハリ、泣悲ミケレバ、流石、名残惜ヤ有リケン、宇ノ上ニ、三度迄ハ飛下リケルガ、其後ハ卒ニ帰ラズ。奥間大親モ、ヤスカランモノ哉ト、悲メドモ、甲斐ゾ無リケリ。
サテアルベキ事ナラネバ、二人ノ子ヲ、養育シケル程ニ、此男子、漸ク成長シケレドモ、耕農ヲモ事トモセズ、朝夕漁猟ニ、スサミケル間、父忿テ、時々攻ケレドモ、其教訓ニモ従ハズ、只徒ニ諸方ヲヘメグリ、定朝省昏モ疏〔疎カ〕ンジテ、先ヅハ不孝ニテゾ、有ケル。
其比、勝連按司ニ、女子、御坐シケリ。容貌、ヨウニヤサシク、類少キ者ニテ、有ケレバ、時ノ名卿ドモ、良謀ヲ以テ、申ケルニ、父母ハ、許諾シケレドモ、此女子、更ニ肯ハズ。父母モ、様コソアルラメト、待居タリケルニ、彼奥間大親ガ男子、勝連ヘ参リ、聊、勝連按司ヘ、申上度事有テ、遥々ト、尋来ル也。此旨ヲ、披露セラルベシトゾ、申ケル。
家人共、大ヒニ、アザ笑テ、爾ハ何ヨリ来ル者ニテ、アリケルゾヤ。路上ノ乞食トモ思シキ者ガ、勝連按司ニ、何ノ用カ有ル。飢人ナラバ、只食物ヲバ、ヤラン物ヲトゾ、侮リケル。サレバ、季氏其嫂礼セズ、買臣其妻棄ツルヲ見モ、角ヤト思知レタリ。
彼男子答曰、我ハ乞食ニ非ズ、又飢人ニモ非ズ。頻リニ、按司ニ、対面仕度事共有テ、参リタリ。疾々申入シメ給フベシトゾ、申ケル。家人共モ、此上ハ様ゾアルラメトテ、披露ヲゾ致シケル。
按司モ怪ク思召レ、サテハ召セトテ、召レケレバ、男子、大庭へ畏リ、我等、身ハ不肖ノ者ニテ候ヘドモ、御女子、未ダ嫁シ給ハザル由、伝ヘ承リ、御婿ニ成ンガ為ニ、遥々尋参リタリトゾ、申ケル。按司ヲ始トシテ、男女ノ奴僕ニ至ルマデ、是ハソモ、狂者ニテゾ、アルラン。疾ク追出セ出セトゾ、怒リケル。彼女子、王妃ト成リ給、前表ニヤ、牖ヨリ霜ニ、是ヲ見ルニ、彼男子、天子ノ蓋ヲ戴ヘテ、更ニ乞食飢渇ノ容ニハ非リケリ。依テ彼女子、父母ヘ向テ申ケルハ、
彼男子コソ、吾ガ徳ニハ配シタリ。頻ニ彼ヲ、婿ニ取給ヘカシ。
ト有ケレバ、父母大イニ怒テ、
言語道断ノ事ナル哉。名卿貴士ヘハ帰サズシテ、乞食飢渇ノヤウナル者ニ、嫁セント云事ヤ有。
トテ、責給ケレバ、女子、重ネテ申ケルハ、
竊ニ聞ク、婦人ハ三従道有ト云ナレバ、兎モ角モ、父母ノ命ニ任ベク候ヘ共、枉テカレヲ、婿二取給カシ。若其儀、
成ザル程ナラバ、一世男ハモツマジ。
ト、一タビハ悲ミ、一タビハ怒テ申ケレバ、按司ハ元来、博学大知ノ人ニテ、御座ケレバ、サテハ、易ノ占ヲ見ントテ、周易ヲ開テ見給ニ、乾ノ初九ニ当リタリ。」
経曰。
乾元亨。貞利。
初九潜竜用勿。
彖曰。大哉乾元。万物資始。乃天統。雲行雨施。品物形流。大終始明。六位時成。時六竜乗。以天御。乾道変化。各性命正。合大和保。乃貞利。出庶物首。万国咸寧。
象曰。天行健。君子以自彊息不。
文言曰。元者善之長也。亨者嘉之会也。利者義之和也。貞者事之幹也。君子仁体以入長足。嘉会以礼合足。物利以義和足。貞固以事幹足。君子此四徳行者。
故乾元亨利貞曰。
初九日。潜竜用勿。何謂也。子曰。竜徳而隠者也。乎世易不。乎名成不。世遯悶无。是見不而悶无。楽則之行。憂則之違。確乎其抜可不。潜竜也。
ト有リケレバ、易ノ文、目出度シ、舜・禹、側陋ニ在時ノ占也トテ、彼男ヲ内ヘ請ジテ、酒餚ヲモテナシ、申サレケルハ、我女子、爾ニ与ユルゾ。後日、吉日ヲ択テ、向フベシト、有ケレバ、男子大ニ悦、後日、吉日ヲ択テゾ、向ヘケル。
彼女子、男ノ草庵ヘ、来リテ見ルニ、荒タル家ノ、垣間マバラニ、軒傾テ、時雨モ月モ、サコソ漏ルラメト見ヘテ、顔子ノ陋巷簟瓢モ、角ヤト思知レタリ。サレバ駟騎列安所膝容過不ト、北郭先生ガ妻ノ、云置シ言葉ヲ、楽ミニ思計也。
数日ヲ歴テ、彼女房、燭ヲタク石ヲ見ルニ、亘リ一尺余リト見ヘケルガ、灰ニマミレ、松ノ油、タリカゝリタルガ、石ノ様ニハ無リケリ。異シク思ヒ、ツクヅクト、見タリケレバ、シヤウジンノ、黄金ニテゾ有ケル。
女房大ニ悦、此石ハ金ニテアルゾ。何トテ是ヲバ、燭焼ニハシ給ゾト、申ケレバ、男答曰、其金トヤラン物ハ、何ノ用二立ゾヤト、申ケレバ、此金コソ、世間第一ノ宝ヨ。貴方ハ未ダ、知給ハザル物哉ト、云ヶレバ、男申ヶルハ、其金トヤラン物ハ、
ワラガ田園ノ上リニハ、山ノ如クニ満々タリ。イザ行キテ、見セントテ、女房ヲ携テ、行テ見スルニ、案ノ如ク、園ノホトリニ有、石ト覚シキ物ハ、皆黄金ヤ、銀ニテゾ有ケル。
サテモ女房、カノ人、初見タリシ時、天子ノ蓋ヲ、戴タリト見タルモ、此前表ニテゾ有ケントテ、大ニ悦、父勝連按司ヘ、人ヲ遣シテ、大ニ人夫ヲ雇、此金銀ヲ取リヲサメ、此地、霊所也トテ、楼閣ヲゾ、作リテケル。依テ時ノ人、金宮トハ名付ケル。今、大謝名ニ、金宮トテ、崇奉ル社、是也。
当時牧那渡ニ、倭商船、数多参リケルガ、過半ハ皆、鉄ヲゾ積タリケル。彼男子、此鉄ヲバ、皆買取テケリ。
其比ハ、牧那渡ノ橋ハ無クテ、上下往来ノ大道ハ、金宮ノ麓ヨリゾ有ケル。
彼夫婦ノ者ハ、素ヨリ慈悲ノ心、深キ人ニテ有ケレバ、此道ヲ通リケル者ヲバ、老若男女ヲ択不、飢タル者ニハ酒食ヲ与ヘ、寒タル者ニハ綿袍ヲ着セ、耕農ノ者ニハ鉄ヲ与ヘテ、農器ヲ作ラセ、仮初ニモ人ノ為ニ、忠アラン事ヲノミ、心トシヶル間、国人、父母ノ思ヲナシテ、浦添按司トゾ奉仰。
其後、中山王西威、薨給ケレバ、時ノ摂政ドモ、五歳ノ世子ヲ、立ントシケルヲ、国人、僉議有ケルハ、
亡君西威ノ、賞罰ヲ顧謂ニ、一トシテ、先王ノ旧規ニ当リタルハ無シ。是ニ依テ、国家ノ災害、止時無シテ、天下ノ民、塗炭ニ落タリ。是モ只、幼少ノ時、践祚有テ、母后、政ヲ取営シニ依テ也。
今ノ世子、太甲・成王ニモ非ズ。今ノ摂政、伊尹・周公ニモ非ズシテ、幼少ノ践祚、如何アラン。サレバ、古典ニモ、天下、天下之天下、一人之天下非ト、云事有レバ、如不、世子ヲ廃テ、徳アル人ヲ立テ、国家安寧ニ致ンニハ。
トテ、世子ヲ廃テ、浦添按司ヲゾ、即位成奉ル。(『中山世鑑』巻二)〔『中山世譜』巻三、『球陽』巻一など省略〕
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