~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第122話。


泊御殿(とまりうどん)


 むかし、大島、喜界島、与論島、永良部島等の五島と、国頭地方、それに西方の島々から、首里の王へ貢物(みつぎもの)を納(おさ)めるために船がやってきましたが、その船は必ず、泊(とまり)港にやって来たのでした。
 其(そ)の地を泊邑といい、昔は、官吏(かんり)が泊御殿に置かれ、此(こ)れ等(ら)の島々との事務処理をしていました。
 やがて大島五島は、薩摩に属するようになり(尚寧王代)、国頭地方と西の事務は、庁内(首里王府)の座という役所でするようなりました。そのため、泊御殿は廃(はい)されました。しかし今でも、広い囲いの石垣(いしがき)がそのままに残り、当時の面影(おもかげ)を偲(しの)ばせます。


※注
【泊御殿】(とまりうどん/とまいうどぅん)
【大島】(おおしま)奄美大島のこと。琉球沖縄で、大島と言えば奄美大島を指す。一方、関東の人などが大島と言うと伊豆の大島を思い浮かべ、奄美大島は奄美という。学問的には日頃からよく学び、そして現場に立ち、よく聞き、更に感じた上で、さまざまな視点から、ものごとを見て考えなければならないと思う、今日この頃である。
【泊邑】(とまり・そん)那覇間切(まぎり)泊邑(邑=村)。泊の以前の発音は「とぅまい」など。
泊村は、かつて奄美大島・沖縄本島西部諸島の貢納船(こうのうせん)が着岸(ちゃくがん)する港だった。那覇全体が国際貿易港としての役割を果たした時代(但し、今まで何度か触れたが、現在と昔では地形が違う点に注意)、中国・日本本土の人はじめ、様々な民族が雑居していたのに対し、湾口(わんこう)を挟(はさ)んでその北に位置する泊村は、特に琉球の支配に関わる物資の移動や集積の地となっていた。この泊村が、奄美との関係の港として、貢納船が着岸できるように開発され、また陸上が整備されたのは、歴史的に古い時代。伝承によると、咸淳2年(1266)に、奄美大島が入貢(にゅうこう)した時とされ、英祖王(えいそおう)が命じて、公館を泊村に建造させ、官吏を設置したことに始まるといわれる。そしてそれまでの、浦添の牧港(まきみなと)の役割が、この泊(とまり)に移ったといえる。泊村の公館が「泊御殿(とまりうどん/とまいうどぅん)」。また、倉を泊御殿の北に建造して、島々からの貢(みつ)ぎ物を貯蔵したとされ、それが聖現寺とされている(聖現寺と倉については、同時に造られたとの記載もあれば、後に寺が造られたという記載もあり、よくわかっていない。また、公館や倉が何年に建造されたのか、いつの時代に倉が寺院となったかなど、よくわかっていない(『中山世譜』蔡温本、巻三、英祖王))。この泊村の全盛期は、尚徳王(しょうとくおう/1441~1469/琉球王国の第一尚氏王統の第七代国王)が、奄美の中で最後まで琉球の支配に抵抗した、喜界島の征服以降のこと(1466/成化2年)。尚徳王の軍勢は、喜界島征服後、泊の港に帰ってきたと『女官御双紙』などに書かれている。なお、泊港の役割や機能は、時代と共に、やがて那覇港に移っていき、18世紀には、ただ石垣を残すだけとなっていたという。


Posted by 横浜のtoshi





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