52与喜屋祝女(よきや・のろ) ~琉球沖縄の民話
2010年03月26日
Posted by 横浜のtoshi at 20:20│Comments(2)
│琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版)
~琉球沖縄に伝わる民話~
『球陽外巻・遺老説伝』より、第52話。
与喜屋祝女(よきや・のろ)
むかしむかし・仲城郡・津覇邑(つは・そん)に一人の和尚さんがいました。
本名はわかりませんが、村人は、補陀洛僧(ほだらくそう)と、よんでいました。
ふとした機会(きかい)から、与喜屋祝女(よきや・のろ/ぬる/ぬーる)と知り合い、その後、友達になりました。
ある日、祝女の家をおとずれますと、祝女は、和尚が来たのを心よく迎えて、お茶を出して、もてなしました。
四方山話(よもやまばなし)に、花を咲かせていますと、八つになる女の子が、うすい肌着で、体もあらわに二人の部屋に入ってきて、僧の前で遊技(ゆうぎ)をはじめました。
祝女はそれを、たしなめて言いました。
「お前は、お客さんの前で、不作法ではありませんか、ここから出ていって、外で遊びなさい。
子供は、恨(うら)めしそうに、ふくれっ面(つら)で出てゆきました。
外出した父が帰ってくるのに出会った子供は、叱(しか)られたことを父に話し、父親はこの話をきいて、疑いの心を起こして、帰るなり祝女を問いつめました。
「お前は、あの悪僧(あくそう)と、悪いことをしていたのだろう。そうでなければ何是(なぜ)、子供を外に追いだしたのだ。」
祝女は、これを聞いて、
「私は、現在、祝女として、神を祀(まつ)ることを仕事にしています。貴方がおっしゃるような道ならぬ事を、私がする訳(わけ)がございません。幼い子供の告(つ)げ口を聞いただけで、私に恥をかかせようとなさるのですか。こんなみじめな目に合(あわ)されては、何(な)んの面目(めんぼく)があって、生きていられましょうか。」
と、そう言うなり自分で自分の乳首を咬(か)みきって、死んでしまいました。
一方、僧も、けがらわしい汚名(おめい)をかぶせられたのを不名誉(ふめいよ)に思い、お寺に帰って、宝の黄金を持ち出し、津波、糸蒲(いとがま)の山の中に埋めてしまい、それから寺に帰って自分は一気に、棺(ひつぎ)の中に躍(おどり)りこんだのでした。
それと同時に火を放ったので、寺じゅうに火の手が上がりました。
これを見た小僧どもは、びっくりして、すぐさま寺の中にかけこみ、棺を外にかつぎ出して、早速(さっそく)、すぐさま蓋(ふた)を取って見ましたが、意外にも死骸(しがい)はなく、中はからっぽでした。
※註
~祝女職は、世襲(せしゅう)で、母からその娘へと、よく継(つ)がれた。与喜屋祝女(よきや・のろ)は、中城王子の守護(しゅご)祝女という重要な地位である。その伝来紀に、「中城間切(まぎり)与喜屋のろくもい」と申(もう)す神楽(かぐら)乙女(おとめ)は、毛氏(もうし)一門の内(うち)、読谷山と申す人。大島在藩の時、与喜屋村の女を側(そば)に置かれて、男子、女子、出産これあり。その後、豊見城親方、大和より御帰帆の折(おり)、大島に寄られて二人の子を連れて渡られ、殿内(でんない)にて養育される。男子は、御奉公(ごほうこう)、段々相(あい)勤(つと)めて、豊見城間切の地頭職を頂戴(ちょうだい)し、儀保親雲上と申(もう)し候(そうろう)。その頃、平良のろくもいと申す内侍(ないし)、無双(むそう)の美女まかり居(お)り、これを娶(めと)り、豊見城に居住(きょじゅう)し、世の為(ため)、相尽(あいつく)し申すと伝え候。その子孫、小禄、豊見城に今、繁昌(はんじょう)つかまつり居り候由(そうろうよし)。女子は、中城のろくもい職に任ぜられ、彼の地に居住(きょじゅう)つかまつり候。尤(もっと)も、与喜屋村の生まれ故(ゆえ)にて、時の人、与喜屋のろくも、いと名付(なづけ)け申し候故(そうろうゆえ)、その子孫(しそん)代々(だいだい)の、のろくもい、今以(も)って、その名号を引き申し由(よし)、候(そうろう)云々(うんぬん)」。
相手の補陀落僧については、琉球国由来記に、
「糸蒲寺院有り。其の寺、年代不詳(ふしょう)。本尊(ほんぞん)は、不動明王(ふどうみょうおう)、宗旨(しゅうし)は、真言宗にて、ありけるらん云々(うんぬん)」と。
※注
【仲城郡】(なかぐすく・ぐん)仲=中。中城間切(まぎり)
【津覇邑】(つは・そん)邑=村。
【和尚】(おしょう)
【補陀洛僧】(ふだらくそう)補陀洛僧とは、補陀洛渡海(ふだらくとかい)を行った僧という意味。補陀落渡海は、日本の中世に行われた、捨身行の形態。つま
り、宗教的な裏付けに基づいた自殺的行為(こうい)、殉教の一種。仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は古代サンスクリット語の「ポータラカ」。補陀落は華厳経にも説かれる、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土であるとされた。
【迎】(むか)
【四方山話】(よもやまばなし)いろいろな話題の話。世間話。
【肌着】(はだぎ)
【遊技】(ゆうぎ)遊び。
【不作法】(ぶさほう)無作法。礼儀作法に、はずれていること。また、そのさま。ぶしつけ。
【糸蒲】(いとがま)現在の、中城、南上原(みなみうえばる)付近。
【内侍】(ないし)内侍司(ないしのつかさ)の女官(にょかん)の総称(そうしょう)。
【無双】(むそう)二つとないこと。並ぶものがないほどすぐれていること。無二。ぶそう、とも。
Posted by 横浜のtoshi
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こんにちは。
お久しぶりです。
横浜のtoshiです。
大分以前に、
書き込んで頂いた方だったと、記憶しております。
その後、
調べ事の方は、順調に、進んでおりますでしょうか?
中林さんは、北軽井沢に、お住まいなんですね。
父が、鬼押し出しに、別荘を持っていたので
(とてもではありませんが、別荘と言える程の代物ではありませんが)、
若い頃は、
しょっちゅう、軽井沢の別荘に、行きました。
特に冬は、毎週末、スキーのために通いました。
私が、生まれ育ったのは、東戸塚/神奈川県横浜市です。
北軽井沢に、
変わった名前が多いことは、気づきませんでした。
でも、言われてみれば、
確かに、思い当たる地名があります。
群馬県や長野県はじめ、
満州開拓に行った方々が、どんなに苦労したかは、
十年前ぐらいに、ある史料で、読みました。
ただ、ハイロン村が、ハイロン県の名残りとは、知りませんでした。
オオカイシコ村という名も、初めて知りました。
中之条は、
むかし、友達がいたり、恋人がいたのと、
草津から帰るルートにした事もあるので、知っていますが、
その頃は、まだ大学生で、研究の対象も未熟でした。
群馬の歴史ですが、私はよく知らないんです。
ごめんなさい。
稲作には、適さないんですか?
そうとは、知りませんでした。
長野原町「与喜屋」という地名は、知っています。
沖縄の、与喜屋祝女との関連は、私にはわかりません。
ただ、沖縄を調べていて、
与喜屋祝女と聞いて、直ぐ僕も、群馬の地名を思い出しましたが。
僕も、学者ではありません。
國學院で、少し、民俗学をかじって、
趣味で、いろいろと調べているだけです。
ハヤトやアイヌが、日本の本土に住んでいたのが、
弥生人によって、いろいろなところに逃げたというのは、
かなり無理な考え方である気が、どうしても、してしまいます。
でも、関連が、
もしかすると、あるのかも知れませんね。
琉球沖縄は、まだ勉強し始めなので、
まだまだ、よく分かっていません。
ただ、勉強&読書、
そして、実際に行ってみることあるのみだと、思っています。
コメント、ありがとうございます。
また、与喜屋祝女(よきや・のろ)について、
何か分かりましたら、報告しますね。
では。
Posted by 横浜のtoshi
at 2010年11月01日 20:50

私、歴史は好きで、
住んでいるのは、北軽井沢/群馬県です。
北軽井沢には、変わった名前が多い。
ハイロン村/地区。これは、戦後、満州開拓が帰国し、ここで開拓。ハイロン県のなごり。
大(オオ)カイシコ村/地区。アイヌでは獣、狩りとい意味らしい。中之条に「蕨刀」(アイヌ刀)もありました。
大井原、大津、応桑、大前、大前、、、。
(オオイハラ、オオツ、オオウワ、オオマエ、オオササ、、、。)
縄文は多くあるのに、弥生はない。
もちろん、稲作は適さない。
で、与喜屋(ヨキヤ)、ここにも有ります。琉球の人々も、
ここ、群馬県長野原町与喜屋(ヨキヤ)に住んでたのでしょうか?
私、学者でもなく、なまアマチャ。
ハヤト、アイヌは、縄文として、日本に住んでた。
弥生人(秦氏)は中国から(四国から)来て、戦争(戦争&文化)。
ハヤト、アイヌは東北、北海道、九州、沖縄へ逃げた。
(鉄を求めて、戻された)で、古事記、日本書記編纂、、、、。
どうでしょう?メールもらえたら、有り難いです。
Posted by 中林正樹 at 2010年11月01日 18:04
コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。
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