~琉球沖縄に伝わる民話~
『球陽外巻・遺老説伝』より、第56話。
目利真御嶽(めりまおたけ)
むかし、宮古島の川満村に女の天神がおいでになって、時々、宮森に、お現(あらわ)れになりました。
女神の名は、天仁屋大司(あまにやおほつかさ)と申しましたが、目取真按司のお嫁に行き、夫婦の契(ちぎ)りをお結びになりました。
夫婦は、三人の女の児と、一人の男の子を、もうけましたが、目取間按司は、ほどなくこの世を去りましたので、四人の幼児(おさなご)は、気の毒にも父なし子になり、母親の、か弱い女手(おんなで)ひとつで育てられました。
父親がなくても、母親の大きな愛によって育てられ、子供等(ら)は、すくすくと大きくなってゆきました。
三女の真嘉那志が、十三の時です。思いがけず、突然(とつぜん)のことでしたが、妊娠(にんしん)いたしました。
この子の、人となりは、如何(いか)にも女らしく、淑(しと)やかで、しかも家の外(そと)に出歩くことも少なく、母親のもとを、はなれたこともない孝行娘(こうこうむすめ)でありました。
それがどうして妊娠したのでしょうか。
家族の者達は、このことをとても驚くと同時に、訝(いぶか)しく思いました。
そのうちに、十三ケ月の月日がながれて、一人の男の子が産まれ、目利真角嘉和良(めりまつのかわら)と名づけられました。
しかしながら、奇妙な顔形をした子で、頭には、二本の角(つの)が生え、眼は環(わ)を書いたようにまんまるく、手足は鴈(かり)に似て細長く、どこにも人の面影(おもかげ)がありませんでした。
その子は、さらにだんだんと大きくなって、十四才になった時、お婆さんの天仁屋と、お母さんの真嘉那志につれられて、白いやわらかな雲にのって、高い青空に昇(のぼ)ってしまいました。
その後、目利真山に、度々(たびたび)現れて、霊験(れいげん)をお示しになりましたので、村人達は尊(たっと/とうと)んで、神嶽(かみたけ)となし、信じるようになりました。
※註
~宮古史伝(慶世村恒任氏著)によれば、浦ノ島の東方にある住屋上森という所に、天仁屋大司(おおつかさ)という、麗(うる)わしい天女が、光明赫灼たる玉(ぎょく)を持って天降(あまう/あまお)り、目利真大殿という人の妻となって、四人の子を産んだ。一女は、真赤盂依(まかもい)、二女は、真平和(まびらわ)、三女を真加那志(まかなし)と言い、次の男子が、真種子(またね)若按司といった。三女、真加那志が、十三才で、男もないのに懐妊し、十三ケ月で、男児を生んだ。その子には、角(つの)が二つあって、手足は鳥の足に似て、相(そう)は、人間が悲しむ時のような姿をしていたので、目利真角嘉和良(メリマツノカワラ)と名づけた。真種子若按司は、誠実で、老いを敬い、幼きを愛し、朝夕(あさゆう)、天神を拝んだ、その十五才の頃、母は宝玉(ほうぎょく)を真種子若按司に譲(ゆず)り渡し、三女の真加那志と、その子、角嘉和良と共に、三人づれで、行方(ゆくえ)知れずになった。若按司は、限りなく悲しみ、父や姉と共に、母の行方をたづねたが、どこへいったか皆目(かいもく)見当もつかず、父はこの悩みで死んでしまったので目利真山に葬(ほうむ)り、朝夕、泣き暮らしていると、母なる天仁屋大司は、その山に、時々、霊顕があったというので、其処(そこ)に、御嶽(おたけ/うたき)を建てて祀(まつ)った。現在の、目利真御嶽(めりまうたき)である。
※注
【目利真御嶽】(めりまおたき、めりまうたき)
【川満村】(カワミツ・そん)以前の発音では「カーミツ・カーミチュ」など。
【天神】(てんじん)「てんしん」とも。天の神。あまつかみ。反対は、地祇(ちぎ)、地神(ちじん)。
【目取真按司】(めどるまあじ)
【児】(ちご)子供。幼い子。わらべ。
【訝しく】(いぶかしく)「訝(いぶか)しい」の連用形。訝しいは、物事が不明であることを怪しく思うさま。疑わしい。元は「いふかし」
【光明】(こうみょう)あかるい光。光輝。慈悲や智慧(ちえ)を象徴する光。
【赫灼】(かくしゃく)光り輝いて明るいさま。
※めりまは、目利真と目利間、2つの表記がみられる。
Posted by 横浜のtoshi
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