てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 琉球民話『球陽外巻・遺老説伝』のご紹介(旧版) › 110出征の宇波慶(しゅっせいのンバギー) ~琉球沖縄の民話

~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第110話。


出征の宇波慶
(しゅっせいのンバギー)


 喜屋武(きゃん)間切(まぎり)、束辺名村(つかへなむら)の奥間里之子(おくまさとのし)は、一騎当千(いっきとうせん)の武勇(ぶゆう)に優(すぐ)れた若者でした。
 時の王が、与論(よろん)と永良部(えらぶ)二島を征服(せいふく)しようとした時、奥間里之子も軍に加わって、勇(いさ)ましく出征(しゅっせい)することになりました。
 いよいよ出帆(しゅっぱん)の日になって、その妻に子が生まれました。
 子どもが生まれたお祝いのことを「宇波慶(ンバキー)」と言い、弓(ゆみ)を射(い)る儀式があり、親戚(しんせき)や近所の人が沢山(たくさん)集まって、食事を一緒(いっしょ)に食べながら、お祝いをする習慣があります。
 父になった里之子も、みんなと共にお祝いをして、宇波慶をし、勇躍(ゆうやく)して戦いに臨(のぞ)んでいくことになりました。
 敵地(てきち)に到着するなり、里之子は、先陣(せんじん)を切って奮戦(ふんせん)しました。しかしながら、飛んで来た流(なが)れ矢(や)に、眉間(みけん)を射抜(いぬ)かれてしまいました。すると里之子は、自分自(みずか)らその矢を引き抜き、そのまま勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦い続けて奮戦(ふんせん)しました。そして敵を蹴散(けち)らし、大変な武勲(ぶくん)を立てました。
 凱旋(がいせん)して家に帰るなり、早速(さっそく)医者を呼び、折れた矢尻(やじり)を抜(ぬ)き取って貰(もら)ったところ、傷が深かったためでしょうか、病が重くなり、とうとうそのまま息を引き取って、亡くなってしまいました。
 息を引き取る前に、里之子は遺言(ゆいごん)で子孫に言うことには、
 「我が一族は、決して宇波慶の飯を食べてはならない。」と。
 それから子々孫々(ししそんそん)、現在に到(いた)るまで、決して宇波慶は食べないとのことです。


※註
~沖縄には、昔の慣習(かんしゅう)や考え方を表わすものがある。その一つは、旅や渡海(とかい)の際(さい)、親戚(しんせき)や友人に出産があっても、立ち寄るとお互(たが)のいのためにならないという考え方である。また一つは、「死に宿(やど)は貸しても、生まれ宿は貸すな」という言葉があり、これも慣習や考え方から出てきたもので、死んだ者は徳(とく)を残すが、生まれた者はその家の徳を持っていってしまうという考え方からでている。
 
※注
【ンバギー】(産飯)ウバギー。出産を祝って炊(た)く飯(めし。地域によって、ウンバイ、ウブイメー等(など)とも言う。ご飯と一緒(いっしょ)に、子孫繁栄(しそんはんえい)の象徴である田芋(たいも/たーむ)の茎(くき)の汁(しる)を用意し、近隣(きんりん)の人に配った。佐敷町ではご飯を碗に盛り、その上に小さなお握りをのせて火の神(ひのかみ/ひぬかん)や仏壇にお供(そな)えした。
【喜屋武】(きゃん)喜屋武の以前の発音は「ちゃん」など。
【束辺名】(つかへな/つかひな)束辺名の以前の発音は「つぃかふぃな/ちかふぃな」など。のち、束辺名村と上里村が一緒になって束里村(つかざと・そん)になる。
【王】1429年、沖縄本島の三山(南山・中山・北山)を統一(とういつ)した中山王の尚巴志(しょうはし)は、琉球王国を立て(第一尚氏王統/だいいちしょうしおうとう)、琉球王国としての歴史が始まる。しかし統一の後も、按司(あじ/地方の豪族(ごうぞく))の勢力が依然(いぜん)として強く、内乱(ないらん)は絶えなかった。三山を統一した尚巴志は、まず北の島々の征服(せいふく)にかかる(※戦争は勝ったものが正義という点に注意)。すぐ北の与論島(よろんじま/とう)の按司、根津栄(にちえー)を滅ぼし、続いて沖永良部島(おきのえらぶじま/とう)の、永良部世の主(ぬし/もと北山系)、続いて徳之島、南の三島を征服して奄美攻略の基礎をつくる。続いて、加計呂麻島(かけろまじま/とう)、与路島(よろしま)と次々に奄美の島々を征服してゆく。『中山世鑑』に詳(くわ)しいが、ほぼ1440年前後に、加沙里島(奄美大島)を征服。喜界島(きかいじま/とう)は征服するのに25年かかる。以後、薩摩藩による琉球征伐まで、琉球王国の支配が続く。


Posted by 横浜のtoshi





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仲本様。はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

かつて海洋王国として名をとどろかせた琉球は、
久米三十六姓はじめ、
中国から琉球に帰化した人々なしには、
あのような力を持ち続ける国には、なれませんでした。

また、現在の沖縄県人の20%、
つまり、5人に1人は、古く中国から帰化した人々です。

なお、
戦争によって、日本の男性は多くが戦場で散り、
その結果、
比較的男性が生き残った奄美の男性が、
出身を隠して、たくさん、戦後の沖縄にやってきました。

ですから、
今のウチナーンチュの中に、
生粋(きっすい)の琉球人など、まずいないのは事実です。

その一方で、
独特の琉球文化、血の中に流れる琉球の伝統は、今なお健在です。

従って、
沖縄県人とか、日本人とかは、もはや意味なく、
結果的に大切なのは、
門中とか、沖縄生まれ沖縄育ち、といったことよりも、
沖縄で生まれ育った人間が、
どれだけ、昔から伝わってきた沖縄の文化や伝統的なチムを、
理解し、心の奥底で受け止めているかなのです。
それこそが、
本当の意味でのウチナーンチュなのか、新人類なのか、
という分かれ目になると、考えています。

それは、日本文化にしても、同じだと思います。
国籍が日本など意味がないのであり、
奥深い日本語を正しく使えているのか、
日本の伝統や文化を、体得(たいとく)しているかです。

日本人は、大和の人、琉球の人、アイヌと、
元々は、3つの複数の種族からなる国とは言っても、
結局は、
色々なアジアからの人々からなる、国とも言えます。

その中で、やはり古い中国の影響なしに日本を考えるのは、
難しいわけです。

故(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、
まさに、温故知新(おんこちしん)が大切なようです。

いつも、ご購読いただきまして、有り難う御座います。
また、コメントを、にふぇーでーびる。

仲本様の御先祖の歴史も辿(たど)る琉球民話の旅、
ほんの少しでも、お役に立てたなら、光栄です。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年08月15日 00:42


toshiさん

「宇波慶」を深く知る事が出来ました。
むかしの民話にはいわれがあるものですね。
ありがとうございました。
Posted by 仲本勝男仲本勝男 at 2010年08月14日 16:58


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