八重山の始まり ~琉球沖縄の伝説

2010年11月02日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(9)琉球沖縄の伝説・沖縄先島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第21話。


八重山の始まり



 むかし(むかし)、大むかしのことです。
 太陽加那志(がなし)が、あまん神(あまみきよ/アマミキヨ)()んで()うことには、
 「お前は、天から下に()りて、島をつくりなさい。」と。
 そこで、あまん神(あまみきよ)は言われたことを(まも)るため、島作(しまづく)りの仕度(したく)(はじ)めました。
 あまん神(あまみきよ)は、まず太陽加那志(がなし)から、島作りのための(つち)(いし)を、たくさん(もら)うと、天の(はし)(うえ)から、島ができそうな海の真ん中(まんなか)()()としました。そして天の(ほこ)()()ぜると、みるみる島が出来上(できあ)がりました。この島が、今の八重山(やえやま)石垣島(いしがきじま)です。
 この島には、阿旦(あだん/アダン)の木が()(しげ)り、(かお)(たか)沢山(たくさん)()がなりましたが、これを食べる人間や動物などはまだ(つく)られていませんでした。
 それから随分(ずいぶん)(あと)になって、宿借(やどかり/ヤドカリ)(つく)られると、宿借(やどかり)は、阿旦(あだん)の木が(しげ)(あな)の中で()らすようになりました。
 ある時、あまん神(あまみきよ)大声(おおごえ)で「かぶりー」と言うと、不思議(ふしぎ)なことに宿借(よどかり)は、その時以降、()の上を()(まわ)るようになり、また阿旦(あだん)の木の()を食べて生きるようになりました。そしていつの()にか、島のあちこちに宿借が()むようになったそうです。
 地上のことを心配(しんぱい)していた太陽加那志(がなし)は、宿借(やどかり)だけでは(あま)りに(さび)しいと思い、人間が生まれるようにと、天から人の(たね)()きました。すると、かつて宿借(やどかり)()()た同じ(あな)から、(たま)のように美しい男女(だんじょ)若者(わかもの)が、「かぶりー」と()いながら出て来ました。そして地上に出て来た二人の若者は、真っ赤に(じゅく)した阿旦(あだん)()見付(みつ)けました。
 この美味(おい)しそうな()を、お(なか)()かせていた二人は無我夢中(むがむちゅう)で食べたそうです。その時から阿旦(あだん)の木は、二人の若者にとって(いのち)の木となりました。
 ある時、太陽加那志(がなし)は、若者二人を()んで(いけ)(はし)に立たせました。そして、お(たが)反対方向(はんたいほうこう)に、池の(はし)を回って(ある)くように言い()けました。二人の若者は言われた通りに、池の端を回っていくと、当然のことながらぶつかった二人は()()う形になって、二人は夫婦の(ちぎ)りを(むす)んだのでした。そして二人は、やがて三人の男の子と、二人の女の子に(めぐ)まれました。そしてまた年月(ねんげつ)(とも)に、八重山(やえやま)には人間が()えていきました。
 やがて八重山では豊年祭(ほうねんさい)の時に、阿旦(あだん)新芽(しんめ)(しろ)い部分で(しる)を作って(かみ)(そな)えたり、(ぼん)には仏壇(ぶつだん)先祖(せんぞ)阿旦(あだん)()(そな)える(なら)わしになりましたが、その習慣(しゅうかん)は、人々をつくって下さったことを神や先祖に心から感謝(かんしゃ)するためで、今でもその風習(ふうしゅう)が今も(のこ)っているそうな。


 
※この話の参考とした話
沖縄先島・沖縄県石垣市平得~『沖縄の昔話』
石垣市~「旅と伝説」第四巻一号
同上~同上
石垣市白保~「民族学研究」三〇巻三号
八重山郡竹富町竹富島~『竹富島誌』〈民話・民俗編〉


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.


●伝承地
沖縄先島・沖縄県石垣市平得~昔、大昔のこと。
 太陽加那志(がなし)が、あまん神を呼んで言った。
 「お前は、天の下に降りて行って島をつくれ」。そこで、あまん神は、言われたことを守って、島作りの仕度を始めた。あまん神が、太陽加那志から島作りの土や石を、たくさん貰って、天の七尺の橋の上から、島のできそうな天の下の海の真中に投げ落として、天の鉾(ほこ)でかきまぜると、見ているうちに島ができあがった。この島が、今の八重山石垣島だということだ。
 この島には、阿旦(あだん)の木が茂って、その実は香り高く稔っていたが、これを食べる人間や動物は、まだ造られていなかった。それから、ずいぶん後になって、阿旦の木の茂る穴の中で、宿借(やどかり)を造ったが、不思議のことに、
 「カブリー」と、あまん神が大声をあげて、地の上を這い回ると、宿借は、阿旦の木の実を食べて生きるようになった。いつの間にか、島のあちこちに宿借が住むようになった。
 天の下のことを心配した太陽加那志は、それでも、天の下の宿借だけでは淋しいと思って、しばらく経った頃に、人間が生まれるようにと、人種を降ろした。すると、宿借が出て来た同じ穴から、玉のように美しい男女の若者が、
 「カブリー」と言って出て来た。地上に出て来た二人の若者は、赤々と、熟れている阿旦の実を見つけた。
 「これは、なんとおいしいものだろう」と、おなかをすかしていた二人は、がつがつ食べた。阿旦の木は、二人の若者にとって、命の木となった。
 太陽加那志は、二人を池の端に立たせ、お互いに反対の方向に、池の端を回るように言いつけた。二人の若者は、言われたとおり、池の端を回っていると、ばったりぶつかって、思わず抱き合ってしまった。そこで二人は、夫婦の約束をして、やがて三人の男の子と、二人の女の子にめぐまれた。それから、年とともに八重山には人間が殖えていった。
 八重山の豊年祭のとき、阿旦の新芽の白い部分で汁を作って、神の前に供えたり、また盆に、仏壇に阿旦の実を供える習わしは、人々が神さまをありがたいと思う心から、今でも残っているということだ。(『沖縄の昔話』)
石垣市~大昔、サデフカ(はまおもと)が芽生えて生い茂る。次いで宿借が地に這い、次にウツチヤ(鶉)が翔け、そして人間の男女二人が現れた。神さまは二人を大樹のもとの洞穴に隠したが、まもなく大洪水となって、野山は一面の海と化した。数日後に、洪水も退いたので、神さまは二人を導き出して、毎日、餅三個ずつをもって養われる。そして、井戸の回りを男は右より、女は左より旋らし、まぐわいの道を知らせ、以後二人の子孫が繁殖したという。(「旅と伝説」第四巻一号)
同上~島の最初に、アザネブラ(あだん科)が自生して繁茂、次いで宿借が樹根の下の穴を穿って、カプリーと言って現れる。次にその穴からカプリーと唱えて、人間の男女二人が現れた。二人は日を追ってひもじさを感じ、ふとアザネブラを仰ぎみると、巨大な球の果実が黄赤色に熟しており、それを取って食とした。以来、それによって生をつなぎ、子孫繁昌したという。(同上)
石垣市白保~アマン神が日の神の命で、天の七色の橋から取った土石を海に投げ入れて、槍矛でかきまぜて島を作り、さらに人種子を降ろすと、最初に宿借が、この世に生まれ出た地中の穴から男女が生まれた。神は二人を池の傍に立たせ、別方向に池をめぐるように命じた。再び出会った二人は抱ぎ合い、その後、八重山の子孫が栄えたという。(「民族学研究」三〇巻三号)
八重山郡竹富町竹富島~大昔、アマミコという女神が天降りして、マリツ・ソコツという男女二人の人間を生んだ。二人は裸で穴の中に住んでいたが、宿借が阿旦の茎や実を食べているのを見て、それを食べる。これが人間の食べ物の初めであるという。二人が十二歳になったとき、アマミコがまた、天降りして、男女の交りを教える。二人は教えに従って、円池の端で腰と腰とを合わせ、池の周りを回って交りを結んだ。これが人間の男女交りの初めであるという。この大昔をアマンユーと言い、このときの食の始めが阿旦であったので、お盆祭や焼香には、かならずこれを供えるものとなった。(『竹富島誌』〈民話・民俗編〉)


同じカテゴリー(琉球沖縄の伝説・沖縄先島編)の記事

この記事へのコメント・感想・ゆんたくはじめ、お気軽にお書き下さい。承認後アップされます。
くがなーサン、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

石垣には、行ったことがあるものの、
知り合いがいませんから、
やはり一般の家庭のことは、全くと言って知ることができません。
そうですか、阿旦の実、供えるんですか。

その点、商店街とか、市場を、見て回ると楽しいです。

クルチは、カキノキ科でしたか。
そう言えば、カキと似た色をしていました。
でも、黒くなるんですねえ。

いや、くがなーサンのお話は、目からウロコの話や、
楽しいお話で、楽しいです。感謝。

いつもコメント、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年11月14日 11:06


ちなみにクルチの実はカキノキ科植物なので、カキの実に似た形ですが少し小振りで色は最初カキの実と同じくオレンジ色なんですが、熟してくるとかなり黒くなります。半分黒いくらいの実は食べられますがさすがに渋味が強かったです。
渋柿ほどではありませんが、また食べる事があるかは謎ですが。
Posted by くがなー at 2010年11月14日 00:23


私が中学から住んでいた石垣市の四箇字(登野城、石垣、新川、大川)辺りは古い家は彼岸には仏壇にクルチの実(八重山黒檀の実)を、盆には阿旦の実を確かに供えてましたね。
Posted by くがなー at 2010年11月14日 00:16


ルミさん、こんにちは。

さすがルミさん。アダンが食べられること、ご存じでしたね。
沖縄本島の人は特に、
食べられると知っている人と、
ヤドカリの食べ物で、人は食べないと思っている人に、
きれいに分かれて、驚かされます。

聞いた話では、伊良部や与論などでも、普通に実を、食べるそうです。

アダンの茎は、茎そのものではなくて、
新芽だとか、茎の内部に、白い部分があって、
これを取り出して、アク抜きすると、タケノコみたいに美味しいです。

ソテツは、「蘇鉄地獄」という言葉が生まれた、
大正末期~昭和初期にかけておこった恐慌、
第一次大戦後の戦後の恐慌で生まれた言葉です。

世界大恐慌期が起こった際に、
慢性的な不況によって、
沖縄や奄美は、極度の窮迫状況におちいりました。

当時の、沖縄やの人口の、7割が、
貧しい農民で、
極度の不況のため、米はおろか、芋さえ口にできず、
多くの農民が野生の蘇鉄(そてつ)を食糧にしました。

野生の、ソテツの実や幹は、
マズイ上に、猛毒ですから、
調理をあやまると、死を招く危険があり、
それを食べて、やっと飢えをしのぐといった、
悲惨な状況をたとえて、、「蘇鉄地獄」と呼びます。

戦争中や、戦後すぐも、場所により、沖縄や奄美で、
蘇鉄で飢えを、しのがなければ、いけなかったと、聞きます。

その一方で、
慶良間とか、久米島では、
17世紀頃の文献に、
救荒植物として、既に、ソテツが食べられていた事が、
史料で確認されていて、
少なくとも、18世紀の初めには、食用化されていたようです。

ただ、一般的に広まったのは、
蔡温(さいおん)が出した『農務帳』によって、
琉球の各地に、
その栽培と調理法が広まって、
凶作時の救荒植物として、
また、
畑地に適さない荒地に、栽培するように、奨励されたそうです。

有毒植物のソテツの食用化は、
言ってみれば、
異常気象による大飢饉から生み出された、
究極の、人間の知恵ともいえます。

『八重山島年来紀』によると、
宮古や八重山でも、
ソテツは、18世紀半ば以降、食用化されたとあります。

琉球時代から、沖縄や奄美の人々は、
ソテツに、何度も、助けられたというわけです。

今の物では、
「粟国島そてつ実(み)そ」が、なかなかです。
粟国村で自生しているソテツの実(種子)を使った、手作り味噌です。

粟国島に行く友達がいて、買ってきてもらいました。

「ソテツの島」として粟国島は有名ですが、さすがと思いました。
濃い味の、美味しい味噌です。

いつも、コメント、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年11月04日 00:34


横浜のtashiさん
こんばんは
アダンの実は食べられると 聞いていますよ。私はまだ経験ないですが
戦争中で食料がない時に アダンの実で助かった。
と 何かで読んだ記憶があります。
あっ 間違いましたそれはソテツの実でしたね
昔、伊良部島に遊びに行った時にアダンの実(パイナップルに似ていますよね(笑))がたくさん実のっていました。
『昔の子供達は遊びながら、実をとって食べたけど今の子供達は食べないね~』
みたいな会話を聞いた事を思い出しましたよ(笑)
アダンの茎まで食べられるというのは、初めて知りました。ビックリですね
では、又♪
Posted by ルミ at 2010年11月03日 23:43


ウイング様、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

実は、沖縄でも、
本島の方々は、
そう思っていらっしゃる方が、多いんです。

とは言っても、
昔から、そうだったわけでは、ないようです。

八重山で食べるのは、
昔、人頭税などで、生活が苦しくて、
そこから生まれた生活の知恵だという表記が、あったりしますが、
それも、
古い時代に食べていたことを考えると、
ちょっと、当てはまらない気もします。

なお、
今は、ネットや携帯がありますから、
探せば、本島のレストランなどでも、アダンの茎は食べられます。

実(み)の方ですが、
あざまサンサンビーチで、なっているのを、勝手にこっそり食べました~(笑)

コメント、ありがとうございます。

では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年11月03日 22:23


えぇ~!そうだっんですか!
沖縄に生まれ育ちましたが、わたしも
食べられないと聞いていました。

・・・・・そうなんだ~。
Posted by ウイングウイング at 2010年11月03日 14:28


yukuru mama、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

土日で、仕事がひとやま越えて、少し楽になりました。体調は最悪のままです。

アダンの実と言うと、僕には、嫌な思い出があります。

初めて沖縄に行った時、
アダンって美味しそうと言ったら、
「あんなの、食べるヤツなんかいないよ、
ナイチャーは物を知らない」と、随分、酷く馬鹿にされた、嫌な思い出。

正解ですが、アダンは「食べられます」。

野生のもので食べられるものは色々ありますが、
アダンは王様、一番、美味しいと言う人もいます。

確かにアダンは、ヤシガニの大好物です。

アダンには、雄と雌があり、
むかしの沖縄では、特に雄株の芯の部分や、
アダンの若葉の茎の部分は、野菜として利用されました。
また、完熟した実は、美味しいです。

今の沖縄で、アダンを食べる習慣というと、八重山が有名ですが、
なぜ八重山や奄美だけなのか、僕には、不思議でなりません。

八重山地方では、昔から、お祝いの席などに、茎が出されます。
アク抜きをして食べますが、八重山でも頻繁には食べないとか。
八重山の市場では、アク抜きしたのが、普通に売られています。

完熟したアダンの実は、中心の軟らかい芯のような部分や、
ぐじゅぐじゅしたところに甘みがあって、
食べたり、ストローで吸ったりします。美味しいですよ。
むかしから、子ども達の、おやつでした。

アダンの熟した実ですが、
香りは美味しそうで、美味しい所以外の部分は、食べると泥臭い味。
それでも、昔の人は(そんなに昔でもないんですが・・・・・・)、
おやつとして、実をスナックパインのようにちぎって、食べていたそうです。

表面のゴツゴツした突起を、ひとつずつ外して食べますが、
むしゃむしゃ食べられるという感じではなくて、
繊維質の間の果肉を、しゃぶる感覚。水分補給。毒はないです。
ただ、この部分は、あまり美味しくはないのは事実です。

今では、甘いお菓子がいくらでもあり、アダンの実を食べる人が激減。
美味しいパイナップルが出回り、食べられなくなっただけの事です。
それどころか、
食べていた時代から、そう何年も経っていないというのに、
食べられるということさえ、知らない人が増えるという、悲しい状況です。

石垣の食用のアダンの場合、
「アダンの新芽」を、米のとぎ汁で、ゆがいて、あく抜きします。絶品。
味がないので、煮物や炒め物などとして、味付けします。
ただ、シャキシャキ感がよく、とれたてのタケノコって感じの食感です。

あく抜きが大変だと言う人がいますが、
タケノコだって、ほりたての本物をもらったら、同じ事をしますよね。

何とも不思議なのが、石垣島では、新芽を料理に使いますが、
お隣りの宮古島では、殆ど利用していないとか?

mamaも、僕同様、
アダンの実は食べられないって、嘘、教えられたんですよ(笑)。

コメント、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年11月03日 08:33


横浜のtoshiさん

こんばんは~o(^-^)o

ご無沙汰です。
toshiさん、体調は良く
なりましたか?

アダンの実って、食べられるのですか?

食べられないと聞きましたので、食べられないものと思ってましたよ~(苦笑)

最近は陸ヤドガリも
余り見かけなくなりましたね!

そちらは、とても寒いみたいですね~(笑)
風邪を引かない様に
気をつけて下さい。
Posted by yukuru mama at 2010年11月02日 22:07


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
琉球沖縄の伝説・沖縄先島編」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法