~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第126話。


忠義の、鷹の塚
(ちゅうぎの、たかのつか)


 むかし、日本本土の一人の男が、暴風(ぼうふう)のため、只(ただ)一人、宮古の水納島(みんなじま)に漂着(ひょうちゃく)しました。
 そして、故郷の空の方向を仰(あお)ぎ見ながら、途方(とほう)に暮れて嘆(なげ)き悲しむうちに、月日は、流れていったのでした。
 ある日のことです。
 鷹(たか)が一羽、この島を指(さ)して飛んで来たかと思うと、その男に向かって舞い降りてきました。
 鷹をよくよく見てみると、かつて故郷の家で飼(か)っていた鷹で、羽(はね)に米の粉(こな)が入った袋(ふくろ)を背負(せお)っていました。男が呟(つぶや)きながら言うことには、
 「ああ、この世には、本当に不思議な奇跡(きせき)というものがあるものだ。」と。
 男は、涙を流しながら、鷹に感謝しました。そして、我が家への想(おも)いが、いよいよ募(つの)り、人目(ひとめ)もはばからず、声を上げて、泣き続けたのでした。
 ひとしきり涙を流すと、男は、自分の指を噛(か)み切って、その血で「硯(すずり)」、「筆」の二文字を袋の上に書いて、鷹に結びつけ、飛び立たせたのでした。
 それから四、五日経(た)った日のことです。
 硯と筆を身に付(つ)けた鷹の死体が、石泊浜に流れ着いたのでした。
 可哀想(かわいそう)なことに鷹は、筆と、重い硯を背負って飛んで来たものの、途中(とちゅう)で、気力も体力も尽(つ)き果(は)てて、おそらく大海原(おおうなばら)に落ちて、死んだに違いありません。
 鷹の帰りを心待ちにしていた男は、呆然(ぼうぜん)とし、無惨(むざん)な鷹の死骸(しがい)を抱きしめながら、いつまでも、その死を嘆(なげ)き悲しみました。それから、この地に手厚(あつ)く葬(ほうむ)って、ねんごろに弔(とむら)ったのでした。
 それ以来というもの、毎年、この島には鷹が飛んで来るようになりました。
 そして鷹たちは、悲壮(ひそう)な忠義(ちゅうぎ)の死を遂(と)げた鷹の墓の上に集(つど)って、まるでその霊を慰(なぐさ)めているかのようだと、いうことです。
 また、その様子を見て、感動しない人は一人もいないそうです。


※註
~『琉球国由来記』には、「多良間島近くの水納島に鷹の塚と言う旧跡あり」と、またその由来(ゆらい)が書かれている。尚敬王代(一七二二年)、安謝港で斬首(ざんしゅ)にされた和文学の大家、平敷屋朝敏の嫡子(ちゃくし)が宮古水納島に、次子は多良間に、共に流罪に処(しょ)せられ、その子孫は佐敷姓を名乗って、今でも栄えている。
 
※注
【水納島】(みんなじま/みんなしま)宮古の、多良間島間切(たらまじままぎり)水納村。現在は、沖縄県宮古郡多良間村水納に属している。多良間島の北8kmに位置。面積は2.15km²。宮古島から約62キロ。宮古島と石垣島とのほぼ中間に位置。水納島へは定期航路はなく、不定期で個人が運行しているのみ。なかなか島へ渡れないのが現状。事前に、船主の宮国(みやぐに)さんに連絡し、船をチャーターしなくはならない。宮国さん一家のみが住む。(※沖縄本島、本部の沖の水納島、クロワッサンアイランドではありませんので、お間違えのないように。)
【尚敬王】(しょうけいおう)琉球第二尚氏王朝、第13代国王(在位1713~1752年)。童名(わらびなー)は思徳金(うみとくがに)。蔡温(さいおん)を三司官(さんしかん)にして、産業の発展、文化・教育の振興(しんこう)と改革をはかり、尚真王(しょうしんおう)以来の治績(ちせき)をあげる。
※【ゆりわかでーず】朝寝坊(あさねぼう)を、この地方では「ゆりわかでーず」という。その言葉の起源がこの伝説「ゆりわかでー」の鷹の鳥塚。宮古水納島の「百合若大臣(ゆりわかでーず)」の話。首里の都の百合若大臣は、それは強い人でした。ただ眠り始めると七日も眠り続ける人で、また妻は、大変に美しい人でした。若大臣(わかでーず)」の家来の中に、美しい奥方を自分の妻にしたいと若大臣の命を狙う者がいた。その家来は航海の旅の途中、六尺の刀を抱いて眠る百合若大臣を、筏(いかだ)に乗せ、海に流すことに成功。若大臣が目を覚ますと、筏は人が住まない宮古の水納島に漂着。若大臣は、六尺の刀が五寸の短さになるまで貝を掘って食べ、シャコ貝の殻にためた水を飲み、命を長らえる。ある日、海岸の岩に大きな鳥が止まり、近付くと飼っていた鷹で、足に妻の手紙が結んである。若大臣は、自分の指を刀で切り、血で妻への返事の手紙を書く。その手紙を見た妻は、鷹の足に硯と筆を結び付けて飛ばすが、鷹は大風に会って、そのうえ硯が重く、水納島近くで力尽きて死んでしまう。若大臣は死んだ鷹を見つけ、その鷹を島の真ん中に埋めて石碑を立てる。それが宮古の水納島にある鳥塚。若大臣が、毎日海を見て暮らすうち、大きな船が島の近くを通り、岩上から声の限り叫ぶ。幸運にも船が気付いて島に寄ってくる。ところが若大臣の髭(ひげ)は生え放題で、着物はぼろぼろのため、化け物は船には乗せられないと断られる。若大臣は懸命に頼み、やっとのことで乗せてもらって都に帰る。自分の屋敷に入ろうとすると、門番がその汚れた姿を見て入れてもらえない。それでも頑固に申し入れ、門番が仕方なく主人に聞きに行くのをこっそりつけてみると、その家の主人は自分を島流しにした男だった。若大臣は、「この家に昔いた、百合若大臣という男がいたそうだが、どれほどの力持ちだったのか、確かめに来た」と言っとところ、家の主人は、何人かでないと持てない鎧(よろい)や兜(かぶと)、煙草盆(たばこぼん)などを家来に運ばせ、百合若大臣の話をし出した。話が終わるなり、若大臣は鎧を着て兜をかぶり、刀を握り締めて名乗りをあげ、立ち上がった。その時、鎧や刀の錆が一度に飛び散った。刀で家来すべてを退治し、閉じ込(こ)められていた妻を助け出し、前、以上に幸せに暮らした。


Posted by 横浜のtoshi





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