~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第94話。


熱田子(あったし)


 むかしむかし、西原の幸地城(こうちぐすく)の主(あるじ)であった豪族(ごうぞく)、熱田子(あったし)は、大変に知略(ちりゃく)に秀(ひい)でた武勇(ぶゆう)の達人で、その時代は誰しもが恐れをなしました。
 南側の隣(とな)り村、小波津(こはつ)の津喜武多按司(ちきんたあんじ)と親交(しんこう)を結んで、仲がよい間柄(あいだがら)になりましたが、熱田子の真の目的は、按司の奥方(おくがた)の美貌(びぼう)に惚(ほ)れ込(こ)み横恋慕(よこれんぼ)していたためともいわれています。
 ある日のこと、熱田子が魚釣りの帰り、その奥方が亭良佐川(てらさかわ)で艶(つや)やかな黒髪を洗っているのを見て、こっそり奥方の後に回って泥土を投げていたずらしました。
 奥方は非常に立腹(りっぷく)し、そのことを夫の按司に報告したところ、それを聞いた按司は怒り心頭(しんとう)したものの、何しろ相手は侮(あなど)り難(がた)い力(ちから)をもっています。その場は取(と)り敢(あ)えずは兵を動かすことなく、機会を待つことにしました。
 その一方で、そのことを早くも耳にしていた熱田子は、先(さき)んずれば人を制すと、腕が立つ腹心(ふくしん)の部下、数人を密(ひそ)かに呼んでいうことには、
 「今こそ此(こ)の機会を利用して、早目(はやめ)に手を打ち、災(わざわ)いを取り除いてしまおう。」と。
 そして充分(じゅうぶん)に練(ね)った策(さく)を部下に伝えると、熱田子は部下達と共に按司を訪問(ほうもん)し、今回のことは行き違いによるものだと上手(うま)く説明して、謝(あやま)ったのでした。按司は、相手の丁重(ていちょう)な謝罪(しゃざい)を受け入れ、直(す)ぐさま仲直(なかなお)りのための酒宴(しゅえん)を催(もよお)し、歓待(かんたい)することになりました。
 宴(えん)もたけなわになった頃、熱田子が按司に向かって言うことには、
 「按司どのは、なんでも世に優(すぐ)れた宝剣(ほうけん)をお持ちと、お聞きしております。以前から、是非(ぜひ)とも一目(ひとめ)、拝見させて頂(いただ)きたいと思っておりました。」と申(もう)し出たところ、それが許(ゆる)されました。
 按司が宝剣を熱田子に手渡すと、その宝剣を手にするやいなやその瞬間に、熱田子は按司を一刀両断(いっとうりょうだん)に斬(き)り捨てました。続いて一族はじめ、その場にいた者達を片(かた)っ端(ぱし)から皆殺(みなごろ)しにしました。
 そして、思いを寄せてきた美しい奥方(おくがた)を、熱田子は色々と説(と)き伏(ふ)せようと、あれこれ試(こころ)みましたが、貞節(ていせつ)な妻は、夫殺しの熱田子を憎(うら)みながら井戸に身を投げ、自(みずか)ら果(は)てました。
 さて、遠縁(とうえん)の上に按司と仲が良かった今帰仁(なきじん)按司は、このことを伝え聞くなり大変に激怒(げきど)し、自(みず)ら討伐(とうばつ)するため、大軍(たいぐん)を率(ひき)いて、直(す)ぐさま出陣(しゅつじん)したのでした。
 衆寡敵(しゅうかてき)せずと見てとった熱田子は、この戦(いくさ)は、策略(さくりゃく)で勝(まさ)る外(ほか)、万が一にも勝ち目はないと考えました。
 そこで、城門(じょうもん)を開け放ち、今帰仁勢を待ちました。そして敵の軍が到着するなり、熱田子は自分自(みずか)ら今帰仁按司を出迎(でむか)え、平身低頭(へいしんていとう )して自分の罪(つみ)を認めて謝(あやま)り、今帰仁の大軍を、自分の城に入城させたのでした。そして熱田子は、大々的(だいだいてき)に酒の席(せき)を設(もう)け、遙々(はるばる)やってきた遠征(えんせい)をねぎらいました。全く戦わずして勝った今帰仁の軍は、勝ち戦(いくさ)と有頂天(うちょうてん)になり、夜が更(ふ)けるのも忘れ、思う存分(ぞんぶん)に酒を飲み、御馳走(ごちそう)をたらふく食べました。
 奸智(かんち)にたけた熱田子は、事前(じぜん)に自分の軍兵を、城の近くの翁長村の北山に伏(ふ)せさせ、待機(たいき)させていました。合図(あいず)によって、熱田子の軍が城に攻め寄せた時、今帰仁勢は殆(ほとん)ど応戦(おうせん)することも出来ずに、難(なん)なく攻め滅ぼされてしまったのでした。そして今帰仁按司もまた、討(う)ち死(じ)にしました。後世の人はその死を悼(いた)んで、翁長村の北山を「今帰仁山」と言うようになりました。
 なお今帰仁按司には、四人の息子達がいました。その四人は堅(かた)く仇討(あだう)ちを誓いました。熱田子を倒すべく兵馬の訓練を積み、後に、不意(ふい)をついて熱田子を急襲(きゅうしゅう)。流石(さすが)に戦国の世に名をはせた武将も、遂(つい)に討(う)ち亡(ほろ)ぼされ、四人の息子は熱田子を倒して、津喜多按司と父親の仇(かたき)を討ちました。
 なお熱田子の墓は石嶺御嶽の東にあり、また子孫が翁長村に多く、今でもたびたび香華(こうげ)が手向(たむ)けられ、乱世の戦国の英雄として面影(おもかげ)が偲ばれるほど、未だに人気があるとのことです。


※注
【西原】(にしはら)西原間切(まぎり)西原の以前の発音では「にしばる」など。
【幸地】(こうち)以前の発音では「こーち」など。
【小波津】(こはつ)小波津村。以前の発音では「くふぁつぃ/くふぁち」など。
【津喜武多按司】(ちきんたあんじ)城は、チチンタグスク(ちちんたぐすく)はじめ、津喜武多グスク(つきむたぐすく)、津記武多グスク(ちちんたぐすく)、チキンタグスク、チンタグスク(ちんたぐすく)など。
【横恋慕】(よこれんぼ)他人の妻や愛人に、横合いから思いを寄せること。
【先んずれば人を制す】『史記』~項羽本紀。他人よりも先に事を行えば、有利な立場に立てる。
【衆寡敵せず】(しゅうかてきせず)多数と少数では相手にならない。少数では多数にかなわない。寡は衆に敵せず。
【翁長村】(おながそん)以前の発音では「うなが」など。


Posted by 横浜のtoshi





コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版)」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法