てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版) › 103樽良知と大里鬼(たらちと、おおざとおに) ~琉球沖縄の民話

~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第103話。


樽良知と大里鬼
(たらちと、おおざとおに)


 むかし、喜屋武(きゃん)の束辺名(つかへな)に、樽良知(たらち)という人がおりました。
 体が小さいものの、その力は他(ほか)に匹敵(ひってき)する者がない程(ほど)でした。
 ある日のことです。
 材木(ざいもく)を一杯に積んだ国頭山原船(くんじゃんやんばるふに)が、直(す)ぐ近くで錨(いかり)を下ろして、材木を売っていました。
 樽良知は、全部まとめて買い取ろうと、色々と相談しましたが、船人(ふなびと)達は、少しでも高く売り付(つ)けようと、「小売りでないと、売らない。」との一点張(いってんば)りで、少しも譲(ゆず)ろうとしません。
 樽良知は、その目先(めさき)だけの小狡(こずる)さに、とうとう怒(おこ)り出し、材木を積んだ船もろとも、砂浜に引き上げてしまいました。
 そしてそのまま、家に帰ってしまいました。
 この恐(おそ)ろしい強力(ごうりき)に、舌(した)を巻(ま)いた船人達は、長居(ながい)は無用(むよう)と、船を浜から海に戻(もど)そうとしましたが、船は、びくとも動きません。
 船人達は、最後には精根(せいこん)(つ)き果(は)ててしまいました。そしてみんなで相談の末(すえ)に、材木を、樽良知の家に運びました。
 そして、先(さき)の失礼をお詫(わ)びし、まとめて買ってくれるようにと、平身低頭(へいしんていとう)して、売ったのでした。
 相手が丁寧(ていねい)に謝(あやま)ってきたため、すっかり気分(きぶん)を直(なお)した樽良知は、浜まで出掛(でか)けてゆきました。
 そして、いともやすやすと、船を海に下(お)ろして彼等(かれら)を船出(ふなで)させ、笑顔で見送りました。
 さて、その時分(じぶん)のことでした。
 大里間切に、大里鬼(おおざとおに)と呼ばれていた、手がつけられない、もの凄(すご)く力持ちの、暴(あば)れん坊(ぼう)がいました。
 大里鬼は、樽良知の噂(うわさ)を聞くと嘲笑(あざわら)い、言うことには、
 「よし、一つ、力試(ちからだめ)しを申(もう)しこんでやろう。」と。
 そして鉄の棍棒(こんぼう)を携(たずさ)えると、遙々(はるばる)喜屋武(きゃん)まで、やって来ました。
 大里鬼は、そこにいた、一生懸命に田を耕(たがや)している農夫に向かって、肩を怒(いか)らせながら威風(いふう)猛々(たけだけ)しく言うことには、
 「一寸(ちょっと)(たず)ねる。俺(おれ)は、力が強いことで有名な大里鬼(おおざとおに)だ。
 この村に、樽良知(たらち)という、小力(こぢから)の持ち主(ぬし)の男がいると聞いて、力試しをしたくて、遠くからやって来た。
 樽良知の家を、俺に教えろ。」と。
 それを聞いた農夫は、冷(ひや)やかな苦笑(くしょう)を、一瞬(いっしゅん)、口の辺(あた)りに浮かべて言うことには、
 「そうですか。
 それでは、まず一寸(ちょっと)、その鉄棒(てつぼう)を、お貸し下さい。」と。
 不思議な顔をする大里鬼から鉄棒を受け取った農夫は、軽々(かるがる)とそれを片手で持ち上げると、土の固(かた)い所に、そのまま鉄棒を突(つ)き刺(さ)したのでした。
 余(あま)りに突然(とつぜん)のことに、流石(さすが)の大里鬼が、目を白黒(しろくろ)させているのに向かって、農夫が言うことには、
 「大里鬼どの。私は、樽良知の下男(げなん)でございます。私のご主人(しゅじん)の力は、まず私の倍(ばい)といったところです。
 取(と)り敢(あ)えず、まずはこの棒を抜(ぬ)き取ってご覧(らん)なさい。そうすれば、貴方(あなた)も、相手の力の見当(けんとう)が、つくというものです。」と。
 そう言われると、真(ま)っ赤(か)な顔をしながら怒った大里鬼は、「なにを、小癪(こしゃく)な。」と言いながら、ありったけの力で鉄棒を抜こうとしました。
 ところが、簡単(かんたん)に抜(ぬ)けると思ったその鉄棒は、びくとも動きません。
 直(す)ぐに脂汗(あぶらあせ)が、たらたらと流れ出しました。
 その強力(ごうりき)の恐(おそ)ろしさに、次第(しだい)に青くなっていった大里鬼は、鉄棒をそこに打(う)ち捨(す)てたまま、一目散(いちもくさん)に、逃げ帰ったのでした。
 実は、この下男(げなん)こそが、樽良知、その人だったのでした。
 さて、それからずっと後のこと。樽良知が、かなり歳(とし)を取ってからの、お話です。
 年老(としお)いた樽良知は、日頃(ひごろ)、下男(げなん)や下女(げじょ)を連れ、田畑を耕(たがや)しに行っておりました。
 畑に着(つ)くと、自分は、やや遠くに傘(かさ)を広げて、皆(みな)の仕事を督励(とくれい)しました。
 そして日暮(ひぐ)れが近くなると、傘をすぼめて、それを仕事の終(お)わりの、合図(あいず)としていました。
 ある日のことです。
 日が暮れても、傘はそのまま、広がったままです。
 不思議に思った下男や下女が、様子(ようす)を伺(うかが)ってみました。
 すると樽良知は、跪(ひざまず)いたまま、息を引き取っておりました。相談の上、その遺体(いたい)は他(ほか)に移さないことにし、その場所を墓場(はかば)にして葬(ほうむ)りました。
 さて、それからまた、永(なが)い年月を経(へ)てからのことです。
 身内(みうち)の者がその墓を堀(ほ)る機会(きかい)がありました。
 すると、見た骨は鉄のように固(かた)く、骨と骨の継(つ)ぎ目(め)が、がっちり合わさっていて、骨と骨がくっついて離(はな)すことができなかったとう話が残っています。
 なお、沖縄の風習(ふうしゅう)として、葬式の時には念仏鉦(ねんぶつかね)を鳴らし、身近な者が号泣(ごうきゅう)する習(なら)わしがありますが、但(ただ)し、樽良知の墓の前を通る間(あいだ)だけ、いつも葬式は鉦(かね)を鳴らさず、泣くのもやめていました。
 その理由は、残念ながら伝わっていないものの、その習慣は、今日(こんにち)でも、実行されているとのことです。


※註
~『琉球国由来記』によれば、沖縄に念仏鉦が伝わったのは、尚寧王(しょうねいおう)時代の、一六〇三年。東北出身の、浄土宗、袋中上人(たいちゅうしょうにん)によって伝えられたとある。念仏(ねんぶつ)は、「南無阿彌陀仏(なむあみだぶつ)」の六文字であるが、袋中上人は、お経(きょう)を平易(へいい)な文句に和(やわ)らげて、仏教の伝導を行(おこな)った。念仏鉦は、死者への供養(くよう)を意味すると同時に、近所や隣(とな)りに対する色々な合図(あいず)の意味があったが、戦後、その風習は廃(すた)れて見られなくなってしまった。
 
※注
【樽良知】(たらち/たらーち/たらっち)
【大里鬼】(おおざとおに/うふざとおに/うふざとうに)
【喜屋武】(きゃん)喜屋武の以前の発音は「ちゃん」など。喜屋武村は具志川間切(まぎり)の村。具志川の以前の発音は「ぐしちゃー」など。
【平身低頭】(へいしんていとう)ひれ伏して頭を下げ、恐れ入ること。また、ひたすらわびること。
【大里間切】(おおさとまぎり)大里以前の発音は「うふざとぅ/うふじゃとぅ」など。
【督励】(とくれい)監督し、励ますこと。


Posted by 横浜のtoshi





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