85宝剣千代金丸(ほうけん・ちよかねまる) ~琉球沖縄の民話
2010年07月18日
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│琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版)
~琉球沖縄に伝わる民話~
『球陽外巻・遺老説伝』より、第85話。
宝剣 千代金丸
(ほうけん・ちよかねまる)
(ほうけん・ちよかねまる)
その昔、尚巴志王(しょうはし・おう)は、自(みずか)ら大軍を率(ひき)いて、今帰仁(なきじん)の北山城(ほくざんぐすく)を攻(せ)め、幾重(いくえ)にも城を取り囲みました。
もとより、要害堅固(ようがいけんご)、難攻不落(なんこうふらく)とされてきた北山城ですから、最強の中山軍(ちゅうざんぐん)が、潮(うしお)の如(ごと)く押(お)し寄せ攻(せ)めたてても、びくともしませんでした。
北山(ほくざん)の王、攀安知王(はんあんちおう)はまた、武勇(ぶゆう)に勝(すぐ)れた英雄(えいゆう)として知れ渡っていた上に、大将(たいしょう)で、王の腹心(ふくしん)の部下、本部太原(もとぶてーはら)もまた、他に並ぶ者がない豪傑(ごうけつ)であり、臣下(しんか)の武士達は皆(みな)、山原(やんばる)の山岳(さんがく)で鍛(きた)え抜(ぬ)かれた、一騎当千(いっきとうせん)の強者(つわもの)が揃(そろ)っていました。
攀安知(はんあんち)は、自分自ら大門(だいもん・おおもん)の大将として、太原は、後門の大将となって、互(たが)いにしっかりと城を守っていました。
中山勢(ぜい)は、多い兵の数を頼(たの)みに、常に兵を新(あら)たに入れ替(か)えて、何度も何度も(なんどもなんども)城に攻め寄せました。しかし城からは、矢が雨のように降り注(そそ)ぐために手も足も出ず、どうする事も出来ません。五、六日も過ぎると、その分だけ中山軍は死傷者が増えるばかりで、一方の北山軍は、殆(ほとん)ど傷つかず、兵の数はそのままで、一向(いっこう)に衰(おとろ)えることがありません。
尚巴志王は、再び策戦(さくせん)を練(ね)り直さざるを得(え)ず、考えました。
「攀安知(はんあんち)は、誰もが知る英雄(えいゆう)であることに、間違いはない。しかし知性(ちせい)に乏(とぼ)しく、徳(とく)がない。だから部下の将卒(しょうそつ)の中で、王の攀安知に心服(しんぷく)して従っている者は、きっと少ない筈(はず)だ。
大将の太原(てーはら)もまた、豪傑(ごうけつ)として世に知られてはいるが、これもまた勇(ゆう)を誇(ほこ)るばかりの、全く智(ち)が足(た)りない小人物(しょうじんぶつ)だ。昔からいわれるように、小人(しょうじん)は、利(り)をもって誘惑(ゆうわく)すれば、いと易(やす)しとされるから、思い通りになれば、やがてきっと、簡単に我が軍に靡(なび)くに違いない。」と。
それから尚巴志王(しょうはし・おう)は臣下(しんか)の羽地按司(はねじあじ)を呼び寄せ、自分の考えを伝えながら、二人は、細かい点まで行き届(とど)いた策略(さくりゃく)を練(ね)ったのでした。
その計画を実行に移すべく、羽地按司はある日、夜陰(やいん)に紛(まぎ)れて城内(じょうない)に忍(しの)び込(こ)むことに成功しました。そして早速(さっそく)、太原(てーはら)に沢山(たくさん)の金銀を贈(おく)りながら、中山に内通(ないつう)するよう、利(り)をもって諭(さと)しました。尚巴志が見抜(みぬ)いていたように、その計略(けいりゃく)は見事(みごと)に功(こう)を奏(そう)しました。
そして翌日、太原(てーはら)が攀安知王(はんあんじおう)に向かって言うことには、
「いつまでも城から出ずに戦わないならば、敵は、我々北山(ほくざん)を臆病者(おくびょうもの)と思い、また我が軍の士気(しき)も落ちます。代(か)わる代わる、私と王が外に出て戦って、中山(ちゅうざん)の兵に、何ものをも恐れぬ北山武士の武勇(ぶゆう)の姿を、思う存分(ぞんぶん)、見せつけてやりたいものです。」と。
長い籠城(ろうじょう)の末(すえ)のことであり、しきりに腕(うで)がなって押(お)さえきれなかった北山王は、よもや腹心(ふくしん)の部下に騙(だま)され、裏切(うらぎ)られるとは露程(つゆほど)も知らず、その進言(しんげん)を喜んで聞き入れてしまいました。そして早速(さっそく)、城門(じょうもん)を開くやいなや、自分自(みずか)ら撃(う)って出たのでした。
この時、王に従った兵士も皆(みな)、この期(き)を待ちに待っていた選り選(えりすぐ)りの強者揃(つわものぞろ)いで、縦横無尽(じゅうおうむじん)に敵を攻めたて、多くの敵の将兵を斬(き)り刻(きざ)みました。その勢(いきお)いたるや、まるで嵐を前に木(こ)の葉が舞(ま)うようであり、寄(よ)せ手であった中山(ちゅうざん)の兵の大半は、みるみる討(う)ち破(やぶ)られていくしか、術(すべ)がありませんした。
しかしその間(かん)に太原は、王妃(おうひ)や侍女(じじょ)達が詰(つ)める院内(いんない)に駆(か)け込(こ)んで、こう言い放(はな)ったのでした。
「王が、敵の刃(やいば)にかかり、討ち死に(うちじに)されました。」と。
この誠(まこと)しやかな嘘(うそ)に、そこにいた人々は、見事に騙(だま)されました。
中には、襷(たすき)十字(じゅうじ)に、甲斐甲斐(かいがい)しく長刀(なぎなた)を握りしめ、今にも敵(かたき)を討(う)とうと飛び出そうとする女(もの)までいました。しかしながら、唯一(ゆいいつ)頼(たの)みとしていた王が、討ち死にしてしまった今となっては、これから何(なん)の生き甲斐(いきがい)あって、生きながらえることなど出来ようかと、王妃をはじめとする、内院(ないいん)すべての女、子ども達は、そう思って、ひとり残らず自害(じがい)して、相果(あいは)ててしまったのでした。
一方で、敵(てき)を蹴散(けち)らし、奮戦(ふんせん)著(いちじる)しい王は、一息(ひといき)つこうと、内院に戻(もど)って、そこで夢にも想像しなかた惨状(さんじょう)を目(ま)の当たりにしました。王妃、子ども、侍女達の自害した有様(ありさま)を見て、気が狂わんばかりになりながら太原のところにゆき、怒(いか)り心頭し(しんとう)していうことには、
「この有様(ありさま)は、一体どういうことなのだ。」と。
そう怒鳴(どな)りつけました。
すると、即座(そくざ)に剣(つるぎ)を抜(ぬ)きながら太原が言うことには、
「今更(いまさら)、王は無道(ぶどう)なのだ。我々北山は、中山に降伏した。」と。
攀安知王(はんあんちおう)は、即座(そくざ)に太原(てーはら)の謀反(むほん)を知るやいなや、刃向(はむ)かう太原と渡り合い、斬って捨てました。そして、自害した王妃、子ども、侍女達を前にして、恭(うやうや)しく合掌(がっしょう)しながら、長い間、悔(くや)し涙を流し続けました。
しかし、時(とき)既(すで)に遅く、寝返(ねがえ)った太原と内通(ないつう)して城に忍び込(こ)んでいた中山兵が、この時とばかり一斉(いっせい)に、あちこちの城の建物に、火を放(はな)ちました。更(さら)に折(おり)からの強風のため、炎(ほのほ)は天を焦(こ)がす勢(いきお)いで、みるみる燃え上がったのでした。
攀安知王(はんあんちおう)は、日頃から信心(しんじん)していた城内(じょうない)の護国の社(やしろ)の前に行き、祀(まつ)ってあった神石(しんせき)を蹴(け)り飛ばして言うことには、
「貴様(きさま)は、目頃、あれ程(ほど)崇(あが)めて、祀(まつ)ってやったというのに、何故(なぜ)、我々を庇護(ひご)しないか。もう、この北山は滅亡だ。貴様だけは絶対に生(い)かしては置(お)けん。」と。
そう言うなり、愛用の剣(つるぎ)千代金丸(ちよかねまる)を振(ふ)り上げるなり、叩(たた)き斬(き)ったのでした。すると石は、四つの石塊(せっかい)になりました。
それから王は、返す力(ちから)で、自(みずか)らの首を刎(は)ねて死のうとしました。
しかし、流石(さすが)に神霊(しんれい)が宿(やど)る宝剣(ほうけん)千代金丸(ちよかねまる)は、主人(しゅじん)を殺すに忍(しの)びなかったとみえ、忽(たちま)ち鈍刀(どんとう)となって斬(き)れなくなりました。刀の意志を知った王は、千代金丸を、城の後方に流れる志慶間川に投げ捨てるなり、別(べつ)の刀で自害(じがい)して果(は)てたのでした。
それから、後のことです。
千代金丸は、親泊村の東、水張川(みずはりがわ)に流れていきました。
そして、剣のあるところから、毎夜(まいよ)、光が天に向かって差(さ)し輝(かがや)き、その光は高く星空を照らし出しました。大雨(おおあめ)の夜でも、又(また)、嵐(あらし)の夜半(よわ)でも、その光は一向(いっこう)に消えることがありません。人々は、あまりのことに、恐れて近づきませんでした。
しかしこの話を伝え聞いて、これを非常に不審(ふしん)に思った、ある伊平屋の人物が、わざわざ船で海を渡ってきて、よく見てみると、水中(すいちゅう)に一振(ひとふ)りの剣(つるぎ)があるのがわかって、光はそこから発(は)っせられているではありませんか。そこで、直(す)ぐ水に潜(もぐ)ってこれを手にしてみれば、ただならぬ剣であることは、最早(もはや)、疑いようもありません。
これは、私のような者がもっているべき品ではないと即座(そくざ)に判断し、直(す)ぐさま、首里城に参上(さんじょう)し、王に、恭々(うやうや)しく献上(けんじょう)しました。
王は、殊(こと)の外(ほか)お喜びになって、自分の愛刀(あいとう)となさいました。
この剣こそが、琉球第一の銘刀(めいとう)であり、これが誰もが知る千代金丸にまつわる有名な話でございます。
※註
~北山城趾(じょうし)は、今帰仁村今泊の東の丘の上にあって、城内に入る両側に、石を畳(たた)んで物見櫓(ものみやぐら)の跡(あと)がある。この一帯の耕地はアタイ原といわれて、旧部落の屋敷趾も残っている。そこからは、陶器、石臼(いしうす)等(など)の古器物がよく出土(しゅつど)するが、附近の原野中に点在する小祠には「阿応理恵御殿ノロ殿内」「根神殿内」等の社趾がある。城は、標高二百尺、周囲は三重の石垣を巡らせて、後に久公(くぼう)嶽、東は数十丈の断崖(だんがい)になっていて、城内は十余町。門壁は崩れているとはいえ、前面は、高さ数丈もあり、昔日(せきじつ)の面影を今も尚(なお)充分にとどめている。本丸(ほんまる)の中央に一つの碑(ひ)、「山北今帰仁監守来歴碑」があり、これから五、六間右に折れた木の下は、受剣石がある。石碑は、乾隆十四年(一ヒ四九年)、今帰仁王子朝忠(宣謨)が建立した。国頭郡誌によれば、北山王時代の交那交易(しなぼうえき)の影響を示す遺跡とあり、唐船畑という地名も残っている。今帰仁城下の下田原にあって、この地は三山時代の港湾であり、支那貿易船の碇泊所であったとのことだが、数百年の間に陸地となって、初めは唐船小堀と称したものの、やがて畑となって、唐船畑と呼ばれるようになった。
※注
【尚巴志王】(しょうはし・おう)1372年~1439年6月1日。在位1421年~1439年。統一された琉球國の歴史は、最初の第一尚氏(しょうし)王統(おうとう)と、続く第二尚(しょうし)王統(おうとう)に分かれるが、第一尚氏王統を建国した、まさに琉球國の事実上じじつじょうの創始者そうししゃ)が、尚巴志。父の尚思紹(しょう・ししょう)王を初代の王にし、尚巴志は尚思紹王(しょうししょう・おう)の子として、琉球國・第一尚氏王統第2代目の国王となっている(※「尚思紹王」は、正式には「思紹王」。王府の資料やそれを受けた資料には「尚思紹」とあるが、「尚」の姓を名乗るのは尚巴志が最初で、以後の王も「尚」を名乗ることになる。思紹の進貢記録『明実録』でも思紹、琉球國中山王の詔も思紹)。尚巴志は、父の思紹(※尚思紹と呼ばれる以前は、苗代大親(なわしろうふや)と呼ばれていた)、母である、佐敷村の豪農、美里子(みざとのし)の娘の長男として生まれる。思紹の父は「鮫川大主(さめかわうふぬし)」で、母は大城按司の娘。鮫川大主は、伊平屋(いへや)島から馬天港(ばてんこう)へ渡ってきた。
尚巴志(しょうはし)は、21歳の時、父の後を継(つ)いで南山(なんざん)の、佐敷按司(さしきあじ)となったが、まだこの時の名は巴志(はっし)で、後に明(みん)の国王より「尚」の姓をもらってから尚巴志と呼ばれる。1406年、中山王(ちゅうざんおう)武寧(ぶねい)を攻めて察度王朝(さっとおうちょう)を滅ぼし、首里(現在の那覇一帯)を首都とし、父を尚思紹中山王として即位(そくい)させる。1416年に北山(ほくざん)を攻め落とし、次男の尚忠を北山監守にして北部を治めさせる。その後、尚思紹王の死去により、1421年、中山王として即位(そくい)。1429年に、南山王(なんざんおう)他魯毎(たるまい/たるみい/たるみー、等)を滅ぼして、それまで続いてきた、沖縄本島の三山(さんざん)を統一して、初めて統一国家を成立させた。
また、国王として在位中(ざいいちゅう)は、首里城(すいぐすく/しゅりじょう)を拡張整備(かくちょうせいび)し、王城(おうじょう)に相応(ふさわ)しい城にした。同時に、安国山に花木を植え、中山門を創建し、外苑を整備した。特に、那覇港の整備に力を入れることによって、中国をはじめ、日本、朝鮮、南方諸国等、海外との交易(こうえき)を盛んに行うことによって、琉球の繁栄(はんえい)の基礎を確立した。
【北山城】(ほくざんぐすく/ほくざんじょう)今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう)の別名。14世紀、琉球王国三山(さんざん)時代の三山の一つ北山王の居城(きょじょう)。現在、首里城についで整備された、沖縄の名城の一つ。
Posted by 横浜のtoshi
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