てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版) › 89大神宮の話(うふがぬみやのはなし) ~琉球沖縄の民話

~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第89話。


大神宮の話(うふがぬみやのはなし)


 むかし、知念間切(ちねんまぎり)安座間村(あざまそん)に、大神宮(うふがぬみや)という男がいました。
 身長は十尺(じゅっしゃく)、大力無双(だいりきむそう)で、百二十才まで生きたといわれます。当時は、亡くなった人を葬(ほうむ)ってから三日目に、棺(かん)を開いて見るのが習慣(しゅうかん)でしたが、開いてみると彼の棺は、一杯に木の葉(このは)が詰(つ)まっているばかりで、その死骸(しがい)は、蔭(かげ)も形もありません。
 親戚(しんせき)は、大層(たいそう)驚愕(きょうがく)して、これはどういうことだ。只(ただ)の人間ではない。きっと神様であったに違いないと思い、相談して、村内に祠(ほこら)を建てて祀(まつ)ることにしました。
 それから毎年、四月十八日にこれを祭るようになったのが、大神宮祭りだということです。
 尚(なお)、大神宮の子は親嶽(おやだけ)といいましたが、この人が又(また)、父に劣(おと)らぬ大力で、武芸(ぶげい)ではその右に出る者がいませんでした。
 たまたま親嶽が生きていた時に、大島が謀反(むほん)を起こした時、王は親嶽に命じて、征伐(せいばつ)させました。
 親嶽(おやだけ)は、軍兵を指揮(しき)して、海路(かいろ)遙々(はるばる)大島を攻めましたが、強力の親嶽でも衆寡敵(しゅうかてき)せず、とうとう軍を返して、引き上げるしかありませんでした。
 そこで次に、王、自(みずか)ら御親征(ごしんせい)され、親嶽は、王に次(つ)ぐ大将となって、大島を攻めました。
 王の御威光(ごいこう)の下(もと)で謀計(はかりごと)を巡(めぐ)らせながら、勇気を奮(ふる)って戦った親嶽は、今度(こんど)は大勝利をおさめ、凱旋(がいせん)しました。
 親嶽は、その戦功(せんこう)により、南風原与那覇村に田畑を賜(たま)わり、今はこの地を、古羽真志田(こばました)といっています。
 親獄は、与那覇親雲上と敬称(けいしょう)されるようになりました。なお、父の大神宮は、大きな睾丸(こうがん)を持っていたとのことで、それが次から次へと伝わって、今でもその子孫は皆(みな)、睾丸が大きいとのことです。


※注
【知念間切】(ちねんまぎり)知念の以前の発音では「ちにん」など。
【安座間村】(あざまそん)現在は、南城市の一地域となっている。
【大神宮】(うふがぬみや)「うふぢちう」という言い方は、うふぢは「大」、「ちう」は睾丸の意。
【十尺】(じゅっしゃく)一丈=十尺、尺=十寸、一寸=3.03cm。よって十尺=約3メートル。
【大力無双】(だいりきむそう)非常に強い力。また、強い力の持ち主。
【大島】奄美大島。
【驚愕】(きょうがく)スル)非常に驚くこと。
【衆寡敵せず】(しゅうかてきせず)多数と少数では相手にならない。少数では多数にかなわない。寡は衆に敵せず。
【親征】(しんせい)天子が、みずから軍を率いて征伐に出ること。
【睾丸】(こうがん)多くは「きんたま」と訳していたりするが、それは俗(ぞく)な言い方。沖縄で最も有名な妖怪に「きじむなー」がいるが、その特徴の一つにやはり睾丸が大きいとある。琉球沖縄を知っていくとこの表現によく出くわす。


Posted by 横浜のtoshi





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