天太の子 ~琉球沖縄の伝説

2010年12月11日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(4)琉球沖縄の伝説・沖縄先島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第60話。


天太(ていだ)()



 むかし(むかし)の、豊見親(とぅゆみゃ)(めかけ)女性(じょせい)の、お(はなし)です。
 豊見親(とぅゆみゃ)(かよ)っていた(さき)のその(むすめ)が、ある(とき)(にわ)太陽(たいよう/てぃーだ)(むか)って()ておりました。
 それを一目(ひとめ)()豊見親(とぅゆみゃ)は思いました。
 「おや、不思議(ふしぎ)なことだ。あの娘には太陽(たいよう/てぃーだ)(ひかり)()()んでいる。
 これはきっと太陽(たいよう/てぃーだ)()(さず)かっている人に(ちが)いない。
 (おそ)(おお)いことだ。」と。
 そこで、それまで毎日(まいにち)(かよ)っていた豊見親(とぅゆみゃ)は、その女性の(ところ)()くのを(ひか)えたのでした。
 一方(いっぽう)(いま)までは、毎日(まいにち)のように(かよ)って()てくれた豊見親(とぅゆみゃ)があまり()なくなったので、太陽(たいよう)()(さず)かったとも()らない娘は、(ほか)にすることもなく、(にわ)(さび)しく毎日、()て過ごしていたのでした。それでもやがて娘は、自分(じぶん)に子どもが(さず)かったと(さと)りましたが、豊見親(とぅゆみゃ)としか男女(だんじょ)関係(かんけい)になったことはないのに、豊見親(とぅゆみゃ)以外(いがい)(ひと)()妊娠(にんしん)したため、大層(たいそう)(なや)みました。
 そのことを()いた豊見親(とぅゆみゃ)はやって()て娘に言うことには、
 「なにも(なや)むことなどありません。あなたのお(なか)にいる()は、(かみ)()(ちが)いありません。()どもが()まれたら、きっとその(しるし)がある(はず)です。」と。
 そして豊見親(とぅゆみゃ)(むすめ)のお(さん)を、(みずか)手伝(てつだ)ったそうです。(あん)(じょう)、生まれてきた子には、(むね)太陽(たいよう)背中(せなか)(つき)(かたち)の、(しるし)がありました。
 子どもが生まれて、豊見親(とぅゆみゃ)は自分が言った通りだと大変(たいへん)(よろこ)んだそうです。
 さて、この子が、七、八歳になった(ころ)でしょうか、この太陽の子が多良間島(たらまじま)に生まれた話が(つた)わり、琉球國(りゅうきゅうこく)(おう)(みみ)(はい)りました。
 王は、実際(じっさい)、どんな()なのだろうと思いました。あんな(ちい)さな(はな)(じま)太陽(たいよう)()()まれるとは、不思議(ふしぎ)なことがあるものだと()い、そして、()どもを(しろ)()()したのでした。
 それからというもの、子どもが何歳(なんさい)になる(ころ)まででしょうか、その子どもは、多良間島と城を()()するようになったそうです。
 そんなある日のことです。
 その子どもは突然(とつぜん)()んでしまいました。
 葬式(そうしき)をするため、(かな)しんで(あつ)まった島の人々が子どもを(かこ)んでいると、その子は突然(とつぜん)、大きな(くしゃみ)をして目を()けたのでした。
 そして言うことには、私は()んだのではなくて、(てん)(ちち)から相談(そうだん)があるからと、()()されていただけだと()います。
 それから子どもは、(てん)であったことの話や、父の(おし)えを、みんなに話して聞かせました。
 また、多良間島には(なに)もないので、(てん)から煙草(たばこ)(なえ)を一つ持って行って、それを少しずつみんなに()けて(そだ)てるように言われたことや、多良間島での島建(しまだ)ての方法(ほうほう)などを(かた)って()かせたのでした。
 こうして、それからはこの子どもの屋敷(やしき)神様(かみさま)(むら)()て、(たみ)()やしていったそうです。そしてこの子どもは、百二十歳で()くなりました。
 その(とき)遺言(ゆいごん)には、こうありました。
 父が(おそ)(おお)くも太陽(たいよう/てぃーだ)(かみ)なので、私の亡骸(なきがら)一ケ所(いっかしょ)には(ほうむ)らないで()しいとありました。また、私の本当(ほんとう)()は、名人太郎と言い、この(いえ)子孫(しそん)分家(ぶんけ)する子孫(しそん)(いた)るまで、みんな他人(たにん)(さげす)まれるようなことがあってはならず、また他人(たにん)(した)にならず、(つね)人々(ひとびと)(うえ)()って世の中を平和に(おさ)める()らしをしなければならない。
 そのためには、私の神助(かみだす)けが必要(ひつよう)(はず)だから、これからは私を氏神(うじがみ)としていつまでも(おが)むがよい。
 こういった遺言(ゆいごん)であったそうな。


 
※この話の参考とした話
沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~『多良間村の民話』
沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~『多良間村の民話』


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.


●伝承地
沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~豊見親の妾だったそうですよ、昔、この家の娘はね。ある時、豊見親が出かけて来られると、その娘は、庭で太陽に向って寝ていたらしいよ。これを見た豊見親は、「おや、不思議なことだ。太陽の光がさし込んでいるから、きっと子どもを授かったに違いない。おそれ多いことだ」と思い、「ああ、私は自然に離れよう、あまりにおそれ多いことだ」と毎日通って来た人が、あまり通わなくなったらしいよ。そして、そうすれば、子どもを授かるということを知らないで、ただ淋しいからと寝たのでしょうが、妊娠しているとも気づかずにいて、とても悩んでいたらしく、「おかしい、私は豊見親の他には、別に他の人と関係したことはないのに」とがっかりしていたそうです。豊見親は、「そう残念がるんじゃない。生まれたら、きっと印があるはずだから、それから考えなさい」とおっしゃったそうです。
 案の定、生まれると、胸に太陽、背中には月の形のある子が生まれたので、「こういうことなので、私はあんなに言っていたんだよ」と言い、自分でお産の世話もなさったそうです。この子が七つ、八つの頃、多良間にそういう子が生まれていると聞いた王様が、「その人はどんな生まれだろう。あんな小さな多良間の離れ島に、そんなことはまだ聞いたこともない」と不思議だと呼び出した。もう子供ながらに行き来して、何歳かの頃までだろうか、沖縄と行き来していたそうだ。
 ある時、意外に死んでしまったので、葬式をしょうと、悲しんで集まった人が囲んでいると、大きなくしゃみを「ハックション」として、目を開けたそうです。「私は死んでなんかいないよ。天の父から相談のため呼び出され、行って父の教えを受けて来たのだよ」と。彼の言う天からの話とは、多良間島は、その野蛮な生活だったので、天からタバコを一つ持って来て、それを少しずつみんなに分け、また本当に、何もない島だったらしいので、「多良間島は、こうこう、これこれのことをして、島建てをすることができる」とこの屋敷の神様が、村を建て、民をふやしたそうですよ。そしてもう、百二十歳の時亡くなったそうです。そして、その時の遺言に、「私は、父がおそれ多いので、一ケ所に葬らないでくれ。私の名は名人太郎と言い、この家の子孫に至るまで、また、この家から分家する子孫まで、みんな他人にいじめられることもなく、また他人の下にもならず、常に他人の上に立って暮らすはずだ。それは、私の神助けのためだから私を氏神様として拝んでいくように」と言われたそうだよ。(『多良間村の民話』)
沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村仲筋~昔、カンダトゥ(安里)家に男の子が生まれたが、その子の背中には、太陽の型の円い斑点がついていた。このことが、琉球王の耳に聞こえ、首里に招かれ、六ヶ月養育された後、多良間に帰郷した。その折の約束で、シンドウ(船頭)と運城御嶽のッカサ(司)は、この家から出ることとなった。(『多良間村の民話』)


同じカテゴリー(琉球沖縄の伝説・沖縄先島編)の記事

この記事へのコメント・感想・ゆんたくはじめ、お気軽にお書き下さい。承認後アップされます。
暁のカメラマンこと、仲本様。今日拝がなびら。

実は、
民話を調べ始めた当初、
宮古周辺だけが、他と違う場合が多くて、
僕も、宮古には、じっくり行ってみたいと考えています。

じっくり向き合うべき、島の気がして、なりません。
独特の文化圏と言えます。

八重山の方が、むしろ、沖縄本島や内地に近かったりします。
それだけに、宮古は、楽しみなんです。

仲本様も、宮古、是非、楽しんでいらして下さい。

私は、沖縄本島は、今まで何周もしました。
この冬の18日間で、残る伊是名、伊平屋、粟国、津堅に行ってきます。
沖縄本島は、ほぼ離島も含め、回りきることになります。

そこで、来年は、
是非、宮古島を中心に、あちこち回ってみる予定です。

私も、仲本さんはじめ、素適なウチナンチューの方々との御縁に、
感謝しております。

私は、戦争というと、沖縄戦を、真っ先に思い出します。
実際に、戦跡もいくつか訪れ、本や資料もそれなりに持っています。

「戦場のカメラマン」というと、
私は、渡辺陽一さんの写真は、浮かばないんです。
浮かぶのは、
例えば、沖縄戦、伊江島で亡くなった、アーニーパイルさんかな。

あと、映画では、
日本の『火垂るの墓』、
そして、オリバー・ストーン監督の数々の作品は、
やはり、若い頃に観て、かなり衝撃的でした。

何をするにも、命がけで、本物の作品に比べると、
私など、遊んでいるようなもんだなあ。反省。

では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年12月13日 07:50


toshi さん
この昔話も興味津津で読みました。胸に太陽背中に月陰陽ですね。
近頃は宮古島周辺諸島に何かあるのではと気になっておりました。
こんな時この天太の子の話toshiさんとは何かのご縁と感謝いたしております。私も近々行ってまいります。ありがとうございます。

                          私は自笑『暁のカメラマン』と命名
「戦場のカメラマン」 渡辺陽一さんを真似ました。
お許し下さい。
Posted by 仲本勝男仲本勝男 at 2010年12月12日 20:47


にかちゃん、こんにちは。

まだ、宮古周辺は、僕にはよくわかっていないので、
整理ができていないんです。

「豊見親(とぅゆみゃ)」は、「名高き領主」という意味だそうで、
宮古周辺の島々で、地域の豪族をまとめる人の称号として、
使われたようです。

宮古周辺の島々の民話で、「豊見親」が出てくると、
僕は、いつも頭を抱えてしまいます。

にかちゃんが言われるのは、
金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親の伝説でしょうか。

仲宗根豊見親の死後、長男の仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親に、
1526年の「大獄城の変」で、滅ぼされた人のようですね。

金志川豊見親は、
有力な豪族の上、勇知にも優れ、善政を行ったので、
人々から信望が厚かったそうです。
それが災いして、暗殺されたとか。

金志川豊見親は、土に埋葬されると、
その棺が、7回、地表に這い出たそうです。
その無念の魂を鎮めるために、村の人々は祠を建て祀ったとか。

ところで、
僕は最初、この物語の「豊見親」は、仲宗根豊見親かなと思いました。

でも、
多良間島とあることに気付いて、
それなら、多良間島の英雄、
「土原豊見親春源(んたばるとぅゆみゃしゅんげん)」だろうと思いました。
以前、土原大殿(つちはらおふどん)として、ブログに書いたからです。

ところが土原豊見親関連に、この話との関連性が、見られないのです。

そんなわけで、「豊見親」が誰だか、よくわからないのです。
すみません。

冬休みに、沖縄本島周辺の、伊是名・伊平屋・粟国・津堅に行きます。
これで一通り、回ったことになります。

そしていよいよ、来年は、宮古周辺の島々に、挑戦です。

コメントありがとうございます。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年12月12日 08:54


ご無沙汰です。。

僕の実家のすぐ側に・・・
金志川豊見親の神社があります。。

子供の頃、よく境内で遊びました。。
幼心に金志川豊見親の伝説を聞いて・・
とても、憧れていたことを思い出しました。。
Posted by にかちゃんにかちゃん at 2010年12月12日 00:59


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
琉球沖縄の伝説・沖縄先島編」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法