105阿嘉大親(あかうふや) ~琉球沖縄の民話
2010年08月08日
Posted by 横浜のtoshi at 20:20│Comments(0)
│琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版)
~琉球沖縄に伝わる民話~
『球陽外巻・遺老説伝』より、第105話
阿嘉大親(あかうふや)
久米島の仲里間切の阿嘉村には、元々は仲城の出身の人で、地域を一人で治めていた者がいました。
その人の名を阿嘉大親(あかうふふや)といい、段々(だんだん)と、たくさんの人が集まって来て邑(むら)になったため、この人の名をとって、邑は阿嘉村と名付けられました。
※註
~阿嘉は、有名な「阿嘉のヒゲ水」がある所としてよく知られ、「阿嘉のヒゲ水や上(うん)かいど吹きゆるカマド小が肝(チム)や上(あが)り下(さが)り」の琉歌(りゅうか)で知られ、その絶景(ぜっけい)は、冬になると河水が北風に吹き下げられて壮観(そうかん)を極めるといわれる。
※注
【仲里間切】(なかざとまぎり)仲里の以前の発音は「ナカザトゥ/ナカジャトゥ」など。
【阿嘉村】(あかそん)
【仲城】(なかぐすく)仲城とは、宇江城(うえぐすく)の別名。
【邑】(むら)邑=村。沖縄では、「村(邑)」は現在の「字(あざ)」の古称(こしょう)で、行政村(ぎょうせいそん)ではなく、一つひとつの村落共同体(そんらくきょうどうたい)をいう。沖縄の人々にとって、伝統的文化や地域の言葉、信仰や精神の、最大の基盤(きばん)は、村落共同体であったという歴史がある。よって、良(よ)きにつけ悪(あ)しきにつけ、沖縄の人間の精神文化は、「個人と共同体」の関係が基本だった。なお、琉球王国時代、間切(まぎり)や村の、共同体としての秩序(ちつじょ)を守るために、内法(ないほう)という掟(おきて)が定(さだ)められた。内法という言葉は、琉球王府が使った行政用語であり、村人は、「村締(むらじまい)・「村固(むらがたみ)・「村吟味(むらじんみ)と呼んだ。そして琉球王国時代は、村の行き来(ゆきき)が厳(きび)しく制限され、限られた一部の者を除(のぞ)いて、まったくといってよい程(ほど)、村から出ることは許されなかった。また、例えば、ある村の女性が違う村に嫁(とつ)ぐ場合、女性は村の財産であるため、それが流出(りゅうしゅつ)するという意味で、嫁を貰(もら)う家は、女性の村の、今でいうところの青年会のようなところに、牛といった相応(そうおう)の財産を送らねばならなかった。なお、琉球王国滅亡後、村の掟(おきて)は、旧慣温存(きゅうかんおんぞん)政策で、許可が必要だったものの、存続(そんぞく)が認められた。しかしそれによって、村の(おきて)の執行(しっこう)と称(しょう)して、リンチによる殺人や人権侵害(じんけんしんがい)が相次(あいつ)ぎ、それまでの長い歴史による村の体質や人々の精神はなかなか変わらなかったが、遂(つい)に警察が乗り出してほぼ根絶(こんぜつ)されたのは、昭和初期である。
【阿嘉のヒゲ水】(あかのひげみず)由来は、久米島嘉節で知られる「阿嘉のヒジミジ」が、断崖から流れ落ちる小さな滝から、まるで屏風(びょうぶ)が北風に煽(あお)られるながら逆に吹き上げる様(さま)の喩(たと)え。気象条件が揃(そろ)わなければ見られないが、冬の、雨が降った後など水量が多い時に、断崖絶壁(だんがいぜっぺき)から流れ落ちる小さな滝の水が、海面から崖を吹き上げる強い北風のために逆行し、空に向かって噴(ふ)き上げられる。
Posted by 横浜のtoshi
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