~琉球沖縄に伝わる民話~
『球陽外巻・遺老説伝』より、第104話。
塩たく邑(しおたくむら)
潮平村(兼城)に、もと北山按司の子孫が、初めて村を建てました。
此(こ)の人は、最初に、一人で安波根下口(地名)という所の、海辺(うみべ)に近い平(たい)らな地で、隠遁(いんとん)生活をしていましたが、そこで塩を焚(た)いて、日々の暮らしをしていました。
その後、土地を少しずつ切り開いて適当な家を建て、子孫が繁栄(はんえい)するにつれて、五、六十戸の家が出来(でき)て、とうとう一つの村になりました。
この塩焚き一族がいる平地に因(ちな)んで、塩平から同音(どうおん)の潮平村(しおひらそん)に変わったということです。
今でも村の人々は、村が歩(あゆ)んできた歴史を重(おも)んじ、毎年二月、五月、八月には、村中の者が集って、祭壇(さいだん)を設(もう)けて、遙(はる)か北山(ほくざん)に向かって拝礼(はいれい)の儀式を行うそうです。
※註
~『北山王代記』(地系図といわれ、民間易者が使った記録で、信憑性が低い)によると、古北山の城主は、義本王の二男から初まり、三代目に後継ぎがなく、恵祖王の二男(英祖王の弟)が継ぎ、湧川按司と称す。この按司には後継がなく、木部大波良が乱を起こし、城を乗っ取る。湧川按司の太子(号大策原・オカワル)は、旧臣と力を合わせて、再び、城主となる。
六代目仲宗根按司の時、巴仁芝に亡ぼされ、城主の弟の一人は、具志堅村、一人は名護城村、一人は美里伊波村に逃がれる。その三人の子、伊波・大湾・山田各按司は、各地に隠れ住み、仲宗根若按司は潮平村に葬(ほう)むられるとある。
※注
【邑】(むら)邑=村。
【潮平村】(しおひらそん)潮平の以前の発音は「しゅんじゃ/すんじゃ」など。
【兼城】(かねぐすく)兼城間切(まぎり)。兼城の以前の発音は「かにぐすぃく/かにぐしく」など。
※潮平村の発祥由来として、『球陽』外巻にこの話がある。潮平には、今帰仁王子なきじんおうじ)由来伝があり、志慶真王子しきまおうじ)の流れを汲く)む者達によってつくられた村であるという伝説。中山王の尚思紹しょうししょう)・尚巴志しょうはし)父子に攻められ、1416年に北山ほくざん)は滅亡めつぼう)。北山王統おうとう)の生き残りの一族は、各地に流れていく。二男の志慶真と真亜佳慶金まことがね)は、叔父おじ)の湧川に連れられ、兼城の兼城按司を頼ったとされる。身分を隠かく)す必要があるため、金城姓に名を変え、塩づくりの生活を始める。塩づくりをしたので村の名前を潮平にした。潮平の志慶真王子をはじめとする子孫である一族は、三年ごとに「今帰仁上り」をしてきた。今帰仁城なきじんぐすく)の参拝さんぱい)だけでなく、百按司墓も参拝さんぱい)。その理由は、万暦5年1577)に、運天うんてん)の百按司墓むむじゃなばか)が修復しゅうふく)された。百按司墓には、北山王最後の王、攀安知王はんあんちおう)の墓があるということで、北山一族の末裔まつえい)が修復しゅうふく)を手伝ったとされる。その時に、志慶真も働き手の一人として名を連ねたとされるが、年号が正しければ、実際は一族の子孫か他人であろう。それでも、一族が修復に関わった可能性は高い。なお、北山王統の一族は今帰仁腹という。また、潮平の周辺には、今帰仁ゆかりの言葉もある。志慶真坂シキマヒラしきまひらざか)や、潮平ガーの別名の湧川はじめ、いくつかが残る。
Posted by 横浜のtoshi
この記事へのコメント・感想・ゆんたくはじめ、お気軽にお書き下さい。承認後アップされます。
金城さま、はいさい、今日拝なびら。
有益な、お話、ありがとうございました。
潮平に、ゆかりのある方の、お話は、
活字になっているので、いくつかの内容は、心当たりがあります。
こちらこそ、
読んだ資料を、裏付ける話を実際に聞かせて頂いて、嬉しい限りです。
メール、ありがとうございました。
潮平が、北山王の次男と伯父が逃れ住んだ村というのは、
学問的にも、よく知られ、認知されていることですね。
ただし、
戦前まで、王家の金帽子や家宝が残っていたというのは、
初めて聞きました。
糸満の、潮平だけ、今帰仁訛りというのも、
初めて聞いたか、資料を読んだのに忘れていたかの、どちらかだと思います。
北山王次男直系の苗字が、百次、王の次男の意というのは、初めて知りました。
村の始祖5系譜が入る大きな共同墓「今帰仁腹」についてですが、
私は、潮平=八つの門中だと勘違いしていたかと思い、調べ直したところ、
潮平には八つの門中があり、その中の五つが今帰仁腹門中だとあり、
頭の中が、整理出来ました。
ありがとうございます。
今帰仁腹門中(五門中)は、
大殿内(うふどんち)門中
百次(むんなん)門中
名嘉(湧川)(なーか)門中
宇久佐(うくさ)門中
百次小(むんなんぐヮー)門中、とありました。
今帰仁上り(なきじんぬぶい/今帰仁廻り)をしているとは、存じませんでしたが、
歴史的に、それは、至極、当然ですね。
攀安知が傲慢だったから、中山に負けたとされているのは、
学問的にも、まったく、あなたがおっしゃる通りで、
歴史、特に、全ての戦争は、「勝った側=正義」なので、
勝者によって作られたイメージに過ぎません。
それを鵜呑みにするのは、学問のない、ド素人の戯言です。
気にする必要は、全くありません。
学問は、一般的に言われていることを踏まえ、
あるいはそこからスタートしますが、
絶えず、批判的に、様々に検証されていくのが常です。
様々な角度から、色々な事が考えられてこそ、研究や学問なのであって、
一つの考えや意見に、こだわっているようでは、学問になりません。
また、検証されてこそ学問であって、人の話を聞いてそのまま信じる事はありません。
むしろ、色々な説が、きちんとした研究者によって成り立ってこそ学問です。
ですから、
学問の世界では、広く人々の意見や話を聞きながらも、
話を、きちんと裏付ける資料を元に、正当な論が成り立っていないと、
意見としては、まったく認められません。
そもそも、
どんな学問の世界でも、きちんと学問している方はいるもので、
適当や、いい加減な意見など、その前では、通用しません。
潮平の今帰仁腹の血を引く方が、ブログに書いて頂いたのは、今回で二人目で、
とても、生のお話を伺うことができて、嬉しいかったです。
また2人目というだけに、今では、たくさんの方々がいらっしゃるのだと思います。
その方々が、一人でも多くの子孫に、
先祖からの話はじめ、貴重な大切な事が伝わっていく事をお祈り致します。
コメント、ありがとうございました。では。
有益な、お話、ありがとうございました。
潮平に、ゆかりのある方の、お話は、
活字になっているので、いくつかの内容は、心当たりがあります。
こちらこそ、
読んだ資料を、裏付ける話を実際に聞かせて頂いて、嬉しい限りです。
メール、ありがとうございました。
潮平が、北山王の次男と伯父が逃れ住んだ村というのは、
学問的にも、よく知られ、認知されていることですね。
ただし、
戦前まで、王家の金帽子や家宝が残っていたというのは、
初めて聞きました。
糸満の、潮平だけ、今帰仁訛りというのも、
初めて聞いたか、資料を読んだのに忘れていたかの、どちらかだと思います。
北山王次男直系の苗字が、百次、王の次男の意というのは、初めて知りました。
村の始祖5系譜が入る大きな共同墓「今帰仁腹」についてですが、
私は、潮平=八つの門中だと勘違いしていたかと思い、調べ直したところ、
潮平には八つの門中があり、その中の五つが今帰仁腹門中だとあり、
頭の中が、整理出来ました。
ありがとうございます。
今帰仁腹門中(五門中)は、
大殿内(うふどんち)門中
百次(むんなん)門中
名嘉(湧川)(なーか)門中
宇久佐(うくさ)門中
百次小(むんなんぐヮー)門中、とありました。
今帰仁上り(なきじんぬぶい/今帰仁廻り)をしているとは、存じませんでしたが、
歴史的に、それは、至極、当然ですね。
攀安知が傲慢だったから、中山に負けたとされているのは、
学問的にも、まったく、あなたがおっしゃる通りで、
歴史、特に、全ての戦争は、「勝った側=正義」なので、
勝者によって作られたイメージに過ぎません。
それを鵜呑みにするのは、学問のない、ド素人の戯言です。
気にする必要は、全くありません。
学問は、一般的に言われていることを踏まえ、
あるいはそこからスタートしますが、
絶えず、批判的に、様々に検証されていくのが常です。
様々な角度から、色々な事が考えられてこそ、研究や学問なのであって、
一つの考えや意見に、こだわっているようでは、学問になりません。
また、検証されてこそ学問であって、人の話を聞いてそのまま信じる事はありません。
むしろ、色々な説が、きちんとした研究者によって成り立ってこそ学問です。
ですから、
学問の世界では、広く人々の意見や話を聞きながらも、
話を、きちんと裏付ける資料を元に、正当な論が成り立っていないと、
意見としては、まったく認められません。
そもそも、
どんな学問の世界でも、きちんと学問している方はいるもので、
適当や、いい加減な意見など、その前では、通用しません。
潮平の今帰仁腹の血を引く方が、ブログに書いて頂いたのは、今回で二人目で、
とても、生のお話を伺うことができて、嬉しいかったです。
また2人目というだけに、今では、たくさんの方々がいらっしゃるのだと思います。
その方々が、一人でも多くの子孫に、
先祖からの話はじめ、貴重な大切な事が伝わっていく事をお祈り致します。
コメント、ありがとうございました。では。
Posted by 横浜のtoshi at 2011年07月27日 21:06
潮平にゆかりのある者です。たまたま記載を見つけて、嬉しくなり、メールを致しました。
確かに、潮平は「北山王次男と伯父など合計5名が逃れて住んだ村」と伝えられております。戦前までは、王家の金帽子等、家宝がいくつか残っていたそうですが、戦時中に壕へ避難した際、米兵に取られてしまったそうです。
北山の残香を感じさせるものとしては、「糸満なのに、潮平だけ”今帰仁訛り”」や「北山王次男直系の苗字は”百次”(王の次男の意)」、村の始祖5系譜が入る大きな共同墓は”今帰仁腹”」、「今でも”今帰仁上り”をする」などがあります。
身内としては、「攀安知は”傲慢”だったから、中山との戦争中に家臣に裏切られ、中から城門を開けられて負けた。」と記載されることが多く、あまり良い気持ちはしません。歴史は、勝った側が作り残されるのが世の常で・・・負けたから、しょうがないかもしれませんが。
今後の記事も、楽しみにしております!
確かに、潮平は「北山王次男と伯父など合計5名が逃れて住んだ村」と伝えられております。戦前までは、王家の金帽子等、家宝がいくつか残っていたそうですが、戦時中に壕へ避難した際、米兵に取られてしまったそうです。
北山の残香を感じさせるものとしては、「糸満なのに、潮平だけ”今帰仁訛り”」や「北山王次男直系の苗字は”百次”(王の次男の意)」、村の始祖5系譜が入る大きな共同墓は”今帰仁腹”」、「今でも”今帰仁上り”をする」などがあります。
身内としては、「攀安知は”傲慢”だったから、中山との戦争中に家臣に裏切られ、中から城門を開けられて負けた。」と記載されることが多く、あまり良い気持ちはしません。歴史は、勝った側が作り残されるのが世の常で・・・負けたから、しょうがないかもしれませんが。
今後の記事も、楽しみにしております!
Posted by 金城某 at 2011年07月27日 16:05
コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。
「琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版)」 新着20件 → 目次(サイトマップ) 設置方法 |