~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第88話。


知念御殿(ちねんうどん/うどぅん)


 むかし知念村に、古根(こね)という男がいました。
 職は大掟(うふうっち。役場の上席吏員)で、人格は優(すぐ)れ、孝行(こうこう)の道を守り、物事(ものごと)を全(すべ)て正直に行いました。
 善い事をする人がいると、大層(たいそう)喜んでその人を愛し、もしもその人が貧乏(びんぼう)で苦しんでいたりすると、惜(お)しみなく自分のお金を出して助けてあげる程(ほど)でした。
 逆に、人が悪い事をすると、愛情を込(こ)めてこれを教え諭(さと)し、導(みちび)き、どうしても聞き入れない時だけは、道義(どうぎ)をもってどこまでもその罪を責(せ)めました。
 彼の、公正、かつ、至極(しごく)な裁(さば)きは、いつも情の上に成り立っているために、村人達は心服(しんぷく)し、不平を言う者など一人もいませんでした。
 但(ただ)し、心が暗い不頼漢(ぶらいかん)だけは、この人の前に出る事さえ恐れていたということです。
 村は「大掟(うふうっちの)(めえー)」を、非常に敬い、また崇(あが)めました。偉(えら)い人物や、貴(とうと・たっと)い方に、「何某(なにがし)の前(めえー)」と、尊称(そんしょう)を付けて言うようになったのは、この人から始まったとのことです。
 時の王は、古根(こね)の人柄(ひとがら)をお聞き及(およ)びになって、御褒美(ごほうび)に、お賞(ほ)めの言葉を下(くだ)されました。
 また、ある日のこと、王様が久高島(くだかじま)に行幸(ぎょうこう)なされる途中(とちゅう)で、行列が知念村を通って行く際の事でしたが、俄雨(にわかあめ)が急に降(ふ)り出しました。
 王が家来(けらい)に向かって言うことには、
 「行き先まではまだ遠いのに、大雨は一向(いっこう)に止(や)みそうな気配(けはい)がない。しばらく、駕籠(かご)をこの村に停(と)めて休もう。」と。
 そう仰(おう)せられて、古根宅(たく)に、御臨幸(りんこう)されました。
 古根は、王様のお越(こ)しの光栄(こうえい)を受けて、親(した)しくお顔を拝(はい)し、嬉(うれ)し涙にむせび泣いて感激(かんげき)しました。
 尚、この時に王は、初めて古根に妻がいないのをお知りになって、かねてから王の耳に達していた内間邑の優(すぐ)れて美しい女を娶(めと)らすようにと、御命令されました。
 皆(みな)に祝福(しゅくふく)された二人でしたが、子どもが生まれず、古根は妻に先立って亡(な)くなりました。
 それを王はお嘆(なげ)きになり、妻方の親族の一人を養子に決められて、知念地頭職をお授(さず)けになられました。
 この人を、内間大親と言います。
 王は大親に命じて、自分のお金を出し、知念城に御殿(うどん/うどぅん)を造らせ、城主を大親にしました。そして、東廻(あがりうーまい)の時には、休憩(きゅうけい)する場所になさいました。
 王の限りないお慈(いつく)しみに、大親は深く感謝し、年々、新米を収穫(しゅうかく)すると、必ずお神酒(みき)を造って献上(けんじょう)しました。
 そんな、ある日のことでした。
 お神酒を献上(けんじょう)する使い達が、佐敷村の前を通った時に、果(は)たして沢山(たくさん)の盗賊(とうぞく)達が出て来て、お神酒を奪(うば)ってしまいました。そこでまた、更(さら)に二度目の使いを出すと、この時も同様(どうよう)に盗(と)られました。
 内間大親は、勇気も力も、ずば抜(ぬ)けたの将(しょう)であったため、使いの者の中に変装(へんそう)して紛(まぎ)れ込(こ)み、自分自(みずか)ら、お神酒の担(かつ)ぎ手になって出発したところ、又(また)しても盗賊が出て来ました。
 ところが盗賊の頭目(とうもく)でさえも、大親の勇気と力の前には赤児(あかご)の手をひねるようであり、いとも簡単(かんたん)にねじ伏(ふ)せられて、放々(ほうほう)の体(てい)で逃げようとしたところを捕(と)らえられてしまいました。盗賊の頭目は、心の奥底から深く自分の非(ひ)を悟(さと)り、改心を誓(ちか)い、命乞(いのちご)いをしました。
 大親は、悪の心を諭(さと)して、以後、心を悔(く)い改(あらた)めるようにと、きつく言い聞かせた上で、許しました。
 改心した頭目初め、盗賊一党は皆(みな)、それからというもの、国に忠実(ちゅうじつ)かつ真面目(まじめ)な農民となり、また大親に深く恩(おん)を感じて、水田、五、六十畝を開田(かいでん)し、大親に差し上げたいと申し出ました。
 「是非(ぜひ)とも、受け取って頂(いただ)きたい。」との頼みに、大親は、再三(さいさん)辞退しましたが、最後にはその誠意(せいい)を汲(く)んで、貰(もら)い受けることにしました。その田は今も佐敷村にあり、「知名田」(ちなだ)と言われています。
 ある年、旱魅(ひでり)が続いて、何処(どこ)の田畑でも、凡(すべ)ての作物が枯(か)れ果(は)ててしまいましたが、知名田だけは稲が実(みの)りに実って、見渡す限り黄金(こがね)の波をたたえていました。
 そんなある日、四、五十人の盗賊がやって来て、田の稲を勝手(かって)に刈(か)り始めました。大親は、勇気を出して、大勢(おおぜい)の中に飛び込(こ)んでいき、体に当たったのを幸(さいわい)に、片っ端(かたっぱし)から盗賊を蹴散(けち)らし、たった一人で追い払(はら)いました。
 しかし又(また)、盗賊はきっとやって来るに違いないと考えた大親は、その夜、田圃(たんぼ)の番をしていました。
 その時、闇(やみ)の中を飛んできた矢に、胸を射抜(いぬ)かれ、内間大親は無惨(むざん)な最後を遂(と)げてしまいました。
 なお、尚豊王の御代(みよ)に、大殿の守番(もりばん)していた御殿を、知念城の内へ移して、改めて建てかえられました。
 現在、知念御殿といわれているのが、その御殿です。
 その頃までは、茅葺(かやぶき)が主(おも)に用いられていましたが、尚貞王様の御代になって、瓦葺(かわらぶき)に改められました。


※註
~『琉球国由来記』には、「知念城内は知念ミコ波田真ミコが祭杞す」と出ている。
 
※注
【内間大親】第二尚氏の始祖、尚円がクーデターによって王になる以前に、「内間ノロ」との間にもうけた息子であるという説もある。
【知念城】知念城の築城の年は不明。古城(こーぐすく)と呼ばれる野面積(のずらず)み石垣の郭と、新城(みーぐすく)と呼ばれる切石積(いしきりず)み石垣の郭に分かれていて、両者の築造時期には、かなりの時代の差があるとされている。伝説によると、古城は、天孫氏時代の築城と伝えられているので、12世紀末~13世紀の築城と考えられる。新城は、「内間大親」という者が築城したと伝えられているが、尚真王代の15世紀後半の築城とも考えられる。また、王国時代から現在に至るまで「東御廻(あがりうまーい)」の巡礼地として、多くの人たちがここを訪れて拝んでいる。


Posted by 横浜のtoshi





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