~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第108話。


恐ろしい報(むく)い


 具志頭(ぐしちゃん)に、多々那城(ただなじょう)という城(しろ)があり、城の岩の下には多々那按司(あじ)の墓があります。
 墓は、木や板で、立派に造られていて、中には一つの厨子(ずし)が安置(あんち)されていました。
 具志頭の座嘉比(ざかび)村に、真刈(まかる)という、嘘つきで心がとても悪い男がいました。
 ある日のこと、こっそりと、木や板を按司の墓から盗(ぬす)み取ってきて、桶(おけ)や戸(と)を作って、後は何事(なにごと)もなかったかのように、知らん顔をして暮らしていました。
 ところが、ある夜のこと、眩(まばゆ)い虹(にじ)のような光が、多々那按司の墓から、薄気味悪(うすきみわる)く真刈の家の方に射し込(こ)んだかと見る間(ま)に、真刈の家は、忽(たちまち)のうちに燃(も)え上がり、火事で全てが焼(や)けてしまいました。
 そのことで、真刈(まかる)は手足が効(き)かなくなり、また妻の方は気が触(ふ)れて、惨(みじ)めな乞食(こじき)に身を落として、野垂(のた)れ死(じ)にしたということです。


※註
~『琉球国由来記』には、「具志頭破名城邑、タダナ城嶽は、神名コバウノミサキ御イベにして、具志頭祝女(のろ)、中座祝女が、毎年、三・八月に四度、礼祭を行う処(ところ)である」との表記がある。
 
※注
【具志頭】(ぐしかみ)具志頭の以前の発音は「ぐしちゃん」など。既(すで)に三山時代には、南山王国(山南王国)の間切の一つであった。
【多々那城】(ただなじょう/たたなぐすく)多多名城とも。玻名城(はなぐすぃく/はなぐしく)村の丘に築かれた天然の要塞(ようさい)。三の郭(かく)と女官室まで備えていた。最初は、玻名城城と称(しょう)し、城主(じょうしゅ)の玻名城按司は、具志頭(ぐしちゃん/ぐしかみ)全域を領(りょう)するほどの勢力(せいりょく)を有(ゆう)し、農具を作って村人に分け与えた。領地(りょうち)は水利(すいり)の便(べん)がよく、作物(さくもつ)は豊富(ほうふ)に収穫(しゅうかく)され、高倉(たかくら)には、いつも穀物(こくもつ)が蓄(たくわ)えられ、村の人々は飢(う)えに喘(あ)ぐことはなく、城主は慕(した)われていた。しかしこれに目を付けた多多名大主(たたなうふしゅ)が按司(あじ)を殺害。城を横取りして多多名城とし、悪政(あくせい)の限(かぎ)りを尽(つ)くした。そのため、国頭(くにがみ)の辺戸(へど)にいた屋比久大屋子(やびくおおやこ/うふやこ)(ひき)いる軍によって討(う)ち取られる。その後の城主は、逃げて隠(かく)れていた玻名城若(わか)按司が継(つ)いだというが、定かではない。城の崖下に按司墓がある
【座嘉比村】(ざかびそん) 具志上間切には、今は存在していない村で、近世の文書で断続的に表れる村として、座嘉比村と喜納村がある。座嘉比村は『御当国御高並諸上納里積記』、『琉球国由来記』、『琉球国旧記』、『琉球一件帳』、『琉球藩雑記』、『琉球国地銘』の文書、喜納村は、『中山伝信録』、『琉球国誌略』、『大島筆記』に表記がある。現在の安里は、多々名グスクの北側にあった古島の住民と、喜納村と座嘉比村の住民が合流し、移動し合併して形成されたと伝えられており、座嘉比の殿(ざかびぬとぅん)と呼ばれる拝所(うがんじゅ)が残っている。
【祝女】(のろ)本来は、琉球沖縄では、うちなー口、沖縄方言で「祝女」は、「ぬる/ぬーる(ヌル、ヌール)」と発音するが、それは「奴留」という表記からきている。現代風に言えば「巫女(みこ)」であるが、琉球国の神女(しんにょ)体制は、琉球国という国家のあらゆる面において、その役目は非常に重要なものであった。琉球国における、沖縄や奄美でしばしば弾圧の対象となった民間のシャーマンであるユタと混同してはならない。但し、琉球国崩壊後、それまで神女体制における女官の役目とユタの役目が、特に離島などでは一緒になった地域もある。ただやはり、男のジュリ買いと女のユタ買いは家を滅ぼすという、先祖からの言い伝えや琉球国の体制を揺るがす存在であった点は無視できない。


Posted by 横浜のtoshi





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