~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第116話。


名馬ゆえに


 むかし、真壁(まかべ)の真壁按司(あじ)は、白馬(しろうま)という名馬(めいば)を飼(か)っていました。
 この素晴(すば)らしい馬を、真壁按司は非常に可愛いがっておりました。
 この駿馬(しゅんめ)を見た人々は、どんな代償(だいしょう)を払(はら)ってでも是非(ぜひ)手に入れたいと申(もう)し入れましたが、真壁按司は決して頭を縦(たて)に振(ふ)らず、絶対に手放(てばな)そうとしません。
 この名馬を他の誰より欲しがっていた人に、国頭(くにがみ)按司がori
した。
 国頭按司は、kakunaru
上は力(ちから)に訴(うった)えるしかjibunnno
望みを遂(と)げることはできないと心を決め、ある日のこと、大軍を率(ひき)いて真壁城を取り囲(かこ)みました。
 真壁按司には兵が少なかったため、防(ふせ)ぐことができる
見込(みこ)みは全くありませんでしたが、誇(ほこ)り高き男であり、弟の垣花按司に加勢(かせい)を頼んで兄弟は自(みずか)ら城外に飛び出し、なかなか華々(はなばな)しく戦ったのでした。
 それでも、所詮(しょせん)は多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)の戦(いくさ)。遂(つい)に兄弟は国頭按司に負けてしまったのでした。
 なお弟は白馬(はくば)諸共(もろとも)城外で絶命(ぜつめい)し、真壁按司は重症を負ってクバ森(もり)に逃(のが)れたのち自決(じけつ)したのでした。
 たった一頭の名馬をめぐって真壁城は落城(らくじょう)し、兄弟揃(そろ)って空(むな)しく命を落とす結果となりました。
 それから後、真壁村には白馬(はくば)が生まれず、又、村の人々は、白馬だけは決して飼わないとのことです。


※注
【真壁】(まかべ)真壁の以前の発音は「まかび」など。真壁間切(まぎり)真壁村。古く真壁村は、テラヤマ(恐らく「寺のある山」の意)と呼ばれる石灰岩の丘陵を背にして南西向きに集落が広がっていた。後に真壁・名嘉真・田島の3つの集落が合併。
【按司】(あじ)「あんじ」とも。古くは、王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた。後に、琉球國の称号、および、位階(いかい)の一つとなり、王族のうち王子の次に位置し、王子や按司の嗣子(しし/後継ぎの事)が按司をついだ。按司家は、国王家の分家にあたり、日本本土でいう宮家に相当する。他に、按司は、王妃、未婚王女、王子妃などの称号にも用いられることがあった。
【駿馬】(しゅんめ)「しゅんば」とも。足の速い優れた馬。名馬。
【国頭】(くにがみ)国頭の以前の発音は「くんじゃん」など。遠方の国頭とすると地理的にいって信じがたい。
【垣花】(かきのはな)垣花の以前の発音は「かちぬはな」など。玉城間切
(たまぐすくまぎり)垣花。
【多勢に無勢】(たぜいにぶぜい)相手が多人数なのに対して少人数のため、勝ち目がないこと。
真壁集落の後方の丘が真壁城が、城郭内に、戦前まで真壁神社/真壁宮があった。戦前まで、旧暦九月の宮例祭には白馬を借りてきて、祝女(ノロ/ヌル/ヌール)に引かせて練り歩いた。


Posted by 横浜のtoshi





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