~琉球沖縄に伝わる民話~
『球陽外巻・遺老説伝』より、第82話。
久米法印(くめほういん)
むかし、久米島に一人の僧侶(そうりょ)がいました。
ある時に、日本に渡って、世に、あまり知られていない教えを伝えたため、法印(ほういん)の位(くらい)を授(さず)けられました。
とても偉(えら)い僧侶でしたが、年月を重ねるうちに、いつの間(ま)にか、その名は解(わか)らなくなって、俗(ぞく)に、この僧は久米法印と呼ばれるようになりました。
久米法印は、一時(いっとき)、護国寺に住んでいましたが、その後、ここを退(しりぞ)き、故郷の久米島に帰って暮(く)らすようになりました。
その時、真謝邑(まぢゃむら/仲里村)に御堂(みどう)を設(もう)けて、観音像を奉安(ほうあん)しました。
そしてこの法印が亡くなった後、お弟子(でし)の久米仲城という人が、適当な地を探し廻って、とうとうお宮を仲城々下に建て、観音様をここに移(うつ)して、崇(あが)めるようになりました。
※註
~観音堂は、仲里城の中腹にあって、建物は、間口(まぐち)二間(にけん)、奥行き一間半の木造瓦葺(かわらぶ)き、本尊(ほんぞん)はきわめて古拙(こせつ)なもので、建物は荒(あ)れ果(は)てて見る影もない有様(ありさま)である。その他に、五つ六つの仏体(ぶったい)も、狂人のために破壊されていたが、建物は昭和十二年に改築された。堂は、もと真謝の中央、菩薩堂の敷地にあったのを、中城親雲上(久米仲城)が、現在の所に移したものである。現在、真謝の菩薩堂になって、「寺の側」の道を隔(へだ)てて「寺の門」の屋号があり、しかも「寺の側」は太史氏(仲城の直系)の本家である。堂内には、乾隆三十五年(西暦一七七〇年)九月吉日の銘(めい)がある「観音堂」の額(がく)と、「乾隆庚寅菊月」の懸聯(けんれん)がある。(久米島史話)
※注
【法印】(ほういん)ここでの意味は、おそらく「法印大和尚位」の略で、僧位(そうい)の最上位(さいじょうい)と思われる。僧綱(そうごう)の僧正(そうじょう)に相当(そうとう)。なお、この下に法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)という位(くらい)があった。
【真謝邑】(まじゃそん)邑=村。仲里間切(なかざとぅ/なかじゃとぅ・まぎり)。
【古拙】(こせつ )古風(こふう)で、技巧的(ぎこうてき)には、つたないが、素朴(そぼく)で捨てがたい味わいのあること。また、そのさま。
【仏体】(ぶったい )仏のからだ。仏身。仏像。
Posted by 横浜のtoshi
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