真世加那志の由来 ~琉球沖縄の伝説

2010年11月30日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(9)琉球沖縄の伝説・沖縄先島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第49話。


真世加那志(まゆんがなしー)由来(ゆらい)



 むかし(むかし)石垣(いしがき/いしがち)(・じま)の、(のち)川平(かびら)の村に吸収(きゅうしゅう)された仲間村(なかまそん)が、まだ一つの村であった時代、調度(ちょうど)、村は節祭(しちまちり)の日でした。
 当時、節祭(しちまちり)の日は新年を(むか)える日であり、新年を迎える祭りを村人達は楽しみ、村は(にぎ)わったものでした。
 ある節祭(しちまちり)夕刻(ゆうこく)のこと、()旅人(たびびと)仲間村(なかまそん)にやって()ました。
 この旅人が言うことには、川平(かびら)(きた)(うみ)難船(なんせん)し、命からがら上陸(じょうりく)して、()なりが見窄(みすぼ)らしい今の姿のままここまで辿(たど)り着いたところで、なんとか一夜(いちや)宿(やど)()うため、今、各戸(かっこ)を回っているところだと()います。
 ところが村人は、宿泊(しゅくはく)どころか、(だれ)相手(あいて)にしてくれないのでした。
 旅人(たびびと)は、大層(たいそう)(こま)()ててしまいました。
 そんな時にふと見ると、(むら)南端(なんたん)に、一軒(いっけん)だけ回っていない(いえ)があるのに気付(きづ)きました。最後(さいご)一途(いちず)(のぞ)みをかけ、旅人(たびびと)はこの家を(おとず)れたのでした。そして、村の(すべ)ての家を回ったものの(ことわ)られ続けてここが最後であり、どうにか一晩(ひとばん)だけでも()めてもらえないかと必死(ひっし)御願(おねが)いしました。
 全部(ぜんぶ)(こと)わられた経緯(いきさつ)を聞いた主人(しゅじん)は、とても同情(どうじょう)()せ、もしもこのような(まず)しい家でよかったらと(こた)えたのでした。
 旅人(たびびと)が、家の軒下(のきした)でもどこでも(かま)いませんと言ったところ、主人は家の中に(こころよ)(まね)き入れたのでした。
 主人(しゅじん)に向かって旅人(たびびと)()うことには、
 「よその家は、新年を(むか)えて(にぎ)やかですが、この家はほんの少し(さび)しい()がいたします。何か(わけ)でもあるのでしょうか。」と。
 そう聞かれて主人(しゅじん)(こた)えることには、
 「たしかに(まず)しくても、火と水さえあれば、私には満足(まんぞく)なのです。」と。
 さて、夜中(よなか)になって、ふと主人(しゅじん)が目を()ましたところ、(にわ)神々(こうごう)しく何かを(とな)える(こえ)がします。そしてふと横を()れば、寝床(ねどこ)にいる(はず)の旅人の姿(すがた)がありません。不思議(ふしぎ)に思った主人(しゅじん)(にわ)()ってみました。
 すると旅人が庭に立っていて、神詞(かみごと/かみことば)朗々(ろうろう)(とな)えていたのでした。
 それを()た主人は、とても恐縮(きょうしゅく)して、(とな)え終わるまでじっと待ち、終わると家の中に再び(まね)()れると、こんなものしかありませんがと、お(ちゃ)を出したのでした。
 さて、旅人はお茶を飲み()えると()うことには、
 「(わたくし)人間(にんげん)ではありません。(てん)(かみ)(めい)()け、(ただ)しき(こころ)をもつ人間(にんげん)見定(みさだ)めて、その者に諸物(しょもつ)(づく)りを(さず)けるために使(つか)わされて、ここまでやって来ました。この場所で諸物(しょもつ)(づく)りの神詞(かみごと/かみことば)(とな)えて(ふく)(さず)けたからには、必ずや貴方(あなた)はこの先、幸福(こうふく)(むか)()れられる(こと)でしょう。
 来年(らいねん)(つちのえ)(いぬ)の日に、また再来(さいらい)します。」と。
 そう言い()わるや(いな)や、旅人(たびびと)姿(すがた)は、()き消すように()えなくなってしまいました。
 その(こと)があってからというもの、主人(しゅじん)である南風野屋(はえのや)作物(さくもつ)(つね)豊作(ほうさく)が続き、やがて(うし)(うま)購入(こうにゅう)することが出来(でき)るまでになりました。
 南風野屋(はえのや)主人(しゅじん)は、(かみ)とその天使(てんし)(たい)する感謝(かんしゃ)の気持ちをひとときも(わす)れることなく、再来(さいらい)の日を、ひたすら心待(こころま)ちにしておりした。
 そして(つい)に、(つちのえ)(いぬ)の日の夜がやって来て、約束(やくそく)通り天使(てんし)(ふたた)来訪(らいほう)したのでした。
 以前(いぜん)とは()って()わって今度(こんど)旅人(たびびと)()()ちは、それはそれは立派(りっぱ)(かみ)御姿(おすがた)をしておりました。
 その天使(てんし)は、庭で(ふたた)神詞(かみごと/かみことば)神々(こうごう)しく(とな)えました。それが終わった後、主人(しゅじん)は家に(まね)き入れると、お(ちゃ)を出して接待(せったい)しながら、今までの事を報告(ほうこく)したのでした。
 「神詞(かみごと/かみことば)(さず)けて(いただ)いたお(かげ)で、諸作物(しょさくもつ)(すべ)てが豊作(ほうさく)になりました。本当に、ありがとうございました。心からお礼(もう)し上げます。」と、そう言いながら深々(ふかぶか)(こうべ)()れ、(つつし)んで感謝(かんしゃ)()をあらわしたのでした。
 さてその後ですが、天使(てんし)は、来年も三度目の来訪(らいほう)を約束して、姿を消しました。
 また南風野屋(はえのや)農作物(のうさくもつ)は、以前(いぜん)にも増して大豊作(だいほうさく)(つづ)き、家運(かうん)もまたますます上昇(じょうしょう)し、繁栄(はんえい)(きわ)めたのでした。
 さてそうなると村の人々(ひとびと)は、(ひと)南風野屋(はえのや)だけに大豊作(だいほうさく)が続いて、牛や馬を手に入れるまでに繁栄(はんえい)する様子(ようす)不思議(ふしぎ)がるようになって、次々、主人にあれこれ(たず)ねて()るようになりました。
 そして人々は主人(しゅじん)から、真世加那志(まゆんがなしー)天使(てんし)来訪(らいほう)の事や、神詞(かみごと/かみことば)(さず)けて(いただ)いた、事の次第(しだい)()いたのでした。
 そして村の(だれ)もが、天の神への信仰(しんこう)切望(せつぼう)するようになりました。
 主人(しゅじん)は、天使(てんし)の三年目の来訪(らいほう)(さい)、いつものように家の中に案内(あんない)した(のち)に、村人(むらびと)(すべ)てが天の神への信仰(しんこう)(ねが)っている(むね)(もう)()げてみました。
 すると天使(てんし)が言うことには、
 「(むら)全体(ぜんたい)が、天の神を信仰(しんこう)することこそ、(わたくし)天使(てんし)目的(もくてき)として、この(うえ)ないことです。私は自分の役目(やくめ)()たす事が出来ました。これからはもう来訪(らいほう)するには(およ)びません。
 ところで、私一人がこれから(すべ)ての家を回って、神詞(かみごと/かみことば)(とな)えるには、その数が多過ぎて難儀(なんぎ)です。
 そこでその()わり、神の代理(だいり)として、戌年(いぬどし)生まれの者達(ものたち)を村の中心にし、(ほか)者達(たち)組織(そしき)するのです。そして戌年(いぬどし)生まれの者達は手分(てわ)けして、毎年(まいとし)(かく)家々(いえいえ)訪問(ほうもん)し、神詞(かみごと/かみことば)(とな)えるのがよい。
 (ただ)し、各戸(かっこ)(おとず)れるその(まえ)に、すべての(もと)であるこの南風野屋(はえのや)に、戌年(いぬどし)生まれの(もの)達全員が(つど)って、まず最初の神詞(かみごと/かみことば)三句(さんく)(そろ)って朗唱(ろうしょう)しなさい。そして、(つえ)()き、「んー」という合図(あいず)で、一斉(いっせい)に自分が受け持つ家々(いえいえ)(まわ)りなさい。」と。
 天使(てんし)はこのように言い(わた)したのでした。
 ruby>主人(しゅじん)(かさ)(がさ)ね、自分と村人達の感謝(かんしゃ)の気持ちを()べ、(さら)に、天使の神詞(かみごと/かみことば)朗唱(ろうしょう)御蔭(おかげ)で、フーユー・マーユー(世果報)をみんなが(むか)えることが出来(でき)ると喜びました。そして、豊作(ほうさく)(こめ)はじめとする自分が作った物すべてを、天の神への土産(みやげ)として是非(ぜひ)ともお持ち帰り下さいと(もう)()たのでした。
 この様子(ようす)に天使はとても満足(まんぞく)し、土産(みやげ)(とも)恵比寿顔(えびすがお)のまま、姿(すがた)()したそうな。

 
 
※この話の参考とした話
沖縄先島・沖縄県石垣市川平~『川平村の歴史』
沖縄先島・沖縄県石垣市川平・下の村~『八重山民俗誌』上巻
同上~同上
~伝承によると、集落発祥の地としては、ナカマムリ(仲間盛)一帯が仲間村で、その北に大口、東に仲栄・多田・古場川(久場川)・西・慶田城・玉得・大津原(内原)といった小村があった伝わる。その後、風水師の見立てにより、1686年(康煕25年)頃、仲間、大口、仲栄、多田の四村が、古場川・大津原両村へと移住し続け、加えて1909年(明治42年)頃までに、西・慶田城・玉得の三村も移転し、その結果、川平村が現在の元となる古場川(上の村)・大津原(下の村)の二集落になったされている。


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●伝承地
沖縄先島・沖縄県石垣市川平~昔、仲間村の時代、村は節祭の日であった。当時は節祭の日が新年を迎える日だったので、村人は快楽の祭で賑っていた。夕刻になって或る旅人が仲間村にやって来た。この旅人は川平の北の海で難船して上って来た人で、身なりもみすぼらしい姿で仲間村に来て一夜の宿泊を乞い、各戸をまわったが、宿泊どころかだれも相手にしてくれなかった。旅人は大変困った。しかし村の南端にあと一軒まわっていない家があるので訪れて、各戸をまわって一夜を乞うたけれどもみな断わられたいきさつを話すと主人はいたく同情し、このような貧しい家でもよかったらと云うと、家の軒下でもよいからと云う。主人は家に招じ入れた。旅人は「よその家は新年を迎えて賑やかであるが、この家は淋しい気配がするのはどう云う訳か」と聞かれ、主人は「貧しくても火と水さえあれば満足である」と答えた。
 夜中になって、ふと主人が目を覚ますと庭で神々しい唱え声がするので、起きて見ると寝床に旅人の姿はなく、庭に立って神詞を朗々と唱えているので恐縮し、神詞唱えが終ったので再び招じ入れお茶を出すと、「私は人間に非ず、天の神より人の心を定めて諸物作りを授けるよう命を受けて来たものである。こゝに諸物作りの神詞を唱え授けたので、きっと幸福が迎えられるであろう。来年戊の戌の日に再来する」と云って姿を消した。そのことがあってから南風野屋の作物は豊作となり、牛や馬も購入出来るようになった。南風野屋の主人は天使に感謝し、再来の日を待った。果して翌年の約束の日である戊の戌の日、夜間に来訪された。その時は立派な神姿である。庭で再び神詞を朗々と唱えられた後、主人は家に招じ入れ、お茶を出し接待し、「お蔭にて神詞を授けられた通り、諸作物すべて豊作が迎えられた」ことを報告し感謝申し上げると、来年三度目の来訪を約束して姿を消した。南風野屋の農作物は大豊作が続き家運ますます繁栄した。
 村の人々は独り南風野屋のみ豊作が続き、牛馬に至るまで繁昌する様を不思議に思い、主人に尋ねて真世加那志の天使の来訪と、神詞の唱えのことの次第を聞き知り、村人も信仰を希望したので三年目の来訪で、家中に案内のあと村人が信仰を希望している旨申し上げると、「村全部の人が信仰することこそ天使の目的を果すことである。然し神一人で全戸をまわって神詞の朗唱は出来ない。己の目的も果したので来年からは来訪しない。その代わり神の代理として戌年生まれを元にして、他の人組をして毎年各戸を訪問し、神詞を唱えること、各戸訪問の前に元である南風野屋にて、戌年生まれの元により神詞三句を朗唱し、後、杖を突き「ンー」の合図で一般にまわるようにせよ」と云われたので、主人は感謝の言葉を述べ更に、天使の神詞朗唱の御蔭様でフーユー、マーユー(世果報)を迎えたので、豊作のお米などで造ったものを神の島へのみやげにもって行って下さいと差し上げたので天使も満足し、姿を消したということである。(『川平村の歴史』)
沖縄先島・沖縄県石垣市川平・下の村~昔、内原村(下の村)の田多屋(たあだ)の娘が、ある夜、倉を見回りに行きながら、パシィヌ井戸で水を汲んでいると、倉の屋敷で、どこから来訪されたか知らぬ異様な二人の神が、神詞のようなものを唱えておられるのを聞く。娘を見とがめられた神々に娘は、神詞を全部聞くことを願って聞き届けられる。さらに娘は、神に来宅を請うが、神々は来年の八月戊(つちのえ)の戌の日に再訪を約して帰られる。次の年の八月戊の戌の日、約束通り神々は、田多屋を訪ね、今度は父娘ともどもこれを迎えると、再度、神詞を宣りなさる。父娘は、神詞を覚えるために、翌年の来訪を乞うと、神々は諒承された。このことがあってから、田多屋は不思議とみごとに農作物が稔り、子宝に恵まれるなど、幸せが重なる。これを聞き知った親類や村人までも、次の年の神々の来訪を待つと、八月戊の戌の日、約束通り神々が来訪されたので、村人一同でこれを迎えた。この年を最後として、神々は来訪されなくなったので、それ以後は毎年、戌年生まれの者を二人選び、この神に扮装させ、戊戌の日に、まずパシイヌ井戸で口をすすぎ、それから各戸を巡って神詞を宣るというようになった。(『八重山民俗誌』上巻)
同右~昔、田多屋の畑に洞穴があった。そこにある日、二神が来訪されて五穀に関する神詞を宣っておられたが、この二神が来訪される年は、不思議と豊作が続き、また二神が出現なき年は、凶作となったので、村人たちは二神の出現される日を待ち望んでいたところ、その日はいつも戊(つちのえ)・戌の日であった。そこで村人たちは、戌年生まれの人を神に扮装させ、神が宣られた神詞を各戸ともども巡訪して奉ずるようになった。(同右)


ユーチューブ
https://www.youtube.com/watch?v=hnV-jOZojzQ

https://www.youtube.com/watch?v=a1QqsTkpUes



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くがなーサン、こんにちは。

中国人を救助した話は、
確か、大正時代の話であった筈で、
あまりに、歴史が新しいのに、
それをもって我が国の領土とする意見があるのには、
違和感を感じてしまいます。

もっと、きちんと多方面から、
歴史はきちんと整理されるべきです。

尖閣諸島と、ひとまとめにしているのは、
あくまで便宜的なだけであって、
またそうしたい人間の意図が見え隠れします。

実際、乗っているプレートが違う、島々を一緒にするのは、少し変な気がします。

ただ、
よく調べもせず、尖閣諸島のまともな解説もなく、
「尖閣諸島」という言葉だけを広めている、マスコミの無知には呆れ果てます。

感情に左右されて学問は成り立たないので、
少なくとも私は、学問的に考えていきたいと考えています。
そして生活や暮らしの中では、豊かな感情を大切にしていきたいものです。

いつもコメント、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年12月04日 06:27


こんばんは
尖閣とは言うものの魚釣島とは中国名であり、正確には日本名では和洋島ですし、他の北小島や南小島や赤尾嶼や黄尾嶼などは和洋島とは違う島々ですね、これらの雑多に石垣や西表の沖にある細かな島々こそが尖閣諸島であるはずです。現に中国船が問題を起こした地点は久場島こと黄尾嶼の北方12km地点ですし、本来八重山方言での八重山北方の細かな島々はイグンクバシマと呼ばれており、意味は銛さえ持参すれば魚が穫れる雑多な島々ですしね。
石垣市博物館にある中国人を救助して中華民国長崎領事から感謝状を貰った玉代勢孫伴は私の親戚の先祖に当たります、玉代勢孫伴の末裔の八重山古典民謡で県無形文化財、国重要無形文化財の芸能黒島口説保持者の黒島出身の玉代勢泰興先生はこの件での相次ぐ問い合わせに忙殺されていたそうです。
話は変わりますが内離島の集落成屋村を島建てして現在西表島に引き上げた那良伊屋(なりーや)の生まれの西表島の民謡歌手が那良伊千鳥さんです。余談ですが。
Posted by くがなー at 2010年12月04日 02:54


こんにちは。

さすが、くがなーサンです。
私は、川平については、正直なところ、調べきれず、
よく分かっていませんでした。

内離島(うちぱなりじま)、
本で読んで知っていましたが、僕が知る人で知っていたのは、
くがなーサンが、初めてです。

尖閣諸島はいうものの、魚釣島と、他の2島は、本来は違うはずですが、
色々な意見や、まやかしが多いですね。

ようは、海の中にある資源が、両国とも(台湾を入れると3国)、
欲しいだけの事、つまり、政治です。

いつも、ありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年12月03日 07:09


石垣島の多良間村の痕跡とも言えるゆんたに多良間ゆんたがあります。伝承地域は石垣字などですね。川平村は複数の小さな集落が段々集まり、仲間村、川平村、上川平村などに大きく分けられた上て川平村を形成したそうです。西表島の仲間川の河口近辺にも仲間村はあったようですね、八重山は津波やマラリアなど様々な複合要因での廃村が多数ありますからね。内離島の成屋村は内離からの根本的撤退が原因ですし尖閣の魚釣島の村は登野城の分村扱いでしたが鰹節とアホウドリの毛皮加工工場の閉鎖に伴い撤退など理由は様々ですね。
Posted by くがなー at 2010年12月02日 19:43


くがなーサン、こんにちは。

南風野屋という言葉を見て、
最初に、南風野喜作先生の、御名前が浮かびました。

多良間から、稲作粟作の為に渡って来た時のための村というお話、
初めて、知りました。
また、与那国と多良間を交換した話も、知りませんでした。
ありがとうございます。

ただし、
琉球王府から見た、
沖縄本島以外の島々の話は、
もちろん、琉球国の様々な国書などによって良くわかったりしますが、
民話のおもしろさは、
そこからでは見えない部分が、色々とわかる点にあります。

よく覚えていなくて、いつの時代だったか忘れましたが、
記憶では、川平村には、ある時期、9つの村があって、
その一つが、仲間村だったそうで、この話が指すのも、それだと思います。

ただ、古い文書の仲間村は、気をつけなければならないようですね。
初めて、調べた時、結構、混乱しました。
西表島にもあります。

沖縄は、村の変遷が、とっても難しくて、
僕のような素人には、デージ大変です。
今でも、しょっちゅう、間違えてしまいます。

川平なども、「カビラ」「カピラ」の2つの表記が、民話に出てきたりして(笑)。

いつもコメント、ありがとうございます。
とっても、勉強になります。
ありがとうございました。

では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年12月01日 07:20


かめきちサン、こんにちは。

ありがとうございます。

まったく早いもので、いよいよ年の瀬、師走に入りました。

かめきちサマ、そして、ご家族みなさまもまた、
風邪をなどひかないよう、ご自愛ください。

取り敢えず、ちばっていきましょう。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年12月01日 06:59


ちなみに仲間村は移動などの変遷の上最終的には川平村に編入されていますよね。川平村の仲間サカイにより詠まれた鷲ゆんたが現在鷲ぬ鳥節に変化していますが、仲間サカイは元々仲間村の出の方でしたね。色々思い出してきました。
Posted by くがなー at 2010年12月01日 04:38


南風野屋ですか
石垣の南風野喜作先生を思い出しますね。
この前の多良間の話の保田盛屋の保田盛さんも今は平真辺りにいらっしゃる苗字ですね。
案外民間伝承にある家の方々っ現在も現在だったりしますね。石垣島東北部の多良間村は廃村になりましたが多良間からの稲作粟作の為に多良間から石垣に渡って来て作業するための村だったようですね、今でも多良間田などの多良間からの農民由来の地名が残存していますね。
よく考えたら多良間は与那国が宮古の飛び地的に宮古郡であったのを本来八重山郡であった多良間とを交換する形で宮古郡編入となり、与那国が八重山郡帰属と言う歴史変遷から見ても関連は深く、民間伝承レベルでもよく関連してくるのだなあとつくづく思いました。
Posted by くがなー at 2010年12月01日 04:33


横浜のtoshiさん、こんばんは。

もう明日から、12月ですね。
今年もあと1か月、風邪などひかないよう、ご自愛ください。
Posted by かめきちかめきち at 2010年12月01日 00:38


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