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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第60話。
むかし
それを
「おや、
これはきっと
そこで、それまで
そのことを
「なにも
そして
子どもが生まれて、
さて、この子が、七、八歳になった
王は、
それからというもの、子どもが
そんなある日のことです。
その子どもは
そして言うことには、私は
それから子どもは、
また、多良間島には
こうして、それからはこの子どもの
その
父が
そのためには、私の
こういった
※この話の参考とした話
①沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~『多良間村の民話』
②沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~『多良間村の民話』
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●伝承地
①沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~豊見親の妾だったそうですよ、昔、この家の娘はね。ある時、豊見親が出かけて来られると、その娘は、庭で太陽に向って寝ていたらしいよ。これを見た豊見親は、「おや、不思議なことだ。太陽の光がさし込んでいるから、きっと子どもを授かったに違いない。おそれ多いことだ」と思い、「ああ、私は自然に離れよう、あまりにおそれ多いことだ」と毎日通って来た人が、あまり通わなくなったらしいよ。そして、そうすれば、子どもを授かるということを知らないで、ただ淋しいからと寝たのでしょうが、妊娠しているとも気づかずにいて、とても悩んでいたらしく、「おかしい、私は豊見親の他には、別に他の人と関係したことはないのに」とがっかりしていたそうです。豊見親は、「そう残念がるんじゃない。生まれたら、きっと印があるはずだから、それから考えなさい」とおっしゃったそうです。
案の定、生まれると、胸に太陽、背中には月の形のある子が生まれたので、「こういうことなので、私はあんなに言っていたんだよ」と言い、自分でお産の世話もなさったそうです。この子が七つ、八つの頃、多良間にそういう子が生まれていると聞いた王様が、「その人はどんな生まれだろう。あんな小さな多良間の離れ島に、そんなことはまだ聞いたこともない」と不思議だと呼び出した。もう子供ながらに行き来して、何歳かの頃までだろうか、沖縄と行き来していたそうだ。
ある時、意外に死んでしまったので、葬式をしょうと、悲しんで集まった人が囲んでいると、大きなくしゃみを「ハックション」として、目を開けたそうです。「私は死んでなんかいないよ。天の父から相談のため呼び出され、行って父の教えを受けて来たのだよ」と。彼の言う天からの話とは、多良間島は、その野蛮な生活だったので、天からタバコを一つ持って来て、それを少しずつみんなに分け、また本当に、何もない島だったらしいので、「多良間島は、こうこう、これこれのことをして、島建てをすることができる」とこの屋敷の神様が、村を建て、民をふやしたそうですよ。そしてもう、百二十歳の時亡くなったそうです。そして、その時の遺言に、「私は、父がおそれ多いので、一ケ所に葬らないでくれ。私の名は名人太郎と言い、この家の子孫に至るまで、また、この家から分家する子孫まで、みんな他人にいじめられることもなく、また他人の下にもならず、常に他人の上に立って暮らすはずだ。それは、私の神助けのためだから私を氏神様として拝んでいくように」と言われたそうだよ。(『多良間村の民話』)
②沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~昔、カンダトゥ(安里)家に男の子が生まれたが、その子の背中には、太陽の型の円い斑点がついていた。このことが、琉球王の耳に聞こえ、首里に招かれ、六ヶ月養育された後、多良間に帰郷した。その折の約束で、シンドウ(船頭)と運城御嶽のッカサ(司)は、この家から出ることとなった。(『多良間村の民話』)
①沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~豊見親の妾だったそうですよ、昔、この家の娘はね。ある時、豊見親が出かけて来られると、その娘は、庭で太陽に向って寝ていたらしいよ。これを見た豊見親は、「おや、不思議なことだ。太陽の光がさし込んでいるから、きっと子どもを授かったに違いない。おそれ多いことだ」と思い、「ああ、私は自然に離れよう、あまりにおそれ多いことだ」と毎日通って来た人が、あまり通わなくなったらしいよ。そして、そうすれば、子どもを授かるということを知らないで、ただ淋しいからと寝たのでしょうが、妊娠しているとも気づかずにいて、とても悩んでいたらしく、「おかしい、私は豊見親の他には、別に他の人と関係したことはないのに」とがっかりしていたそうです。豊見親は、「そう残念がるんじゃない。生まれたら、きっと印があるはずだから、それから考えなさい」とおっしゃったそうです。
案の定、生まれると、胸に太陽、背中には月の形のある子が生まれたので、「こういうことなので、私はあんなに言っていたんだよ」と言い、自分でお産の世話もなさったそうです。この子が七つ、八つの頃、多良間にそういう子が生まれていると聞いた王様が、「その人はどんな生まれだろう。あんな小さな多良間の離れ島に、そんなことはまだ聞いたこともない」と不思議だと呼び出した。もう子供ながらに行き来して、何歳かの頃までだろうか、沖縄と行き来していたそうだ。
ある時、意外に死んでしまったので、葬式をしょうと、悲しんで集まった人が囲んでいると、大きなくしゃみを「ハックション」として、目を開けたそうです。「私は死んでなんかいないよ。天の父から相談のため呼び出され、行って父の教えを受けて来たのだよ」と。彼の言う天からの話とは、多良間島は、その野蛮な生活だったので、天からタバコを一つ持って来て、それを少しずつみんなに分け、また本当に、何もない島だったらしいので、「多良間島は、こうこう、これこれのことをして、島建てをすることができる」とこの屋敷の神様が、村を建て、民をふやしたそうですよ。そしてもう、百二十歳の時亡くなったそうです。そして、その時の遺言に、「私は、父がおそれ多いので、一ケ所に葬らないでくれ。私の名は名人太郎と言い、この家の子孫に至るまで、また、この家から分家する子孫まで、みんな他人にいじめられることもなく、また他人の下にもならず、常に他人の上に立って暮らすはずだ。それは、私の神助けのためだから私を氏神様として拝んでいくように」と言われたそうだよ。(『多良間村の民話』)
②沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~昔、カンダトゥ(安里)家に男の子が生まれたが、その子の背中には、太陽の型の円い斑点がついていた。このことが、琉球王の耳に聞こえ、首里に招かれ、六ヶ月養育された後、多良間に帰郷した。その折の約束で、シンドウ(船頭)と運城御嶽のッカサ(司)は、この家から出ることとなった。(『多良間村の民話』)
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暁のカメラマンこと、仲本様。今日拝がなびら。
実は、
民話を調べ始めた当初、
宮古周辺だけが、他と違う場合が多くて、
僕も、宮古には、じっくり行ってみたいと考えています。
じっくり向き合うべき、島の気がして、なりません。
独特の文化圏と言えます。
八重山の方が、むしろ、沖縄本島や内地に近かったりします。
それだけに、宮古は、楽しみなんです。
仲本様も、宮古、是非、楽しんでいらして下さい。
私は、沖縄本島は、今まで何周もしました。
この冬の18日間で、残る伊是名、伊平屋、粟国、津堅に行ってきます。
沖縄本島は、ほぼ離島も含め、回りきることになります。
そこで、来年は、
是非、宮古島を中心に、あちこち回ってみる予定です。
私も、仲本さんはじめ、素適なウチナンチューの方々との御縁に、
感謝しております。
私は、戦争というと、沖縄戦を、真っ先に思い出します。
実際に、戦跡もいくつか訪れ、本や資料もそれなりに持っています。
「戦場のカメラマン」というと、
私は、渡辺陽一さんの写真は、浮かばないんです。
浮かぶのは、
例えば、沖縄戦、伊江島で亡くなった、アーニーパイルさんかな。
あと、映画では、
日本の『火垂るの墓』、
そして、オリバー・ストーン監督の数々の作品は、
やはり、若い頃に観て、かなり衝撃的でした。
何をするにも、命がけで、本物の作品に比べると、
私など、遊んでいるようなもんだなあ。反省。
では。
実は、
民話を調べ始めた当初、
宮古周辺だけが、他と違う場合が多くて、
僕も、宮古には、じっくり行ってみたいと考えています。
じっくり向き合うべき、島の気がして、なりません。
独特の文化圏と言えます。
八重山の方が、むしろ、沖縄本島や内地に近かったりします。
それだけに、宮古は、楽しみなんです。
仲本様も、宮古、是非、楽しんでいらして下さい。
私は、沖縄本島は、今まで何周もしました。
この冬の18日間で、残る伊是名、伊平屋、粟国、津堅に行ってきます。
沖縄本島は、ほぼ離島も含め、回りきることになります。
そこで、来年は、
是非、宮古島を中心に、あちこち回ってみる予定です。
私も、仲本さんはじめ、素適なウチナンチューの方々との御縁に、
感謝しております。
私は、戦争というと、沖縄戦を、真っ先に思い出します。
実際に、戦跡もいくつか訪れ、本や資料もそれなりに持っています。
「戦場のカメラマン」というと、
私は、渡辺陽一さんの写真は、浮かばないんです。
浮かぶのは、
例えば、沖縄戦、伊江島で亡くなった、アーニーパイルさんかな。
あと、映画では、
日本の『火垂るの墓』、
そして、オリバー・ストーン監督の数々の作品は、
やはり、若い頃に観て、かなり衝撃的でした。
何をするにも、命がけで、本物の作品に比べると、
私など、遊んでいるようなもんだなあ。反省。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年12月13日 07:50
toshi さん
この昔話も興味津津で読みました。胸に太陽背中に月陰陽ですね。
近頃は宮古島周辺諸島に何かあるのではと気になっておりました。
こんな時この天太の子の話toshiさんとは何かのご縁と感謝いたしております。私も近々行ってまいります。ありがとうございます。
私は自笑『暁のカメラマン』と命名
「戦場のカメラマン」 渡辺陽一さんを真似ました。
お許し下さい。
この昔話も興味津津で読みました。胸に太陽背中に月陰陽ですね。
近頃は宮古島周辺諸島に何かあるのではと気になっておりました。
こんな時この天太の子の話toshiさんとは何かのご縁と感謝いたしております。私も近々行ってまいります。ありがとうございます。
私は自笑『暁のカメラマン』と命名
「戦場のカメラマン」 渡辺陽一さんを真似ました。
お許し下さい。
Posted by 仲本勝男 at 2010年12月12日 20:47
にかちゃん、こんにちは。
まだ、宮古周辺は、僕にはよくわかっていないので、
整理ができていないんです。
「豊見親(とぅゆみゃ)」は、「名高き領主」という意味だそうで、
宮古周辺の島々で、地域の豪族をまとめる人の称号として、
使われたようです。
宮古周辺の島々の民話で、「豊見親」が出てくると、
僕は、いつも頭を抱えてしまいます。
にかちゃんが言われるのは、
金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親の伝説でしょうか。
仲宗根豊見親の死後、長男の仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親に、
1526年の「大獄城の変」で、滅ぼされた人のようですね。
金志川豊見親は、
有力な豪族の上、勇知にも優れ、善政を行ったので、
人々から信望が厚かったそうです。
それが災いして、暗殺されたとか。
金志川豊見親は、土に埋葬されると、
その棺が、7回、地表に這い出たそうです。
その無念の魂を鎮めるために、村の人々は祠を建て祀ったとか。
ところで、
僕は最初、この物語の「豊見親」は、仲宗根豊見親かなと思いました。
でも、
多良間島とあることに気付いて、
それなら、多良間島の英雄、
「土原豊見親春源(んたばるとぅゆみゃしゅんげん)」だろうと思いました。
以前、土原大殿(つちはらおふどん)として、ブログに書いたからです。
ところが土原豊見親関連に、この話との関連性が、見られないのです。
そんなわけで、「豊見親」が誰だか、よくわからないのです。
すみません。
冬休みに、沖縄本島周辺の、伊是名・伊平屋・粟国・津堅に行きます。
これで一通り、回ったことになります。
そしていよいよ、来年は、宮古周辺の島々に、挑戦です。
コメントありがとうございます。
では。
まだ、宮古周辺は、僕にはよくわかっていないので、
整理ができていないんです。
「豊見親(とぅゆみゃ)」は、「名高き領主」という意味だそうで、
宮古周辺の島々で、地域の豪族をまとめる人の称号として、
使われたようです。
宮古周辺の島々の民話で、「豊見親」が出てくると、
僕は、いつも頭を抱えてしまいます。
にかちゃんが言われるのは、
金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親の伝説でしょうか。
仲宗根豊見親の死後、長男の仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親に、
1526年の「大獄城の変」で、滅ぼされた人のようですね。
金志川豊見親は、
有力な豪族の上、勇知にも優れ、善政を行ったので、
人々から信望が厚かったそうです。
それが災いして、暗殺されたとか。
金志川豊見親は、土に埋葬されると、
その棺が、7回、地表に這い出たそうです。
その無念の魂を鎮めるために、村の人々は祠を建て祀ったとか。
ところで、
僕は最初、この物語の「豊見親」は、仲宗根豊見親かなと思いました。
でも、
多良間島とあることに気付いて、
それなら、多良間島の英雄、
「土原豊見親春源(んたばるとぅゆみゃしゅんげん)」だろうと思いました。
以前、土原大殿(つちはらおふどん)として、ブログに書いたからです。
ところが土原豊見親関連に、この話との関連性が、見られないのです。
そんなわけで、「豊見親」が誰だか、よくわからないのです。
すみません。
冬休みに、沖縄本島周辺の、伊是名・伊平屋・粟国・津堅に行きます。
これで一通り、回ったことになります。
そしていよいよ、来年は、宮古周辺の島々に、挑戦です。
コメントありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年12月12日 08:54
Posted by にかちゃん at 2010年12月12日 00:59
コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。
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