~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第98話。


化け物退治(ばけものたいじ)


 その昔、支那(しな)から沖縄に移住(いじゅう)して来(き)た、久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)の末裔(まつえい)の一人に、鄭憲(ていけん)という、大力無双(だいりきむそう)の勇士(ゆうし)がおりました。
 久米村(くめそん)の重役であった、大夫(たいふ)という官職(かんしょく)にあり、世間では鄭大夫(ていたいふ)と呼ばれ、大変に尊敬を集めている人物でした。
 ある夜のことです。
 何とも陰気(いんき)な晩で、そこらじゅう、化け物(ばけもの)が徘徊(はいかい)しそうな、気味(きみ)悪い夜のことでした。
 「鄭大夫(ていたいふ)・・・・・・鄭大夫・・・・・・」と、門の外から、力強く呼ぶ大きな声が、突然(とつぜん)何度か、聞こえました。
 この声にこたえるように、大夫(たいふ)が出て行こうとするのを止(と)めて、夫人が言うことには、
 「用心しなくていけません。あの声は、普通の人間のものとは、少し違います。あなたに、もしもの事があっては大変です。どうぞ、充分(じゅうぶん)に気を付(つ)け、決して警戎(けいかい)を怠(おこた)らないで下さい。」と。
 そう言われてた大夫(たいふ)は、心配する夫人を安心させるべく、にっこりと笑顔を返しました。
 そして思いました。何事(なにごと)も、用心に越したことはないと。大夫は、改めて気を引き締(し)め直(なお)し、愛刀(あいとう)を懐(ふところ)にして、出掛(でか)けました。
 門の外に出てみると、暗闇(くらやみ)に、まるで太陽の輝きにも似た眩(まぶ)しい二つの眼が光っていました。
 よく見ると、大きな一頭の牛です。
 その牛は、まるで落雷(らくらい)が落ちた時の響(ひび)き、さながら、大きく一声(ひとこえ)、吼(ほ)えるなり、大夫をめがけて、突進(とっしん)してきました。
 そしてその角(つの)が、まさに肉体に突(つ)き刺(さ)さるかと思った瞬間のことです。
 咄嗟(とっさ)に出た、大夫の頑強(がんきょう)な両腕が、がっちりと、牛の両方の角(つの)を握り締(し)めました。そして大夫は、全身で、その場になんとか踏(ふ)み留(とど)まりました。
 続いて大夫は、渾身(こんしん)の力を振(ふ)り絞(しぼ)りながら、そのまま怪物の大きな牛を、唐守森(とぅーまむい)の前まで、じりじりと、押し続けたのでした。
 勿論(もちろん)その間、牛もまた、あらん限りの力で、ぐいぐいと、大夫を押し倒そうと何度(なんど)も試(こころ)みました。
 そうこうしながら、その死闘(しとう)は、まったく決着がつかないまま、夜明けまで続いたのでした。
 東の空の彼方(かなた)がかすかに白(しら)み始めました。
 流石(さすが)に疲(つか)れ果(は)てていた大夫は、考えた上、残っていた最後の力を振(ふ)り絞(しぼ)り、どうにか怪物の大きな牛を、近くの大きな岩の脇(わき)に押しつけ、身動(みうご)きが出来(でき)ないようにしてから、待ちました。太陽さえ昇(のぼ)れば、やがて加勢(かせい)が加わるのは時間の問題です。
 そうしているうちに、ふと雲間(くもま)が切れ、雲の向こう側に昇っていた太陽の光が、辺(あた)りの暗闇を、照らし出したのでした。それを幸(さいわ)いに、大夫は、改めて大きな牛を、よく見ようと思いました。
 ところがなんと、目にしたものは、年数を経(へ)た、敗れ龕(やぶれがん・葬式の柩(ひつぎ)の古い輿(こし))ではありませんか。
 それからというもの、その大きな岩は、「鄭大夫岩」と言われるようになり、今でも唐守森の前にあるとのことです。


※註
~「大夫」は久米村独特の称号。『中山伝信録』に久米村の官職名が書かれている。
「紫金大夫」~従二品久米村を統治し、俗に総役ともいい、三司官座に列席し、三司官になる資格がある。
「正議大夫」~進貢副使となり、冊封儀式や重要な外交の衝に当たり、申口座ともいう。
「中議大夫」~この職は、冊封の時、定員なく、正議大夫の補佐役を務める。
「長史」~(ヂャグシ)進貢、接貢の事務担当官。
「都通事」「副通事」「存留通事」いずれも、支那との通訳、翻訳官。
 
※注
【久米三十六姓】(くめさんじゅうろくせい)久米三十六姓とは、1336年に明(みん)の国から琉球に渡り、久米村(後の那覇市久米付近)に定住した中国人達の事。琉球王国を支え、琉球と中国との交易(こうえき)に、なくてはならぬ人たちとして貢献(こうけん)した。また琉球王朝時代、三司官(さんじかん)はじめ要職(ようしょく)について琉球王国を支え、蔡温や謝名利山など、多くの偉人(いじん)を輩出(はいしゅつ)した。
【末裔】(まつえい)子孫。血統。後裔。末孫。ばつえい、とも。
【重役】(じゅうやく)責任が重い役目や役職。大役(たいやく)
【徘徊】(はいかい)目的も当(あ)てもなく、うろうろと歩き回ること。
【中山伝信録】(ちゅうざんでんしんろく)この場合の、中山は、琉球の異称。中国の地誌。6巻。徐葆光(じょほうこう)の著書。1721年に成立。前年、清(しん)の国の外交使節として訪れた琉球国での見聞(けんぶん)を、清の皇帝への報告書としてまとめた書物。琉球の研究資料としてよく知られる。
【冊封】(さくほう/さっぽう)古く中国で、天子(てんし)が臣下(しんか)や諸侯(しょこう)に冊(さく/文書)をもって爵位(しゃくい)を授(さず)ける、漢の時代に始まったもの。のちに、中国の皇帝が、その周辺諸国の国家君主(くんしゅ)に対して、属国(ぞっこく)の国王として、その即位(そくい)を認める文書を与え、君臣関係を結んだ。この関係によって作られる国際秩序(ちつじょ)を冊封体制(さくほうたいせい)と呼ぶ。特に、明(みん)の太祖洪武帝(たいそ・こうぶてい)の時代ともなると、明(みん)の国を頂点とする強力な体制を築(きず)くために、琉球も、その一員に加えるべく、再三(さいさん)にわたって、使節団(しせつだん)が派遣(はけん)された。琉球は当時、三山(さんざん)時代で、中山王(ちゅうざんおう)の察度(さっと)が最初それに応(おう)じ、進貢使(しんこうし/ちんくんし)(※進貢使の正使は耳目官(じもくかん)、副使は正議大夫(せいぎたいふ)という。)を送り出して宝物(ほうもつ)を献(けん)じて最初に応(おう)じた。やがて、南山(なんざん)、北山(ほくざん)も入貢(にゅうこう)する。特に、尚巴志(しょうはし)が三山を統一して、琉球国となってからは、明の冊封体制の仲間入りを果(は)たすことになり、以後、琉球の国王が代わるたびに冊封使(さくほうし)を迎(むか)え、大々的に載冠式(たいかんしき)が行われるようになる。中国からやってくる冊封使は300~500名にのぼり、6~8ヶ月間、琉球に滞在(たいざい)。冊封使を迎えることは、琉球国にとって、大変な一大行事で、式典(しきてん)は、首里城(しゅりじょう/すいぐすく)の中心、正殿(せいでん)前の紅白の前庭(まえにわ)の御庭(うなー)で行われた。そこまでした理由が最も重要である。冊封体制の一員となり、進貢国(しんこうこく)となった琉球国は、単に、中国皇帝へ貢物(みつぎもの)を差し出すだけなのではなく、国として認知(にんち)されるとともに、中国への貢物(みつぎもの)を運んだ船「進貢船(しんこうせん)」が、帰りに、中国の特産品を山のように満載(まんさい)して戻(もど)ってきたからである。また時には、豪華(ごうか)な船そのものまで贈られた。琉球国は、その莫大(ばくだい)な財(ざい)をもとにして、アジア各地で貿易を展開し、さらに膨大(ぼうだい)な財を得た。それこそが、1429~1879年の450年間、琉球国を支えたのであり、やがて日本の薩摩に目を付けられる理由となる。



Posted by 横浜のtoshi





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仲本さま、こんにちは。

すみません。
つい、解説を書いている途中、そのまま寝てしまいました。

解説は、朝、書きましたので、
読みにくかったと、思います。

次回、つまり、今晩は、
この「鄭大夫」と、その「妹」(※主演)の話です。
宜しければ、お読み下さい。

いつもコメント、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年08月02日 13:15


toshi さん
久米36姓の末裔の一人として興味深く読ませていただきました。
私どもの陳氏系図には通事の職であったと記されております。
それに、鄭大夫が見たのは、太陽の光で見えた「敗れ龕」。
今日は8月1日は朝日が光り輝きました。太陽のパワーを頂きました。
光が闇に勝った日のように思いました。
ここで偶然にも太陽と出たのには驚きでした。
いつも興味ある、お話しに感謝しております。
ありがとうございます。
Posted by 仲本勝男仲本勝男 at 2010年08月01日 22:58


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