51屋良無漏池(やらむるち) ~琉球沖縄の民話
2010年03月25日
Posted by 横浜のtoshi at 20:20│Comments(0)
│琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版)
~琉球沖縄に伝わる民話~
『球陽外巻・遺老説伝』より、第51話。
屋良無漏池(やらむるち)
北谷郡、屋良邑(やらむら)の東に、木が鬱蒼(うっそう)と茂り、岩石が、ごつごつと高くそびえた山がございます。
その山中に、無漏池という一つの池があり、底が手にとるように澄(すみ)きった水ですが、その深さは、何万丈もあるような池です。
むかしこの池に、大層、大きな蛇(へび)が住んでいました。
池の波をけっては姿をあらわし、天地をゆるがすような大声を放(はな)ち、あるときは、岸に上って牛をかみ殺し、半身を水に入れたまま、半身を雲間に現す、この蛇の大きさは、誰一人として知る者はいませんでした。
今でも、風や、雨が起こる前は、きまって池の水が波立ち、怒ったような声がどこからともなく起こり、東の海鳴りと一つになって響(ひび)く時は、数日ならずして、かならず風雨が突然やってくるといいます。
※註
~屋良無漏池は、北谷村字屋良にあって、沖縄本島内の、唯一の湖である。玉城朝薫作組踊り「孝行之巻」は、義本王朝時代の故事によって、この湖に伝わる伝説から取材した作であると推察される。その故事は、冊封使、徐葆光(一七一九年来琉)の中山伝信録にも書かれている。
※注
【屋良無漏池】嘉手納飛行場の傍らを流れる比謝川、その中流に大蛇伝説で知られる、広大な屋良無漏池と云う沼があった。ここに、大蛇がいた、あるいは雷魚がいたと言う諸説の伝説がある
【北谷郡】(チャタン・ぐん)北谷間切(まぎり)
【屋良邑】(ヤラ・そん)北谷村から1948年、嘉手納(かでな)・屋良・野国・野里が分立して嘉手納となる。
【鬱蒼】(うっそう)鬱葱とも。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
【何万丈】(なんまんじょう)底なしという意。
【半身】(はんしん)
【怒った】(おこった)
【海鳴り】(うみなり)海から聞こえてくる遠雷のような音。台風や津波などによって生じた大波が海岸近くで崩れ、巻き込まれた空気が圧迫噴出して起こる。海鳴(かいめい)。
【玉城朝薫】(たまぐすく・ちょうくん)生年:尚貞16.8.2(1684.9.10)。没年:尚敬22.1.26(1734.3.1)。琉球王国の宮廷演劇「組踊」の大成者。唐名を向受祐という。王家の末裔で総地頭家に生まれる。幼少のころから母方の祖父野国正恒や義父の与儀守包から芸能の手ほどきを受ける。大和芸能にも優れ,島津吉貴の前で「東北」の仕舞「軒端の梅」を舞ったこともある。尚益1(1710)年の江戸上りの際は薩摩屋敷で現在の古典女踊り「かせかけ」に縁をひく「くりまえ踊り」を踊っている。尚敬6(1718)年,冊封使を歓待する踊奉行に任命され,翌年来琉した全魁や徐葆光らのために,琉球に在来する芸能や日本や中国の演劇を参考にして,新たに「組踊」という演劇を作り,王府が提供する7宴のうち第4宴の重陽宴以降,組踊「執心鐘入」や「二童敵討」以下「孝行の巻」「女物狂」「銘苅子」の5番を各宴で上演する。その後,冊封使渡来ごとに組踊を提供する例となる。朝薫によって始められた組踊は琉球の歴史に取材し,古典三線楽による歌と八八音対句または琉歌による韻文の詞章の唱えからなり,男,女,庶民,按司などで唱えが区別される。朝薫の5番は比較的に主題に変化がみられ,人間の普遍に迫るものが多いが,その後の組踊は,仇討物と孝行物がほとんどで,いわば儒教的な「忠」や「孝」を強調するものが多くなる。
【中山伝信録】(ちゅうざんでんしんろく)《「中山」は琉球の異称》中国の地誌。6巻。徐葆光(じょほうこう)著。1721年成立。前年に清の外交使節として訪れた琉球の見聞(けんぶん)を、皇帝への報告書としてまとめたもの。琉球の研究資料として知られる。
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