〜琉球沖縄に伝わる民話〜

『球陽外巻・遺老説伝』より、第133話。遺老説伝最終回。

船黄ハイビスカス沖縄黄ハイビスカス『球陽外巻遺老説伝』全122話/最終回黄ハイビスカス船

天久宮(あめくぐう)


 今から四百七、八十年前の話です。
 真和志間切(まわしまぎり)の銘苅邑(めかるそん)に、銘苅翁子(めかるおうし)という人がおりました。
 温厚篤実(おんこうとくじつ)な、なかなかの人格者(じんかくしゃ)で、浮(う)き世(よ)の名利(みょうり)を求めようとせず、ただ悠悠自適(ゆうゆうじてき)の日々を送っておりました。
 ある日の暮(く)れ方(がた)のこと、天久(あめく)の野辺(のべ)を、一人、散歩していました。そして不思議なできごとに出会ったのです。
 かつて見たこともない、この世の者とは思われぬほど、たいそう気高(けだか)く美しい女性が、山の上で、一人の法師を見送って、それから降(お)りて来たのでした。そして、山の中腹(ちゅうふく)の洞穴(ほらあな)のあたりで、突如(とつじょ)消えてしまったのでした。
 よくよく見てみましたが、洞穴(どうけつ)の中から、水が外へ流れ出ているのだけが見えます。
 そして暫(しばら)くすると、その場所から今度(こんど)は法師が現れましたが、その人がまた、威風堂堂(いふうどうどう)たる風采(ふうさい)で、見るからに、普通の法師とは全く違った、立派な法師なのでした。
 すると続いて、先ほどの美女が現れ、今度(こんど)は、法師が美女を見送るらしく、二人はその洞窟(どうくつ)から、山の上の方に登って行きました。
 銘苅翁子(めかるおうし)は、法師が帰って来るのを待ち、尋(たず)ねてみることには、
 「法師さま。失礼ですが、一体(いったい)、貴方(あなた)は、どのようなお方(かた)なのでしょうか。それから、あの美しい女性の方は、どなたなのでしょうか。」と。
 すると、法師が言うことには、
 「私は、この地に住んでいる者です。あの女の方は、上の森に住んでいる者です。」と。
 何とも素(そ)っ気(け)なく、そう言うなり、法師は、さっさと洞窟の中に入ってゆき、その姿は消え失せてしまいました。
 翁子(おうし)はそれを見て驚きました。そして、これはきっと、神様の出現(しゅつげん)に違いないと思いました。
 そこで、このことを早速(さっそく)、具(つぶ)さに国王へ申し上げたのでした。
 王は、これをお聞きになると、近臣(きんしん)をお集めになり、その実否(じっぴ)を確かめるように言い付けました。
 さて、近臣の者達が洞穴にやって来ましたが、敢(あ)えて火をつけない線香(せんこう)を捧(ささ)げ、謹(つつし)んで拝礼(はいれい)しました。すると、間もなく線香に火が灯(とも)りました。
 近臣達は、間違いなく神がいると確信し、戻(もど)ってそのことを王に伝えました。
 それからそこに、国の神社が建てられ、天久宮(あめくぐう)と名付けられたのでした。
 宮(みや)の傍(かたわ)らには、神社を看守(かんしゅ)させるために寺院も建てられ、その寺は神応寺(じんのうじ)と名付けられました。
 すると直(す)ぐさま、神託(しんたく)がございました。
 「我は、熊野権現神(ゆやごんげんしん)である。
 女人(にょにん)は即(すなわ)ち弁財天女(べんざいてんにょ)なり。
 今、あまねく衆生(しゅじょう)を救うため、此(こ)の地に出現するなり。」と。
 こう申(もう)されました。
 それから後は、付近の人々は当然のこと、遠い山原(やんばる)からも、ぞくぞくと参詣(さんけい)する人々が絶えなくなりました。
 なお、寺院の方は、元々は神社の左にあり、その後、寺院は大島御蔵になりました。その蔵(くら)は、奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島などから、首里王府への年貢(ねんぐ)の貢(みつ)ぎ物(もの)を納(おさ)める蔵(くら)でなのした。薩摩に、奄美の島々を取られるとその蔵は壊され、泉崎村の潮音寺をここに移して、神社の看守をさせたということです。


※註
【天久宮】(あめくぐう/あみくぐう)は、琉球八社の一つ。琉球八社とは、琉球時代、王府から特別の扱いを受けた八つの官社で、波之上宮(波上宮)、末吉宮、識名宮、沖宮、普天満宮、八幡宮、金武宮、天久宮を指す。これらの宮には寺院があり、八幡宮だけは、応仁天皇、玉依姫、神功皇后の三柱(みはしら/※神様の数は「柱」)を祀り、他は熊野権現を祀る。また琉球八社の末社として「長寿(長壽)宮」(※S17年、浮島神社と改称。S19年、戦災炎上。S40年10月、那覇市天久に奉祀。S63年7月25日、波上宮内仮宮に遷座したまま今日に至る。)があるほか、八重山の宮古に「権現堂」(※『由来記』等によると、天正18年(1590年)、波上宮より熊野三神が勧請され、宮古権現堂が建立。慶長16年(1611年)の薩摩藩による先島検地の際の上奏により瓦葺に改築。琉球処分まで公費で管理される。 大正14年(1925年)に、豊見親二柱を祀る町社として宮古神社が創建。昭和15年(1940年)、当時、荒廃していた両社の、「県社・宮古神社」への昇格を目指して奉賛会が組織される。昭和16年(1941年)、宮古権現堂は、宮古神社に改称。宮古神社(旧権現堂)へ町社・宮古神社の二柱の神を増祀。境内地を西里5番地(現在の境内地)に移し、同19年(1944年)に、新・宮古神社へ遷座が行われる。県社昇格が内定したものの、戦災炎上。漲水御嶽に祭神を遷祀。昭和31年(1956年)、目黒盛定政を増祀。昭和55年(1980年)、旧境内地(西里1番地)に本殿、拝殿を再興し、遷座祭を斎行。  社殿の老朽化、宮古島市の誕生などの節目を迎え、平成19年(2008年)、「宮古神社御造営奉賛会」が組織される。平成22年(2010年)に、西里5番地に新社殿)がある。
天久宮の近く「台之瀬」には外人墓地がある。天久宮に近い高台を、先樋川(さちひぢやー)というが、それは崖の中腹に泉があり、この辺り一帯の地名となったと伝えられている。
琉球沖縄八社の一つ(波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮のこと)。 
※注
【真和志間切】(まわしまぎり)真和志の以前の発音は「まーじ」など。
【銘苅邑】(めかるそん)邑=村。現在の那覇市。
【温厚篤実】(おんこうとくじつ)温厚とは、穏やかで優しく真面目(まじめ)なさま。篤実とは、情が深く誠実なこと。また、そのさま。
【人格者】(じんかくしゃ)人として優(すぐ)れた人格の持ち主(ぬし)
【浮(き)世/憂き世】様々な意があるが、この場合は、いとうべき現世。辛(つら)いことが多い世の中。無常なのこの世。
【名利】( みょうり)名誉(めいよ)と利益(りえき)。また、それを求めようとする気持ち。めいり、とも。
【悠悠自適】(ゆうゆうじてき)世間のことに煩(わずら)わされずに、自分の思いのままに暮らすこと。
【天久】(あめく)銘苅村の隣りの村、天久村。天久の以前の発音は「あみく」など。真和志(まわし/以前の発音は「まーじ」)間切天久村。天久村は、中頭(なかがみ)の西原間切あめく村、後に、島尻の真和志間切天久村に。
【野辺】(のべ)古くは「のへ」。野のあたり。野原。
【威風堂堂】(いふうどうどう)近寄りがたいほど堂々として厳(おごそ)かであり、立派(りっぱ)なさま。
【実否】(じっぴ)事実であるか事実でないか。本当か嘘か。じっぷ、とも。
【神託】(しんたく)神のお告げ。託宣(たくせん)。神が、自分の判断や意志を巫女(みこ)などの仲介者、あるいは夢などによって知らせること。
【熊野権現】(ゆやごんげん)熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)のこと。熊野三社の主祭神で、本宮の家都御子神(けつみこのかみ)、新宮の熊野速玉神、那智の熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)の三神のこと。
【弁財天】(べざいてん)弁才天とも。元々は、インド神話の河川の女神。音楽・弁舌・財福・智慧の徳があり、吉祥天と共に信仰を集める神。仏教・ヒンズー教に取り入れられ、一般的には琵琶(びわ)を弾く天女の姿で表される。また、日本では財福の神として弁財天と書かれるようになり、七福神の一として信仰される。弁天、弁天様、べざいてん、とも。
【衆生】(しゅじょう)仏語。生命のあるものすべて。特に、人間をいう。


『球陽外巻・遺老説伝』(きゅうようがいかん・いろうせつでん)まとめ

 琉球の正史『球陽』の外巻として編纂(へんさん)された説話集(せつわしゅう)。遺老とは、古老、長生きの老人、を指す。そんな老人達が語り継ぐ話が遺老説伝である。北は、奄美、沖縄本島国頭から、南は与那国といった、大変に広い範囲にわたる説話集。内容は、地名、習俗、祭祀、グスク、御嶽はじめ色々な内容が語られ、中には、日本本土や中国の説話と類似する話もある。琉球沖縄独自の風土にはぐくまれて生まれ、祖先より語り継がれてきた説話のため、民俗学において、琉球沖縄の歴史や文化を探る上で、一級の研究史料とされている。


以上をもちまして、
『球陽外巻・遺老説伝』122話を終わらせて頂きます。
ご購読、ありがとうございました。にふぇーでーびる。

雨の日も、風の日も、一日もかかさず、
まだ暗いうちから、カメラを海に向け、
沖縄に上がる太陽を撮り続けていらっしゃる、仲本勝男さん。

その姿勢と、チムで撮る力強い写真に感化され、
若い自分が日々の忙しさにかまけ怠けては申し訳ないと思い、
書き始めてここまで、なんとか続けることができました。

そうはいうものの、今だから告白してしまいますと、
公開時間すれすれに書き終わった時や、
取り敢えず、書いたところまでを公開しつつ、
残りを懸命に書いていた時もありました。

更に途中、骨折で書けないという、おまけまでつきましたが、
みなさまにお読み頂き、たくさんのコメントを頂戴しながら、
最後まで、続けることができました。

また、未だ未熟なものの、書きながら自分で調べたことは、
これからの自分の研究の、基礎資料にもなりました。

この場をお借りし、謹んで、お礼申し上げます。

また、みなさまとの出会いに、心から感謝いたします。

『琉球民話集』より、
「球陽外巻・遺老説伝」の部分は、これで終了です。
続きまして、それほど数はありませんが、
『琉球民話集』に付録する、
「口碑伝説民話集」の部分を、お送りいたします。

では。


Posted by 横浜のtoshi






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カフェくくる うるとらまんサン。

そうですか。
雲に邪魔されましたか。
残念でしたね。

横浜は、
本当に、何ヶ月かぶりに、雨が降り始めました。
草木が、大喜びです。

お話を聞いただけで、
僕も、
総合運動公園で、いい空気をたくさん吸った気分になれました。

池の横から上がって、
庭園を見下ろしながら、木橋をのんびり渡り、
階段や、ゆるやかなスロープで上がる展望台。

目に浮かびます。

コメント、ありがとうございます。にふぇ〜で〜びる。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年09月08日 08:40



今日、総合運動公園行き、朝日を撮影したかったけど、雲に邪魔されました。でも早朝の公園の気持ちのいい事!いい空気いっぱい吸ってきました。
Posted by カフェくくる うるとらまん at 2010年09月08日 08:16



dede様。はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

本当に、dedeさんのブログのスイレンの美しさと言ったら、
言葉にはできない素晴らしさです。

つくづく、
スイレンの花が美しいのか?
dedeさんの写真の撮り方が素晴らしいのか?
きっと、両方なんだろうなと思いながら、拝見しております。

そして、
dedeさんの花に対する愛情が、
そのまま素適な写真に表れているんだなあと、
個人的に感じながら、拝見しております。

天久宮は、
実はまだこの話をよく知らない時に、一度、行ったきりです。

やはり、背景や物語を知って訪れると、
僕のような人間は、感無量です。

ただ、人に、何のため?などと質問されると、答えに窮しますが(笑)。

コメント、ありがとうございました。
また、お時間が許す時にでも、見て頂ければ光栄です。

私は、都会の喧噪に疲れ、一日に疲れた時は、
dedeさんのスイレンを見て、癒されたいと思います。

では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年09月07日 20:33



こんにちは。
天久宮は前から行こうと思っていたのですが由来はこういった話だったんですね。
とても参考になりました。
この話を思い浮かべながら天久宮に参拝に行こうと思います。

しかし教科書に載ってもいいようなお話を毎日更新できるなんてすごいです。

頭が下がります。(-_-o)

また遊びにきます。それでは。
Posted by dede at 2010年09月07日 19:36



yukuru mama、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

そうでしたっけ? 覚えてませ〜ん。
あんまり、たくさん書いてきたので(汗)。 書くので精一杯でした(笑)。

でも21日だったのは、きっと給料日のせいだと思いま〜す。
でも、なんで20日に、変わったんだろう? 不思議〜(笑)

台風、まだ来ません〜。
さすがに、来て貰わないと、植物とかが可哀想です。

やっと一区切りしたものの、途中、色々あったなあ。

もっと真面目にやれ、みたいな厳しいコメントなら、
すみませ〜ん、ちゃんとやりますぅ〜、みたいな感じで、
僕は、喜んで批判は受け止めるけれども、
変なコメントや、嫌がらせのコメントも、何度かあったなあ(苦笑)。

結局、
そんなにいつも、僕だってきちんと書ける訳じゃないし、
コメントの受け答えも、とても毎回、じっくり頭を使って書けないものなあ。

もう、年相応に、落ち着いてじっくり、考えて、行動しないとなあ。反省。

いつもコメント、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年09月07日 06:24



かめきちサマ、こんにちは。

去年の五月の連休に、
公開するつもりはまったくなく、
ただ遊びで、ブログなるものを作りました。

夏に、公開してみたものの、
とてもではないけれども、月に一回が精一杯でした。
仕事があるし、月一回が限界ですって、言ってたんです。

それに、書くより、見る方が好きでした。

その中に、
見たら一度で、好きになってしまった、
仲本勝男さんのブログがありました。

その後、お会いし、お話を色々と伺って、
私より、年上の仲本さんが毎日、頑張っているのに、
僕が、月、一回ではと、情けなく思って、
月1回の企画は、そのまま続けて、
それ以外に、『球陽外巻・遺老説伝』を2月から始めました。

そして、4月に、右手親指を、根元からポッキリ折ってしまいました。
二ヶ月半、休んで、やっと終わりました。

自分で言うのもなんですが、よく続いたなあ(笑)。

いつもコメント、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年09月07日 06:10



横浜のtoshiさん

こんばんは〜o(^-^)o

お疲れさまでした。
去年は毎月21日に更新をしていましたが、最近は毎日ですね〜(笑)

台風9号がそちらの方にも…
台風が去れば涼しくなるそうですよ。

もう暫くの辛抱ですね!(^。^;)
Posted by yukuru mama at 2010年09月06日 23:52



横浜のtoshiさん、こんばんは。

122話も書かれたんですね。
びっくりです!!
そしてお疲れさまです。
いろいろ研究されていらっしゃるんでしょうね。
尊敬します。
Posted by かめきち at 2010年09月06日 22:10


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

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